第一回
入学したばかりの頃には満開だった桜も
ふと千枝が周りを見渡しても下級生達は桜の木等お構いナシよ! と言わんばかりに全く気に留めずに各々
経済的のためとか衛生的、合理的だとか言われても裁縫が苦手な者達は大変に反対していた様だが喉元過ぎればという言葉通りであった。
何だか情けない心持ちに成った千枝は不満そうな
──そこには太陽から降り注ぐ光線が、中庭を三方に囲んだ校舎を過ぎ去り、生徒達を追い抜き、我が物顔で縦横無尽に行き交っていた。すでに五月も終わり、もう直梅雨の季節だというのに今日という日はまだ五月晴れだった──
未だに五月病の治らぬ太陽に千枝は――実際に中庭と渡り廊下の間には距離があるのだが――何だか自らと葉桜の巨木との間を分かたれた心持ちになる。暫く足を止めていた千枝にその始業の鐘が聞こえる事はなく、未だ廊下に残っていた僅かな人達が
その時、
「ハイ〳〵、皆さん静粛に。順番に。そんな事では千枝さんが困ってしまうわ」
と、手を打ちながら言った人が現れた。
その言葉を聞いた級友達は一斉に静まり返りその声の主に注目したかと思うとその声の主は千枝を取り囲む級友達をかき分けながら――否、少女達は自ずから身を引きあれよ〳〵とそこに道が出来上がったではないか!
千枝は眼前にモーゼの如き人を認めた。
その人は入学したての四月に
「御不浄って言うのはね、便所の事よ」
と教えてくれた
その
落ち着きを取り戻した級友達の一人が
「四年の
と千枝に
それを受けた晴子が
「そうしたら誰かが『新島さんならまだお戻り遊ばされません!』って仰った訳なのよ」
と続けると何処からともなく
「この子よ! この子が告げたのよ! 勝子様とお話なさるなんて恨めしい!」
と言った
それを皮切りとして途端に大論争が起こる。
そのかしましさと言ったら形容するには夏の避暑地の蛙の大合唱の様。
すると晴子が
「御覧通りよ。教室の半分位は各々にして小笠原勝子さんの話をしてざわめき立つ訳なのよ」
と言った。
こう成ってしまっては級友達はもう千枝への説明どころでは無い。
――凛然とした立ち姿に物怖じしない物言いと、奇妙なれどお似合いの髪型、快活明朗運動上手のこの上級生は一年生の半分程からは人気があった。反面佳き女、好い少女達からは不良と呼ばれていた。
そんな上級生の勝子に一同が注目する中、勝子はそんな事は俄然知らぬ顔で千枝の机の前まで一直線。千枝の席に到着するや否や、手に持って居た手紙を千枝の机の上にそっと置いてまたスタ〳〵と歩いて教室から出て行ってしまった。
その踵の返す速さにぽおッと見ていた一同はハッとしてまた
ある者は
「勝子様よ!」
と、亦ある者は
「不良の四年生よ」
と、口々に繰り返す。
勝子が教室を出て暫く少女達の喧騒は続いたがそこに千枝が教室に還って来たものだからそれは取り囲まれ、質問攻めにあう他無いと言う事の次第である。
「と云う事の次第よ」
喧騒の続く級友達に代わって説明をしていた晴子の話が終わると千枝は自らの机を見遣った。そこには切手の貼っていない一通の手紙がある。
――午前の授業を終え自然と集まった級友達は亦も千枝の机を取り囲む。各々キヤ〳〵と騒いでいる様子だったが晴子が
「日に焼けて如何にも快活そうな
と教えてくれたが他の級友達は晴子さんの御高説はもう結構との御様子。遂にはそんな事より手紙に何と書いてあったのか知りたいと千枝にせがみ、一同等しく興味があるのかあれ程騒いで居たにも関わらずその場で静まり返る級友達は千枝の方をじっと見つめる。
しかし、千枝の方はと云うと手紙というものは人様に見せる物ではないと考えから逃げる様にその場を後にした。
放課の鐘が鳴り千枝が自らの下駄箱へ向かうとそこには一人の少女が佇んでいた。
刹那、少女が振り向き千枝を認めると驚き「御免なさい」とだけ云ってその場から逃げ出す様に去ってしまった。その短き間の出来事故、千枝は呆けて様子を窺っていたがその
同時に自分が寂しい子であるかにも感じた。
――去り往く少女は勝子が昇降口の影に居た事に気附いたが少女は気不味くなり勝子の方を見ようとはせず其のまま去って行った。勝子の方はと云うと此れから自らが訪ね行かんとした下級生と別の女が二人で居る所を発見し慌てて物陰に隠れ身を潜めて恨めしそうにしていた。二人の少女のやりとりは千枝の方向から視る事は出来ず其の事に千枝は気附かずに居た。そして、去って行った女を呼び止めるにも名も知らずして呼び止める事の出来ない千枝の瞳は、しかし、
――校舎中を縦横無尽に行き交って反射する光線は我が瞳にあの懐かしき女の後ろ姿を写す為に在り遂に其の役目を果たしたのだ!
そう思うと千枝の関心は寂しくなった桜の枝葉からすっかり移り、朝の不満そうな面も忘れ未だ五月病を患った五月晴れの光線を疎ましく思う事も無くなった――
千枝は後ろ髪惹かれる思いであの女が去って行った方向を見守りながら、しかし、自らの履物を取り出すべく下駄箱を開ける。そして、あの女を思いながら浮かれる心持ちで下宿先へと帰って行った。
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