第二回
下宿に還った千枝は先程出遭ったばかりのそれも名も知らぬ下駄箱の君の事を思い出し馳せていた。下駄箱の君と言っては何だか格好が悪いが千枝はそれでも構わなかった。
あゝ下駄箱の君
きっとそうに違いありません。
と言った具合に寂しい千枝は姉に憧れていた。そんな幻想が眼前から突然掻き消えた千枝の前には新たに勝子が現れる。途端に千枝は勝子から貰った手紙の事を思い出し雑嚢からそれを取り出した――取り出したまではよいがそこからが躊躇われた千枝は何をする訳でもなく封筒を眺めていた。
千枝が手紙を貰った
更に勝子の活発良しと断髪に井口阿くり式のブルマース姿でスポオツに勤しんだ結果、日に焼けてくすんだ
これが先生方に見付かり講堂の使用禁止を言い渡され、一部の者が民主主義に反すると反発。デモクラシーへと発展するが勝子の「ツマラナイわ」という一言により途端に沈静化する、と云うのが事のさわりである。
何時聞いたのかも知れない小笠原勝子の話を思い出しながら千枝は下宿先の自分の
それは夾竹桃の描かれた絵封筒に白百合の
- - -
(略)
千枝さん、私、
(略)
私ったら到底悪文だわ。御免して。
それから、上級生から突然とこんなお手紙を受け取って大変に驚かれている事でしょう。
それもご免してね。けれども私、貴女の事を思い出すととても〳〵寂しく思ってしまうの。
つい
でも違うのよ千枝さん。アメーバみたいな人だなんて思わないで頂戴ね。そしたら私悲しくなっちゃうわ。お願いね。
寂しくなるのは貴女の後ろ姿に良く似た女を見掛けてしまったからなの。
それからというもの貴女と一所に居られない事が寂しいわ。其の為にこんな御手紙を書いてしまったの。
我が儘ばかり云ってしまって本当にご免なさい。思い切って貴女に御手紙を
何だかつい沢山の事を書きすぎてしまうわ。
私ばかり話を聞いて貰ってご免なさい。この位で止めて置きます。
何時か御手紙ではなく会ってお噺しする
六月だと言うのに近頃は暑い日ばかりなのでどうか御躰に御気を付け下さいませ。
- - -
千枝は手紙に綴られている通り少し驚きもしたが、それよりも自分の一体何がそんなに好かったのかと不思議に思った。こうして手紙を読み終えた千枝は暫く通いの服装のままにまろびていたが、銘仙へと着替えようとしたところを下宿の女将に夕食の支度が出来たと呼ばれたので少しばかり悩んだ
◇ ◇ ◇
「夾竹桃と白百合とリラの花言葉は『私はあなたの他に決して友を持ちません』よ。勝子さんったら千枝さんに大変にネチなのね」
と晴子さんが千枝に花言葉の意味を教えている。
「一緒に遊んだりするの?」
友と聞いて考えついた事柄を素直に問うた千枝の周りには次第に級友達が集まり始める。
今は女学校の休み時間。
昨夜考え倦ねた千枝が刻を見て晴子さんに相談している最中だった。
「そうだけれど、そう言う事では無いわね」
晴子の物言いに訝しむ千枝に級友達は
「千枝さんはエスと言うのを聞いた事が無いのかしら」
「さあ」
「それにしても千枝さんたら
「誰よ」
等と此処は地方と言うのにまるで何処かのの町娘の言葉混じりに変な言葉遣いだがこれが流行りというものである。外履きに草履か下駄を履いたテクシーこそ伝統的な通学の法である。女学校に近い者は俥で登下校するが
「聞こえて居るわよ貴方達。それで何の話だったか知らん」
窘められた級友達は
「貴女が言い出したんじゃない」
「貴女だって」
とキャ〳〵と押し付け合うが最後には笑い合って
「はーい」
と一つ生返事をして千枝の次なる言葉を待つ事にした。
「エスってなあに?」
と千枝が聞くと級友達はざわめき立った後に互いに向き合ってキャーと歓声を漏らす。
それに続いて向こうの方に居た級友達までも千枝の側にやって来て
「千枝さんお姉様が出来たんですって?」
「何ですって?」
「千枝さんにもお姉様が出来たそうよ」
「どうしたの?」
と言った具合に話が明後日の方向へと向かい始め次第に大事になって来た。
「又、貴女達と来たらその様な話はしていないわ。全く、砂糖菓子に群がる蟻の子の如く。女三人寄れば何とやらとは言ったものだわ」
噂話を好む女学生にあっては某は誰彼とエスだとか、AさんとBさんが近頃意味深よねとか、Cさんがフォルトだとか、DさんとEさんがアルファオメガだの。
「それで千枝さんの御相手は何方なの」
と突然級友の一人に問いかけられた千枝は何の事か理解らず晴子に視線で助けを求めた。
(仕方ない助け舟を出して遣るか)と晴子が
「千枝さんの場合はそう言った事では無いのよ」
と代わりに級友に告げると
「なアんだ」
と一人興味を失うと
「じゃ、どういう事よ」
と代わりの級友が聲をかけた刹那、始業の鐘が鳴った。
それを聴いた級友達は仕方無しに散って行くが
「亦、話を聞かせてね千枝さん」
「必ずよ」
「ア! 私にも!」
と口々に好き勝手言い残して各々席に着いた。
結局、千枝はエスが何だか判らず仕舞いであった。
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