第五回

 級友クラスメイトと下校の徒に就いた千枝が校門前に差し掛かると辺りが少々騒がしかった。その原因は勝子が校門前で佇んでいる事で在ったが、勝子は千枝を認めるとその元へ歩み寄る。

 辺りでキャ〳〵と歓声を上げる生徒と違い千枝と共に居た級友は不良の勝子の事が苦手であったので勝子の歩みに合わせて後ずさる。

 眼前からその級友が見えなくなったところで勝子は

 「悪いのだけれど千枝さんを貸して下さらないか知ら」

 と、そちらを向き直り級友に告げる。

 自分の事等勝子の眼中に無いと考えて居た級友は自信家の勝子の力強い凛とした視線に捉えられ

 「どうぞ」

 と、思わず応えてしまう。

 其れが思わぬ出来事であったのは千枝とて同じ事だが勝子は

 「行きましょう。千枝さん」

 と千枝を連れて行ってしまう。

 一人残された千枝の級友はあっけに取られ辺りは未だキャ〳〵と歓声を上げている。

 「あの、何方へ。友達が居りますの」

 「あら、『どうぞ』と言われたわ。そんな事より千枝さんが返事を出して下さらないから待ちきれなくて会いに来てよ私」

と、勝子が言うと手紙の事かと察した千枝は

 「はあ。御免なさい」

 と、謝るが

 「あン。謝ってほしい分けじゃないわ。そうじゃないのよ。ね、どうして? 私に渡す方法が分からなかったかしら? そんな事、私を知っている誰かに頼めばきっと届くわ」

 勝子は自分が学校で名が知られている事を理解していた故の言葉であった。しかし、千枝は勝子の事も更に紗代子の事も知らずに居たのでそんな事は思いもしなかった。そして、千枝は所謂エスレターの事も知らなかったので晴子に相談するも、未だエスが何か分からないで居た。其れ故に千枝は勝子になんと返事をしてよいか分からなかった。

 「さあ、乗って」

 と、勝子に云われた千枝はそれを見遣る。

 校門の奥には俥と車夫が停まっており勝子と千枝を待っている様子であった。

 云われるが儘に俥に乗り込んでしまった千枝は行き先を知らない。

 すると続いて乗り込んだ勝子が

 「待たせてしまって御免なさいね。〇〇〇に家が在るから其処まで行って頂戴」

 「へい」

 と、車夫が辺りを見渡し出発する。

 人を抜き際、

 「あらよっと!」

 と発して去って往く。

 「私の家へ来ない千枝さん。ねエ、良いでしょう」

 と、全然手紙の話を気にしてないのか勝子は話題を変えると共に千枝に行き先を告げる。

 「はあ、其れは構いませんが下宿の女将さんが心配するかも知れません」

 「それもそうね。千枝さんの下宿は何方か知ら」

 素直に納得した勝子が千枝に問うと千枝は勝子に下宿先の場所を教えた。

 少しの刻考えた勝子が

 「あの何を売っているか分からない二階建てのお店ね」

 と、あけすけに応えると其れに驚いた千枝も返す。

 「お店ですか」

 と、千枝は自分の下宿先が商店である事に気付いていなかった。

 「そうよ。看板に屋号と電話番号を載せていた筈よ」

 千枝は少し高い位置に在る小汚い看板に気付いていなかったが、勝子は閃いた。

 「家に着いたら電話を掛けましょう。其れが好いわ。千枝さんの家も電話があるなんてラッキーだわ」

 と、前向きな勝子であったが車夫に突然

 「止めて」

 と告げる。

 其処は『西洋舶来雑貨』と書かれた札を下げた一軒のお店の前であった。

 「此処で待っていて下さるか知ら」

 と、勝子は車夫に告げると次は千枝に

 「行きましょう。千枝さん」

 と、降車を促す。

 その店先にはアクセサリー等小物が飾られて居り前を通る者の目を引く。


 ○


 暫くして勝子が不満そうに

 「めぼしい物はなかったわね」

 と、言いながら店から出てきた。

 「お待たせしましたわ」

 と、車夫に言いながら

 「さあ、千枝さんも乗って」

 と千枝をエスコートする。

 二人共乗り込んで車夫が出発すると雨が降り出した。車夫が切って抜けた風が後方へと流れて千枝と勝子の袖を揺らぐ。雨の中を軽快に俥を飛ばす車夫は千枝達に雨粒まで飛ばす。

 寄り道をした千枝達は漸く勝子の家着いた。

 勝子は俥から降りると

 「此れを」

 と言って少しばかり色を付けた運賃を車夫へ支払った後、千枝を自らの家へと招いた。

 車夫がその場から去ると入れ変わりに小笠原家の下女が勝子の許へやって来て

 「お帰りなさいませお嬢様」

 と出迎える。勝子は

 「下級生の千枝さん。友達になったのよ」

 と自慢そうに告げると下女は

 「それは宜しゅう御座います」

 と応える。

 二人分のタオルを急いで持ってくる様言付かった下女は何処かへ行ってしまった。暫くしてタオルを手に還って来た下女が勝子にそれを渡すと勝子は濡れた千枝を拭い始める。千枝はどうにも落ち着く事が出来ず身躰からだを揺らしていると

 「じっとしているのよ」

 と勝子に注意されてしまう。

 勝子がタオルで千枝を包み込みながら下女に風呂を沸かす様言い付けると

 「承りました」

 と言い残し下女は又何処かへ行ってしまった。

 千枝を拭き終わった勝子が

 「此方こちらへいらしゃい千枝さん」

 と言って歩き出したので千枝が付いて行くと其処は応接間であった。

 「お風呂が沸けば〇〇さんが呼びに来るわ。此処で待っていて呉れるかしら」

 と下女の名を伝えた。

 千枝を応接間ヘと案内済ませた勝子もスタ〳〵と何処かへ行ってしまい戻って来た勝子の腕の中には客人の物も含んだ入浴の用具が抱えられていた。

 勝子が用具を置いて

 「これを使って頂戴。それと先に入っていてね千枝さん。用事を済ませて来るわ」

 と言って又何処へやら行ってしまう。

 応接間を出ると

 「千枝さんの下宿先の電話番号は何番だったか知ら」

 と呟きながら玄関先へと戻った勝子は電話室へと入り受話器を取っても尚考えていた。

 「そうだわ」

 と思い出せば電話機のハンドルを回し交換局へと繋がる。

 「何番へ」

 と交換手に聞かれると

 「△△△△番お願いします」

 の様に勝子は慣れた風で千枝の下宿先の不思議なお店に電話を掛けた。

 電話が通じ其れを受けた女将が応じると勝子はまず名乗り、それから今日の事情を丁寧に女将に話す。珍しい事も在るもんだと電話に出た女将の方はと云うと相手が話に有名な華族のお嬢様だったものだから珍し次いでに驚いた。

 事情を聴いた女将は了承して恐縮しながら電話を切った。

 勝子の家は外観が洋風なれば内装も設備も皆洋風で千枝は自分の下宿の物とは大きく異る其れを見渡して圧倒されていた。勿論、千枝は之れ程迄に洋風の統一されたうちは知らなかった――其実千枝は改良住宅というものを知らずにいたのでそれらが洋風の全然珍しいものに見えていた――。

 下女が応接間にやって来ると千枝は風呂場に案内された。

 ――結霜硝子が嵌め込まれた引き戸を引いて千枝が浴室へと入ると先ず湯気が辺りを包み込み蒸籠せいろに放り込まれた様な熱気を受け、続いて視界が開けるとコンクリートにタイル張りの空間が眼前に認められた。

 すると千枝は友人と回し読みした雑誌でしか観た事の無い洗髪に用いる器具を発見し見間違いでは無かろうかと不安に成りながらもの手前に在るbathchairに腰掛けると其れに顔を向け直して首を動かすのを止めた。

 視線の先に捉えた其れは恐らくはであろうが何分実物を見た事のない千枝にとって判明はっきりとはしない代物であった。

 すると突然戸がガラと開いた事に驚いた千枝が霞む其の方を視るや刹那、湯気をかき乱した中から入出たのは勝子であった。

 そのひとは紛うこと無き裸であった(此処は風呂場なので当然である)!

 胸を張って真直ぐに前を向いて一直線に千枝の許へと勝子がやってくる。

 洗髪に用いる器具であろう物を捉えた勝子は千枝の真後ろへと辿り着くと椅子が一脚しか無い為に少し右にて其の場で立ち止り屈んだ。

 「何をしているの?」

 と聞くも千枝の困り事を先回りして察したのか

 「其れはshowerよ。使った事がなくって」

 と言って千枝の前頭部付近に腕を伸ばしてshower headを右手に掴みながら

 「足許に石鹸があってよ。其れを取って頂戴」

 と千枝に告げる。其の千枝が間近にやって来た上級生を見るだけで呆けていると

 「どうしたのか知ら。可怪しな千枝さん」

 と微笑みながら千枝の顔を覗き込んでshower headを手に持ったまま断髪をかきあげ自らの額を千枝の額に合わせる。

 「こんな所で寝ては風邪を引いてしまうわ。駄目ヨ」

 と云うとそのまま膝を突いて其の場に座り込んでしまった。

 「少し冷たいわ千枝さん」

 と云った勝子が千枝を抱きしめ温める。何時しか恥じらう千枝を他所に

 「さ、頭を洗いましょうね」

 と言いながら

 「あら、結紐がそのままよ千枝さん」

 と勝子が気づいた。

 「ア……」

 と漏らす千枝の結流しを手早くほどいてshowerで髪を濡らす。後ろ髪を総て流した千枝の毛を手でながら

 「烏の濡れ羽色とは此の事ね」

 と勝子が関心するも、珍しいものに目を奪われ結紐を解くのを忘れていた事に恥じらう千枝の心は行方知れずであった。

 心を取り戻した千枝は

 「家にshowerが在るなんて――」

 等と間の抜けた歯車の噛み合っていない様な返事をする。

 「気に入ったのなら何時でも居らっしゃいな。へやも空きがあるし私の室も広いから千枝さん一人位増えたってへっちゃらヨ!」

 と嬉しそうに話す勝子は何時の間にかshower headを元の位置に戻して石鹸を手に取ってすり〳〵と泡立てていた。

 「そんな、申し訳ないですから」

 と千枝が応えると

 「いいのよ。一人泊める位朝飯前よ」

 と勝子は気にも留めず雲を集めた様の石鹸の泡を千枝の頭の天辺に載せてワシ〳〵と頭を掻いて其処から両の手を絡めて素早く後ろ髪をすく。

 「銭湯に参りますから……」

 と千枝も譲りはしない。

 其の時、不意に千枝が瞼を開いた為に石鹸の泡が千枝の片方の目に入ってしまった。

 「あゝ、イケないわ。すぐに流さないと」

 と勝子が慌てる。

 「千枝さん。躰をこちらに向けて」

 と云われた千枝が勝子の方に体を向けると千枝の顔を覗き込み千枝の顔と目に付着した石鹸の泡を洗い流す。

 「じッとするのよ――そうよ」

 と暫く勝子は石鹸の泡を洗い流し続けた。

 「もうお終い。さあ、これで良いわ――マア、可愛らしい」

 茶化す勝子に千枝は照れてしまった。

 自らの仕事を誇らしげに成し終えた勝子は

 「さあ、こっちへいらっしゃいな」

 と千枝をいざなう。

 自らの許へ寄って来た千枝に

 「ゆっくり浸かるのよ千枝さん」

 と入浴を促す。

 こうして仲睦まじい姉妹の如く二人で風呂に浸かっていた。


 ――其れは息を飲む事すら忘れて仕舞う様な出来事であった。意外と面倒見の良い勝子を千枝は妹を案ずる姉の様だと考えた。

 其れは友人とお金を出し合って買った小説を回し読みしている時に見た姉妹の姿を千枝に思い起こさせた――。


 丸風呂の湯に浸かり次第に体が火照った千枝はもう上がる事にして勝子に其の事を告げると着替えは全て下女が用意していると伝えられ其れに促される様に千枝は風呂場を出た。

 千枝は小笠原家の下女が用意してくれたと思わしき着物に袖を通し着替え終わると脱衣場を後にした。この時千枝は(この家には風呂場に脱衣場があるのか)と今更ながらに関心した。

 風呂場の他には玄関しか知らぬ他人の家の事、千枝はこれからどうしたものかと考えていると此処は屋内であるにも関わらず視線の先に夜空を見付ける。その奥に(少なくとも千枝にはそう見えた)アンニュイに輝くみ星に吸い込まれる様に千枝はその方へと歩き出した。

 其処は露台バルコニーだった。

 千絵が暫く露台から見える星々に届かぬため息を吐いていると露台の出入り口から勝子が顔を出し

 「こんな所に居て。其の様では風邪を引いてよ」

 と千枝を室内へと招いている。千枝はまるで風邪を引きたがるおかしな子と思われたと思い恥じる様に勝子の後を追った。この時に聞いた話だが勝子もまた千枝と同じ独り子であった。千枝が勝子が姉でないのだとすると勝子の妹を案じる姉の様に感じた行いは上級生故かと思案していると

 「千枝さんの下宿先の方のお許しは先程頂いたから今日はもう遅いので家に泊まっていきなさいね」

 と勝子に告げられた。更に客人用のへやで寝るかの室で一緒に寝るかと問われたが今まで一緒に居た勝子と離れ〴〵になる事を想像すると突然見知らぬ家の夜の暗闇が恐ろしく感じた千枝は勝子の室を選んだ。

 其れを聞いた勝子が


  権兵衛さんの 赤ちゃんが 風邪引いた


 を歌い出すと千枝が

 「引いて居ませんわ」

 と拗ねる風に言う。

 すると勝子は次に


  カチューシャ可愛いや 化粧のききめ、広いみくにの外までも 高い香りの ララホーカー液


 と歌い出す。

 勝子の嬉しそうな歌聲が千枝に伝わり千枝も何だか嬉しくなった。そんな二人が勝子の室に辿り着くと

 「さあ、此処よ中に入って」

 と勝子に促された千枝は云われた通りに室の中へ入ると其処は又も小説で読んだ風の室だった。

 其処には大きな寝台ベッドが一つ在り其れは一つで二人分寝られそうな程大きいものでぐるりには書籍ほんの詰まった本棚が幾つか、机の上には手紙でも書いたのであろうインキ壷が片付けられずに出したままに置いてあった。

 一際ひときわ千枝の目に付いたのは文庫ではない本棚に詰められた書籍の数々であった。駆け寄って見た本棚の多くは小説で千枝は心を昂らせた。友人と小遣いを出し合って漸く買える小説が幾つも収められた様に千枝の心は躍った。同時に(こんなに沢山の小説を読んでも咎められないのか)と心の中では恐々としていた。又ウズ〳〵と燥ぐ千枝を見届けていた勝子も嬉しくなって云った

 「そうね、少しだけ夜更しをしましょうか。千枝さんの好きな御本を御覧なさいな」

 と提案された千枝は

 「本当ですか」

 と嬉しそうに返した。

 「其の代わり少しだけね」

 と勝子も応える。

 ――書籍を選んで振り返った千枝が座る所を探していると

 「此方へいらっしゃい千枝さん。此処の中なら温かいわ」

 と寝台に腰掛けた勝子が自分の隣りをポン〳〵と叩いて呼んだ。

 千枝がその中へ体を埋めると軽く浮き上がるふわ〳〵した掛け布団を勝子が千枝に掛て遣った。

 「楽しそうだわ千枝さん」

 「えゝ」

 と、千枝の躰を自分に寄せて温めて遣ろうとする勝子と書籍に夢中の千枝とでは二人の姿は対象的であったが何より互いに嬉しそうであった。暫くすると千枝が瞼を擦って眠気に負けまいとする。

 其れを見た勝子が

 「もう寝ましょうか千枝さん。書籍を貸して御覧なさい」

 と云うと女学校一年に成ったばかりの小さきひとに夜ふかしは早かったか千枝は素直に書籍を勝子に渡して眠る事にした。

 「又何時か読めばいいわ」

 と言って千枝から受け取った書籍をナイトテーブルに置いて千枝には掛け布団をよく掛けて遣やると自らも眠る事にした。

 それから、窓から漏れた日差しに気が付いて目を覚ました千枝が何気なく勝子の寝顔を眺めていると

 「もう覚醒めざめたのね」

 の声と共に目を開けて自分を見た勝子に驚嘆びっくりした千枝に

 「私の方が千枝さんの寝顔を見て遣ろうと心に決めていたのに悔しいわア」

 と続ける勝子は千枝に聞かれぬ様(いつかリベンジしたいわ)と心の中で呟いた。

 休校日の朝はこうして始まった。

 勝子に

 「千枝さんは朝が早いのね」

 と言われたが、勝子の室にあった置き時計を視ると(もう七時前)だと千枝は思った。

 室には既に二人分の着物が用意して在り片方は何と洋服であった。襦袢も腰巻きも一人分しか無く代わりに乳房バンド等が置いて在る。千枝には勝子が外国人の様に見えたがシュ〳〵と熟れた様子で衣擦れ音だけが聞こえる。その様子からは普段から洋装である事を伺わせる勝子は着替えを終え千枝の世話を焼く。

 「千枝さんは銘仙を着てね。洋服は私に合うものしか無いわ」

 と云われた千枝も着替えが済み、二人してダイニングに出ると小笠原家の下女が朝食モーニングの支度に追われていた。

 既に用意された分の朝食に千枝が目を奪われると勝子は

 「この間パン食が推奨されたでしょう。それで今度試してみましょうとうちでなったものだから。千枝さんはご飯の方が良かったか知ら」

 と、千枝がこれを好むかと問う。

 「いえ、珍しかったものですから、つい」

 と千枝は下宿先との違いを告げた。

 パンとは洋食屋で食べるものだと考えていた千枝は、少女雑誌か小説の人物様の生活をしている勝子と自分が並んでいる事を幻想小説に迷い込んだものの様に錯覚した。

 先程から驚かされてばかり居る千枝の考えを勝子が知る事はなかった。

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