第3話


   3.


 シャルギエルとは、雪の天使の名だという。その事を知った時、彼は思わず吹き出した。

 その名を与えられた自分の故郷は、眩しい雪原とも、凍える寒さとも縁遠い、暗く、そして蒸暑い場所だったからだ。その過酷な環境によって作られた己の姿が、全く真逆のものをイメージさせる事には、単純に驚いた。

「シャル、ごきげんよう」

 ひそりと背後から声をかけてきたのは、一月ほど前に知り合った可憐な魔女だ。彼女は彼を、親愛を込めて「シャル」と呼ぶ。

 「シャルギエル」そう彼に名づけたのは、このゴシック・フォレストの責任者をしている狡猾そうな男だった。グレゴリー・パーク全体の社風や社員待遇は良く知らないが、とりあえずその男に関して言えば、昔話に出てくる、せこくてあくどい、見世物小屋の座長のイメージそのままの風貌をしていた。やる事もそれに相応しく、このグレゴリー・パークと同じE‐19エリアのスラムで生活していたシャルギエル達をゴシック・フォレストのアクターに、と勧誘したその男は、こともあろうか彼らを足枷で繋ぎ、見世物としてここに陳列した。

 無論、シャルギエル、と呼ばれる彼の本名は別にある。

 彼の本当の名は「ケイン」。

 アキツからは遠く離れた彼の故郷は、アキツやツクヨミ内部とは異なり、人類の故郷・地球とは全く違う環境をしていた。彼が特殊な外見をしているのは、彼やその同胞達が、故郷の環境に適応・順応した結果なのだ。

 しかし、その故郷も今は既に無い。原因は戦争だった。

「ユリ、今日も来てくれたんだ。……今日は、あのドールはいないのか?」

 ユリはいつも、護衛の女性型ドールを連れているが、ケインはあのドールが、いや、AHMそのものがどうしても苦手だった。ケインは細い首を巡らせ、展示室の外を確認する。普段はよく、あの護衛ドールが入場客の通る順路の側から、こちらを監視しているのだ。

「ええ、シャルが桂は苦手とおっしゃったから、今日はなんとか撒いて来ましたの。……それに、ほら。お兄様にこっそり貸していただきましたわ。このカードがあれば、シャルの足枷を外す事ができるのでしょう?」

 ユリが肩にかけた小さなバッグから、カードを取り出して見せる。それは、このグレゴリー・パークの最高幹部らが持つ、最高権限を付与された管理者用セキュリティ・カードだ。このカードを使えば、グレゴリー・パーク内の電子鍵であればどんなものでもロック解除できるはずだ。

 こんな事をユリに入れ知恵したのは、他ならぬケイン自身だった。

 最近よくここへ遊びに来ていた魔女姿の少女がグレゴリー社長の娘だと知った時、ケインは今の屈辱的な状況を打破するための、絶好のチャンスだと思ったのだ。ケインは、毎日のようにやって来ては彼を熱心に見つめるユリに、そっと目配せや唇の動きだけでの囁きを送った。ユリはすぐにそれに気付き、従業員専用通路を使って足繁くこの展示室へ通うようになる。

 しばらくは日々、たわいない会話をしては別れるだけだった。しかし、その会話の中から、彼女がグレゴリーの末娘であり、両親や既にパークの経営に参加している兄たちからも溺愛されている様子を知った時、ケインは彼女を唆す事を決めたのだ。

「本当に貸してもらえたんだ」

 目の前に差し出された銀色のカードに驚く。それに気を良くしたのか、ユリは更に自分の背後を指し示した。

「ええ。それにほら、シャルをここから連れ出してくださる方もお連れいたしました。アキツの、ドール関連の何でも屋さんですわ」

 あの方たちでしたら、シャルや他の皆様にもっと良いお仕事を探してくださるでしょう。そう言われ、驚いてユリの背後を見遣る。暗い中で物を見ることに特化した代わりに、視力を犠牲にしたケインの眼に、朧な人影が映った。その人影は、瓦礫を伝うようにしてこちらへ段々と近づいてくる。

 意気揚々と今後の事を話し始めていたユリが、絶句しているケインを不思議そうに見上げた。

「どうか、されましたか?」

「いや……」

 ユリはケインを、「シャルギエル」という天使型のドールだと信じ込んでいる。

 その事をすっかり失念していたケインは、それ以上言葉が出ない。

「とりあえず、その足枷を外してやったらどうだい?」

 そう助け舟を出したのは、隣に繋がれている少女――いや、非常に小柄な体格の女だ。燃え上がるように波打つ赤銅色の巻毛が印象的な彼女はケインがツクヨミに来て以来の友人で、彼女もまた、故郷の特殊な環境によって、特徴的な体格・体質を得た民族の者だった。もっともケインから見れば、ツクヨミにいる「平均的」な人々も「特徴的」と言われる彼女も、自分よりは随分小さくて物珍しいという点で大した違いは無かったのだが。

「そ、そうですわね。これで良いのでしょうか?」

 促されたユリが、ケインの足枷の読取り部にカードをかざす。ささやかに電子音を立てて、読取り部横に光っていた赤いランプが緑へ変わった。錠の外れる音がする。

「待ってください、ユリさん……って、ああっ!」

 丁度到着したらしい同伴の少年が、ケインの足元を見遣って悲鳴を上げた。その反応に、ケインはまずいと警戒する。普段目の前の順路を歩いているような、一般客の一人にしか見えない少年だ。しかし、ケインにとって想定外だったこの少年は、ケインの計画の邪魔になる可能性が高い。

 咄嗟にケインは、ユリからカードを取り上げて隣の女――ゼルエルという天使の名を押し付けられた友人に渡した。驚いたユリから小さな悲鳴が漏れる。ケインの腕が掠めた魔女の三角帽が、はらりと床に落ちる。

 枷は外れた。ユリは驚いた顔でケインを見上げている。もう、後戻りは出来ない。

 長い腕でユリを抱き込み、ケインは手の平でユリの口を塞いだ。驚いた少年が、ユリの背後で制止の声を上げる。時刻は十七時四十七分。閉館まで残すところ十五分を切った館内には、幸いにして既に客の姿はない。桂と呼ばれる、あの護衛用ドールの姿も、ない。

「下手に動けば、ユリの安全は保証できない。僕の腕力でもこの子をくびり殺すことくらいは出来る」

 覚悟を決めたケインはもう一方の手をユリの首にかけ、眦を上げた、いかにも非力そうな少年に言い放った。




 ユリ・グレゴリーには両親の他に、歳の離れた三人の兄がいる。家族仲は良く、創立八十年になろうかというこの「グレゴリー・パーク」を一致団結して経営し、発展させてきた。十も歳の離れた末っ子として、そして待望の女児として生まれたユリは、両親、兄たちにそれこそ掌中の珠として大切に育てられた。

 何不自由なく、愛情たっぷりに育てられた彼女だったが、これまでの人生で、二つだけ得られなかったものがあった。それは、友人と恋人である。

 無論、このグレゴリー・パーク内には従業員の子女が通うための学校も存在する。しかし、ユリはその学校になじむ事が出来なかった。何故なら、この俗称「グレゴリー王国」の中で「グレゴリー」の姓を持つ彼女がそこへ通う事は、王家の姫君が庶民の学校に、身分を隠しもせずに通学する事に等しかったからだ。今更ながら、だったら偽名で通ってみればどうだったのか、などとユリ自身考えてみたりもするのだが、当時六歳のユリをリムジン後部座席の真ん中に乗せ、護衛用AHMの桂をつけて送り出した両親にその発想は全くなかったであろう。

 そんなわけで、初等教育を受ける最初の第一歩で、周囲になじむ事に致命的に躓いたユリは学校に行くのを嫌がった。確かに自分たちも同様の経験をしながら、なんとか少年時代を乗り切ったはずの兄たちも、そして両親も、末の姫の駄々には滅法弱かったらしく、彼女はそのまま、学校に行くのをやめて家庭教師に教えを請う事になったのだ。かくして完璧な箱入り娘と相成った彼女は当然、同世代との縁も薄い。従弟などといった親戚の子女ですら歳が離れていたため、ほとんど縁が無いと言ってもいい状態だった。

 そんな中、生まれて初めて出来た友人だったはずの天使が、今彼女の首を掴んでいる。

 羽交い絞めに近い形でユリを拘束する薄桃色の腕は、その色に反してひんやりと冷たい。細い腕は驚くほど力が強く、抵抗してもびくともしなかった。

 ユリの頭上で、優しくて大好きなはずの声が「殺す」などという恐ろしい単語を紡ぐ。顔色を変えていたサクが、更に厳しい表情でそちらを睨み上げた。

「無駄ですよ。さっきアサキさんから連絡がありました。ユリさんの護衛がこちらに向かっているそうです。貴方たちの事情は知りませんけど、これ以上は……無謀です」

 どうやら桂に見つかったらしい。サクの言葉を聞いたユリは、ひどく悲しくなった。きっとこれで、何もかもが終わってしまう。見ればサクも、どこか辛そうな顔でシャルギエルを見上げていた。ユリの話だけでは、いまいちシャルギエルが苦しんでいる事を理解してくれていない風だったが、はやり実物を見れば納得できたのだろう。

「そんな事はない。あのドールがここにたどりつくまでに、君を黙らせて逃げればいい」

 シャルギエル以外の天使たちも、既に全員足枷を外していた。うち二、三人がサクの背後を塞いでいる。たしかゼルエルという名の、とても小柄な女性型の天使がユリに猿ぐつわを噛ませると、シャルギエルが瓦礫から降り、ユリを肩に担いで立ち上がった。

 二メートル近い高さに抱え上げられ、咄嗟にその肩にしがみ付く。

 直下に見えるのは、コンクリートの塊を割って転がしたような瓦礫。腰の辺りを抱えられているとはいえ、不安定なその体勢では、少しバランスが崩れれば頭から落下しそうだった。ユリを抱えるのに邪魔だったのか、天使の翼が外れて落ちる。剥き出しになった背中には、擦れたような傷跡が無数に血を滲ませていた。

「……え、血……?」

 思わず驚きが口をつく。白糸の髪の間から覗く傷口は幾重にも重なって痛々しく、それが昨日、今日出来始めた物ではない事を物語っていた。

「――そうですよ、ユリさん。その人はドールじゃない。人間です。人間なのに、足枷をつけられ、翼を背負わされ、ドールと偽って展示され続けてきた。一体どれくらいの期間の事かは分かりませんが……」

 サクの声が淡々とそう告げる。驚きに硬直したユリに代わって、シャルギエルがサクに尋ねた。

「何故君がそれを知っている?」

 その問いにサクが答えるより早く、ユリの正面に広がる展示室のガラスが、派手にひび割れて砕けた。




『おい、サク。さっき目の前を、例の女性型SCドールが凄まじい勢いで走っていったぞ』

 そうアサキから通信が入ったのは、丁度シャルギエルがユリからカードを取り上げた時だった。アサキとの通信に気を取られ、一瞬、目の前の出来事に対する反応が遅れる。

(ちょっ、タイミング悪すぎですよ、アサキさんっ!)

 そう中枢回路の内部だけで上げたつもりの悲鳴はしっかり電話回線に乗ってしまったらしく、非常に不愉快そうな主の声がそれにこたえた。

『あぁ? 何があったかは知らんが人のせいにするな』

 慌てて謝罪して、状況を説明する。多少距離はあったが、ユリとシャルギエルの会話は最初から拾えていた。ユリは大方、桂がユリの位置を把握するための発信機を、どこかに置いて来たのだろう。どうやら非常にレアらしい女性型SCドールにご執心のアサキは、少し沈黙した後こう言った。

『なるほどな。と言う事は方角からして、さっきのドールは姫君を目指して走って行ったという事か。私もそちらに向かう。場所を教えろ』

 上手い具合に、ツクヨミまで出張しただけの収穫を得る目算を立てたのだろう。先程までよりも随分張りのある声に、内心サクは苦笑する。

『ゴシック・フォレストというアトラクションの終盤です。多分出口側から入ったほうが早い場所ですよ』

 ついでに目印となるものなどを付け加えた後、サクはアサキとの通信を切った。目の前ではシャルギエルがユリを拘束し、その細首に手をかけている。

「無駄ですよ。さっきアサキさんから連絡がありました。ユリさんの護衛がこちらに向かっているそうです。貴方たちの事情は知りませんけど、これ以上は……無謀です」

 シャルギエルたちには同情の余地が十分にあるのだろうと、サクは感じていた。ユリに持って来させたカードで足枷を外したという事は、あれは正しく彼らを鎖に繋いでいたという事だ。彼らはドールではない。こんな扱いをされて、黙っていられる筈もないだろう。

 この事態が、警察まで絡んだ大騒動になるまでに片付けばいいのだが、そう簡単には彼らも諦めないだろう。しかし、何とかアサキが到着するまで時間を稼ごうと、サクは説得を試みた。アサキが到着してしまえば、これ以上事を荒立てずにシャルギエルらも救済する手を考えてくれるはずだ。なんのかんのと言いながらも、サクの自慢のマスターは優しいのだ。基本的に。

 シャルギエルに抱え上げられたユリが、真実に気付く。恐らく、負わされていた翼が彼の背を傷つけていたのだろう。気の毒に思いながら、サクはようやくユリにその事実を告げた。サクの言葉に驚いたシャルギエルが、サクを問いただす。そういえば彼らにとってサクは、普通の人間に見えているはずなのだ。

(何と言うか……あべこべだな)

 妙な状況にサクが苦笑した、次の瞬間だった。

 サクの正面に立つシャルギエルの背後、展示室と入場客の順路を隔てる強化ガラスが派手に砕けて崩れ落ちる。一瞬で真っ白になるほどひび割れたそれを突き破り、飛び込んできたのはあの女性型SCドール――桂だった。

 飛び込んだ桂は真っ直ぐにシャルギエルに突進し、常人の反応など追いつくはずもないような速さでシャルギエルに足払いをかける。体勢が崩れたシャルギエルの腕からユリを奪い、抱きかかえて距離を取った。

 その細い脚に、骨にまでダメージを受けそうなほどの強烈な足払いをくらったシャルギエルは、バランスを崩して後ろへ倒れる。彼の後ろにはごつごつと尖った瓦礫が角を向けていた。無防備に倒れ込めば大怪我は必至だ。

「危ないっ」

 サクは咄嗟にシャルギエルの腕をとり、自分の方へと引っ張ってくずおれる身体を受け止める。体格差でほとんど覆い被さられてしまうが、何とか踏みとどまって抱きとめた。抵抗され、突き飛ばされる事も覚悟したが、シャルギエルはそのまま動かない。

「大丈夫ですか?」

 骨折でもしたかとサクは声をかけた。無言のままの長身が、小刻みに震えている。一瞬の出来事に放心しているのかとも考えたが、それにしても尋常でない様子に、サクは問いを重ねようと口を開きかけた。瞳孔の拡散、全身の震戦、血圧と脈拍の上昇。どれをとってもただ驚いているだけにしては程度が酷い。

「ケイン、逃げるよ!」

 しかし、サクが問うよりも先に、こちらも翼を降ろした非常に小柄な女性がシャルギエル――ケインと呼ばれた青年を叩いた。のろのろとそれに反応したケインの腕をとり、彼女は粉砕されたガラスの壁へと走る。サクを囲んでいた者たちも、他の「元天使」たちも展示室を飛び出した。

 一方、桂とユリはというと、ユリの猿ぐつわをむしり取った桂は、ユリを抱きかかえたまま動く気配はない。桂は対象者の護衛を存在意義とするSCドールである。ユリの安全を確保する以上に、シャルギエル達に何かをするつもりはないようだった。もしかしたら、内部では警察や本社の警備部に連絡を入れているのかもしれない。ユリは桂に抱えられたまま、泣きそうな顔でケインたちの後姿を見つめている。

 アサキが到着するまでにはまだ時間がかかるだろう。

 少し考えて、サクはケインらを追ってゴシック・フォレストを飛び出した。



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