3日目 ~ながれるじかん~②




 トラクターの運転は、通常の車といくつか違うところがある。


 まず何より大きな違いが二つ。左右のタイヤをそれぞれバラバラに回転させることができることと、ハンドルの脇に手動のアクセルが付いていることだ。この手動アクセルは足踏みアクセルと違って手を離してもアイドリングの状態に戻ることは無く、エンジンをある回転数の状態でとどめておくことができる。この手動アクセルのおかげで、地面を耕す時に一定の速さでガシガシ耕す事が出来るのだ。


「よし、いいぞ、衣留。そのまま泉の縁にそって走らせろ。危なくなったらブレーキは俺が踏むから、心配しなくていいぞ」

「はいです」


 泉の縁に沿って、衣留がハンドルをゆっくりと傾けてゆく。


 現在の俺の状態を一言で表すなら『人間背もたれ椅子』だった。早い話、運転席に座った俺の足の間に衣留が座り、トラクターを操作しているのだ。やはり衣留の身長ではブレーキに足が届かなかった為、苦肉の策として考え出されたイノベーション的方法だ。ちなみに、考案者は俺ではなく衣留であると、あらかじめ言っておこう。俺の名誉の為に。


 なおミズミカミさまは、座席の後ろにあるわずかな隙間にすっぽりと入り込み、運転の仕方を俺の肩越しに真剣な表情で見つめていた。時折、ふーん、へー、わあー、という声と共に、ミズミカミさまの吐息が俺の耳をこしょぐった。


「よし、衣留、その辺でアクセルを戻せ。一回停まるぞ」

「ラ、ラジャーです」


 ハンドル脇の手動アクセルをアイドルの状態に戻す衣留。

 完全にトラクターが停まったところで、衣留はこらえていた息を、ビールを飲み干したオジサンのようにプハーと吐き出した。


「緊張したか?」

「はい、結構スリル満点でした」


 まあ、初めて乗り物を運転したらそう思うのも当然だろう。


 俺は衣留を適当にねぎらいながら、ぐるりと首を回した。きょとんとしたミズミカミさまの顔を飛び越え、トラクターの通った跡を眺める。


 先ほどまで雑草がまばらに生えていただけのそこは、今や柔らかな黒土がむき出しになった畑もどきに変化していた。もしフカフカの黒土の上にダイブしたら、きっと見事な人型を残すことが出来るだろう。頑張れば非常口ポーズの跡を作ることも夢ではない。


「もう一列ぐらい耕しとくか」


 俺は衣留を膝に乗せたまま足踏みアクセルを踏み、左のタイヤだけを動かした。その場でトラクターが回れ右をする。


 そこでミズミカミさまがおずおずと右手をあげた。


「わたしも……やってみたい……」


 座席の後ろからヨジヨジと這い出したミズミカミさまは、俺という険しい山脈を乗り越え、衣留の膝の上にちょこんと座りこんだ。


 下から俺、衣留、ミズミカミさまの順番に座ることになり、二人分の背もたれ椅子を手に入れたミズミカミさまは、どうにかハンドルに手を届かせることに成功した。


 もっとも手が届いたのはハンドルだけ。ブレーキは俺が、手動アクセルは衣留が操作しなければいけなかったが。


「衣留、いちおうだが」


 衣留の耳に顔を寄せ、小声でミズミカミさまのフォローをするように告げた。このトラクターのハンドルは少々重いため、おそらくミズミカミさまだけでは回せないだろうからだ。


「あ、はい。おまかせあれ、です」


 衣留はわずかにくすぐったそうにしながら、しかし満開に咲き誇ったひまわりのような笑顔を浮かべた。わずかに躊躇した後、俺の胸に今まで以上にもたれかかってくると、クスクスと笑い声を漏らす。


「ど、どうした、衣留?」

「いえ、その……ちょっとハッピーライフに浸ってまして」

「ハッピーライフ?」


 なんだそりゃ?


「こういうのって、なんだかすごく良いじゃないですか。まるで大草原の農家な一家みたいで。私、そういうのに憧れてたんですよね。のんびりと地面を耕して、お日様の光を浴びて……」


 衣留は目を閉じると、深呼吸する草花のように胸一杯に空気を吸い込んだ。

 そして息をゆっくりと吐き出すと、ほころぶように笑った。


「こんな体験ができたのも、店長のおかげです。ありがとうございます、店長」

「あー、まあ……どういたしまして、かな……」


 不意打ちのように放たれた、衣留からのお礼の言葉。


 そのくすぐったさに急に気恥ずかしくなり、俺は頬を伝う汗をわざとらしく拭った。衣留の背中と触れ合っている胸元に熱気が溜まり、じっとりと汗ばんでくる。


 俺はこほんと咳払いをすると、


「ほ、ほら、もう一列耕すぞ」

「ラジャーです、店長。ではではミズミカミさま、出発レッツゴーです」

「……れっつ……ごう」


 衣留が手動アクセルを引いた。我慢大会日和な日差しの中、「耕しちゃうぜ! オレ、耕しちゃうぜ!」とトラクターが進みだす。


 ハンドルを握る一人娘の顔は真剣そのもので、もし俺が「痛いよう! 踏まないで~」と叫んだら、泣きながら土下座してしまいそうなくらいだった。



 うむ、ちょっと見たくなったな、ミズミカミさまがベソをかく姿。



 いや、別にいかがわしい意味じゃなくて、単純な興味というかなんというか……例えるなら、眠っている赤ん坊の頬をプニプニしたくなる父親的パッションと一緒だ。たぶん。


 しかし俺の肺の中に閉じこめた酸素君と窒素さんが声に変化することはなく、次の瞬間、頭上から降り注いでいた熱い光線が突如ぱったりと途絶えた。俺たちの周囲だけ影が出来る。


「なんだ?」


 三人揃って上を見上げる。

 巨大なピンク色のクジラが、もの言いたげにこちらを見下ろしていた。


「…………あー、なにか?」

「る、るぅ~~!」


 俺と目があったとたん、ピンククジラはイタズラを見破られた子供のように、慌てながら入道雲の合間に隠れた。それでも気になるのか、チラチラとこちらをうかがっている。


 なんなんだ、いったい?


「どうしたんですかね、店長?」

「さあ?」


 首をかしげる俺たちとは裏腹に、ミズミカミさまはふと何かに気付いたように、


「……あ、水浴びの時間」

「水浴び?」

「そう。ルゥちゃんが水浴びする時間……」


 ミズミカミさまによれば、空飛ぶピンククジラことルゥちゃんはきれい好きで、毎日正午ごろになると、この泉に水浴びをしにやって来るらしかった。


 クジラなら海で水浴びすれば良いと思うが。


「それは、ダメ……海に浸かったら、せっかくの綺麗なピンク色が……海色に染まっちゃうから……」

「なるほど、それは死活問題だな」


 俺だって『入浴料タダ。ただしこの温泉に浸かったら全身が緑色になります』という看板のある温泉に入りたいとは思わないだろう。


「ルゥちゃんは恥ずかしがり屋だから……たぶん、知らない人に水浴びを見られるのが……恥ずかしいんだと思う……」


 ミズミカミさまは衣留にステータスモニターを開くように言った。

 パン、パン! と柏手を打ち、衣留がモニターを出現させる。ステータスの一部がいつのまにか更新されていた。




 ○ ルゥちゃん情報……ところにより赤面。




 よくわからんが、水浴びの邪魔をするのは悪いな。うん。


「しばらくどこかに隠れていたほうが良いか?」

「それより、もうお昼だから……どこかでお昼ご飯、食べてくるといいかも……」


 ミズミカミさまにそう言われ、俺は今更ながら自分が空腹なことに気付いた。同じく衣留のお腹からもキュルルというカエルが喉を鳴らしたような音が響く。


 ふむ、確かに良い時間なのかもしれないな。時計がないからわからんが、十二時まわったくらいだろうか?


 こういうときは、あいつを呼ぶに限るな。


「時々丸」

「待ってましただニャ!」


 耕された黒土の下から、ずぼっ! と巨大な三毛猫が顔を出した。


「グッド良い昼! ニャンと今は三日目の午前十一時五二分~ッ! 世界が終わるまで、残り一〇八時間と七分と四〇秒だニャ!」


 そう告げた後、時々丸はにんまりと笑みを浮かべた。人間背もたれ椅子状態の俺を眺めながら、


「ニャフフ、どうやらよろしくやってるみたいだニャね、草弥ニャン?」


 よろしくってなんだ、よろしくって。


「いかがわしい言い方するな、エロ猫」

「照れない照れないニャよ。せっかくだニャから、ナイスな英雄っぷりを見せる草弥ニャンに耳より情報だニャ。ランチなら、ノキナミ商店街にある喫茶店の特製ハンバーガーがおすすめだニャよ」

「意外にフツーの情報だな」

「これでもミーは情報通だニャからね。とにかくテイクアウトも出来るお店ニャから、ミーみたいな売れっ子には優しい限りだニャ。味もトレビア~ンだニャよ!」

「とれびあーん、か」


 猫の味覚が当てになるかは別として、確かに悪くはないな。


 再び土の下に潜っていった時々丸を見送り、きりの良いところまで耕し終わったところで、俺はトラクターのエンジンを一度切った。


 一瞬、すべての音が無くなったような感じがする。夏空の贈り物だろうか。ゆったりとした風が吹き、ほてった俺たちの肌を優しく撫でていった。


 すると、そこで再び衣留のお腹がキュルキュルと鳴る。

 衣留は上目遣いに俺を見上げると、イタズラっぽく、しかしちょっとだけ頬を赤くしながらこう言い放った。


「その……お昼にしましょうか、あなた?」

「……そうだな」



 きっと衣留の顔が赤いのは、お腹が鳴る音を俺に聞かれたからだ。


 とりあえずそう思っておいた。








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