第8話 大航海

 ホルシュタイン伯爵の会食は続く。こちらの報告を一通り終えた後は伯爵の自慢タイムであった。


「君たちも噂には聞いているかもしれないが、先日船が戻ったのだ」


 ホルシュタイン伯爵はごきげんであった。近年、大型のキャラック船が開発され、はるか遠くの東方との海上交易路に乗り出したというのが半年ほど前の話題だったか。大洋にはシーサーペントのような怪物がいるという話も聞く。果たして無事に帰ってこれるのかと船員やその関係者はさぞ不安であったろう。そしてレンズブルグ市民の今一番の話題はその船が東方より無事に戻ったという話だった。


 伯爵が自慢げに見せたのは、象牙のような美しい色合いの光沢のある壷に鮮やかな絵付けがされたものであった。目玉のような美しい模様のある人の背丈ほどもある大きな羽や、眩いばかりに輝く絹織物、東方で産出されるという煌びやかな宝石、そして香辛料といったものであった。しかし、アカデミーの人間なら目が向くのは書籍であろうか。


 交易先の東方のクリシュナ王国は古来より栄える国と聞く。しかし、陸路では片道半年、海路で片道3か月かかるという。行き来する者は少なく、交易品は非常に高価、情報もはっきりしない。伯爵自慢の品はクリシュナ王国で買い付けたもののようだが、さらに東の国のものも含まれているのだという。


 惜しむらくは……。当方の本は文字からして違うのでその解読・翻訳も一筋縄ではいかないとこであろうか。


 この航海にはアンネ先生の弟子が同伴したらしい。アンネ先生は航海における天文学の意義を語る。


「太古の昔から大地は球であろうと考えられています。北極星の高さは北に行くほど高くなり、南に行くほど低くなる。また季節によっても星の高さは変わります。これは球状の大地の回転軸がやや傾いているためと考えられています」


 アンネ先生はテーブルのりんごを手にして大地に見立てて指で示しながら解説する。天文学について語るときの彼女は妙に生き生きしている。


「星の観測で緯度、つまり、この球のどの高さにいるかが分かります。しかし、経度、この球の東西のどこにいるかを求めるのは非常に困難です」


 同じタイミングで起きる天体現象を2か所で観測し、その時刻を知ることができれば2か所のを知ることができる。りんごの上の違う場所に立ったふたりの人は、同じように星を見ることができるが、おなじタイミングをはかることが容易ではない。


 月食は離れた場所でも同時に観測可能な天体現象ではあるが、月食の影はうすぼんやりとしていて、どのタイミングで始まったかはっきりしない。タイミングは正確に測れなくては意味がない。大地は1日に1回転するわけだから、1時間で1/24つまり15°もの回転が生じる。精度1°で経度を測りたければ時間にして4分の精度でタイミングをはからなければならない。


 こんなに精度よくタイミングをはかれて、かつ、広範囲で観測可能な天体現象というのは今のところ確立していない。


 星の観測では経度を測ることはできないものの、緯度と、およその船の速度、航海日数といったところから海図を元にあたりを付けて航海しているというのが実情のようだ。それでも陸地の見える範囲で地形沿いに航海していた時代に比べれば、見渡す限り海原という外洋を航海できるようになったのだから航海術は大きく進歩しているといえる。


 大型船が開発されここ数年で遠方との交易が盛んになった。かつては陸路で相当の時間をかけて運ばれていたものが、大型船でわずか数か月で大量に運べるようになったのだから隔世の感がある。同じ重さの金よりも高価といわれた香辛料もずいぶんと流通するようになったようだ。



「弟子の報告によれば、クリシュナ王国までの航路の海岸線の測量をある程度行えたようです。技術的にどうしても東西方向については精度が悪くなってしまっていますが、基本的な地形は抑えることができたのではないかと思います」


 船の行き来が増えると、安全な航海のために正確な海図が必要とされる。必要とされるからこそ測量も盛んにおこなわれる。そして作られた地図は高値で取引されていた。アンネ先生の弟子もレンズブルグ伯爵直々の指令で測量を行っていた。他の地図を参考にするにしても、独自に測量したものがあるかないかでは話が違う。独自のデータがなければ与えられたものをただ鵜呑みにするしかないのだから。


 話は魔法陣にも及ぶ。


「今回の平方根演算魔法陣が実用化すると測量にも活用できそうですね。いや、しかしそうなると三角関数を扱える魔法陣が欲しくなりますか」


「今はクリシュナでつくられた三角関数表に頼っておるからな。魔法陣でできるなら建築でも広く活用できよう」


「アラン。どうだ、やれないか?」


 ホルシュタイン伯爵までも喰いつく。これは需要の大きな魔法陣なのだろう。


「今回の魔法陣で複雑な演算を行うための基礎が出来たように思います。しかし、三角関数表を無用とするような魔法陣となりますとなかなかの大作になりそうですね……。まずはニコロ先生に相談してみたいと思います」


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中世といえば大航海時代でしょうか。現代では地球上の地図は明らかになっており、正確な地図を Google Mapで眺めて遊べるような時代ですが、当時は世界が未知に溢れており地図も測量されて詳細に描かれている部分もあれば、伝聞で聞いた地形を想像で描いたような部分もありました。


例えば、アメリカの西海岸にある大きな半島、バハ・カリフォルニア半島は18世紀後半まで島なのか半島なのか決着がついていませんでした。カリフォルニア島伝説に基づき、この島と大陸の間、幻のアニアン海峡を抜けて北西航路を開拓しようとしたという話もあるようです。あらゆる大地が足跡で踏み荒らされている現代人の我々には、そうした未知に溢れていた時代にロマンを見出してしまうのでしょう。


マルコ・ポーロ(Marco Polo)の東方見聞録が1298年に出版されています。しかし、内容はにわかに信じがたいものでマルコ・ポーロは嘘つき呼ばわりされたとか。それでも1400年代半ばからの大航海時代に影響を与えていたようです。前述の幻のアニアン海峡もマルコ・ポーロの著作にちなんだ名前といいます。


緯度・経度の話が出ていますが、経度の計測は困難で1714年に英国政府より懸賞が出されています。高精度のゼンマイ時計、クロノメーターの登場により時刻と太陽位置の観測により経度が分かるようになったのでした。大航海時代よりもあとの時代というわけです。

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