薫子と落ちる日と天下の悪夢
そんな中、薫子があしながおばさんをしている
「旦那、亡くなった」
という知らせを送ってきた。
「あの子、別居婚だったしで、子供がいないのよね」
薫子は天を仰いだ。
結局、薫子の働きかけは功を奏さず、足利氏姫は古河公方の御所から新たに二人に宛てがわれた喜連川へ引っ越すことは無かった。
「おかしいわねぇ?」
これでお仕舞いになってしまうではないか。
(養子を取らせるしかないのかしら)
父親から聞いた話とは少しばかり違うが、そうするしかないのなら、それはそれで仕方がない。
肥前の荒木家臣団が武家を辞めて商人になり、薫子プロデュースの商品を生産し、商売ルートを拡大して行っている南蛮ビジネスとちがい、こちらはなかなか思うように進まない。
しかし
「確か、左兵衛督殿(足利國朝)には弟御がおいでます筈」
大蔵卿局は、眉間に縦皺を寄せて首を捻った。
「そうなの?!」
「実は色々ありましてぇ~。
嶋子様と申される左兵衛督殿の姉君様が殿下の側室に収まり申してぇ~」
ちょっと上目遣いになって、大蔵卿局が言いにくそうに薫子に申し上げた。
何しろ足利氏となれば、大名中の大名。『元主筋の娘』よりも地位が高い。
側室一の権勢を誇る薫子と言えども、太刀打ちできるものではない。と大蔵卿局は思う。
だもので、ちょっとばかり言いにくく、大蔵卿局のみならずお侍女たちは薫子の顔色を伺うように視線を走らせた。
が、何しろ薫子はその公方同士の合体技の末の喜連川家の姫君な訳で、そんな大蔵卿局たちの薫子の気持ちを斟酌する行動はなんとも的外れなのだ。
しかし、そんなことは露とも知らないお侍女達にとっては、何とも寛大で器の大きな薫子様な訳である。
「あら!良いんじゃなくて?
で、どんな方なの?その弟君は」
薫子は艶然と微笑みを浮かべて、話の続きを促した。
(さすが、我らがお袋様!)
そのスルー力にお侍女たちは、惚れ惚れと薫子を見つめた。
「御嫡男の故左兵衛督殿とは違い、その弟君はお優しいご気性とお聞き申し上げており申す」
大局の言上に薫子は扇を鳴らした。
「ちょっと!殿下を呼んで頂戴!」
「二之丸様が疾く参られよと!」
その太閤殿下は、この所、夜な夜な訪れる悪夢に恐れおののいている。
あの世にも恐ろしい右府様が枕元にお立ちになられるのだ。
太閤秀吉は睡眠不足でフラフラしつつ、ノロノロと磨き抜かれた広縁に重い足を滑らせた。
見上げると薄ら暗い心とは裏腹に、澄んだ青い空が広がっている。
「あれは……あの空は晴れておった」
ふっと呟き、今はもう遠い、尾張の青空を見つめた。
あの頃は、気を使うことは確かに多かったが、このように物事が複雑ではなかった。ただ、あの真夏の抜けるような青空を背景に、大きな背中を見失わないように走り続けることだけで良かったのに。
思い出はとかく美化されがち。
右府様のご機嫌を取るので胃に穴が開きかけたとか、右府様の為に命を落としかけたとか、そんなことは白い雲のように、時が経てば消えていき、後には美しく晴れ渡った青い空だけが残るのだ。
秀吉は薫子の居間の御在所に上がると、白く濁った瞳を色白の側室に目を向けた。
「足利家の事はあいわかった。弱小大名の事まで気にかけてやる其の方の心がけ、アッパレである。
しかして、それよりも天下の事じゃ。」
「どうか」
どうよと打診された薫子は青ざめた。
「結構ですのよ。心置きなく関白はそのままに」
大きな瞳を潤ませて懇願すればするほど、太閤殿下は恐れ慄いた。
その黒い瞳の奥から、右府様が覗いてくる。
(禿げネズミ、天下を返せ)
「本当に関白様は良い方じゃない。」
(我が息子よりも、我が孫よりも、主の甥が相応しいと思うてか)
「もう一度、冷静によく考えてご覧になって」
(頭を冷やせ。この強欲者が!)
汝には一時、天下を預けたまでのこと。
右府様はきつい眼をして、夜な夜な太閤殿下を
薫子が褒めれば、褒めるほどに深みに嵌っていく。
まずい、これはまずい。
おまけに、大蔵卿局達は側に侍ってその言葉を聞き、ノリノリでウキウキだ。
「徳川殿」
在京中の家康公の元に、薫子の取次がやって来て密談を求められた。
家康公は恐怖に慄きながら二条城に参上した。
得体の知れないものと出会った時、ある人は好奇心を擽られ、ある人は警戒心を募らせる。
『不気味』
慎重居士の家康公の薫子評はその一言に尽きる。
人払いした対面の間に座る女は、白い陶器のような肌に、真紅の絹地に龍と牡丹を刺繍で描き出した打掛を羽織っている。
御座所から垂れる燃え立つ赤い絹の打掛が、あの日の本能寺を見るようだ。
艶やかな細工物のような形の良い手に持っているのは、右府殿を想起させる孔雀の扇。
これは、何とも示唆的な……
何事も慎重居士の家康公は、青ざめた顔を俯けた。
今日も二条城の床は鏡のように、ふっくらとした黒団子のような家康公の顔を映している。
どうしてあの草を渡された時、好奇心なんて起こしたのだろう……
「さぁ、天下の話をしましょう」
その女は気味悪くも、ニタリと笑った。
まさにファム・ファタール(運命の女)
うへ〜
「天下ぁ……」
家康は恐れの浮かんだ瞳で、薫子を見上げた。
すらりと立ち上がった薫子は、音もなく家康の前まで来ると顔を覗き込んだ。
「どう?天下は欲しくない?」
孔雀の羽根がゾロリと硬い顎を撫でていった。
「しかし、豊臣家は」
「太閤殿下は今に於捨様に譲位されるわ。
世にも恐ろしいやり方でね」
不吉な程赤く塗った唇を片方だけ吊ってニヤリと微笑んだ顔は、禍々しいほどに美しい。
まるで人では無いようだ。
人ではない。
なんという事でしょう。
劇的ビフォーアフターを遂げた天下人の側室は、やはり噂通り冥府からの黄泉がえりに間違いない。
「そんな非道は許される物ではないわ。」
「それならば、何故お止めにならぬので御座るか」
そうだ、ハゲネズミ殿下の非道を止めるのは、第六天魔王しかいないだろう!
「私が天下を欲していると、殿下は頑なに思い込まれておられてね。非力な私には打つ手が有りませんの。」
沈黙が重く、凝視し合う2人の間に流れる。
第六天魔王は天下をお望みではないらしい。
(じゃあなんで蘇ってきたんだろう?)
家康公は扇を握った手に力を入れた。
その手の内に、脂汗が滲む。
「あなたは」
震える声で家康公は問うた。
「貴女は何をお望みか」
「私?」
ふふふふと薫子は一際怪しく微笑んだ。
「聞きたい?」
ふるふるふる
家康公は力なく首を振った。
(聞かなきゃ良かった)
やっぱり好奇心なんて碌でもない。
が、恐ろしの女はついついと近寄って、小耳に囁いた。
「人には絶対言ってはいけないわよ?」
お約束の言葉も忘れない。
「序でに、丹後少将(忠興)を助けてあげてほしいの。
ちょっと茶道具を勧めたらホイホイ贖わられるの。
それで借金ができたらしくってね。
悪かったとは思っているのよ。
それを
なんで?
丹後少将?
とは思うものの
「恩を売るには丁度いいでしょ?」
そうなのか?
「東西に分かれて戦うときには、恩のある細川家はあなたの方に付くはずよ」
誰と!誰が?東西に分かれるの?
あ、今日も仲良しだなぁ
人払いをされて、後ろ向きで開け放した襖のすぐそばで座っている、家康公と薫子の近習とお侍女達は微笑みあった。
何しろ手に手を取って、天下を取るらしいし。
そして運命の輪が、音を立てて大きく動き始めた。
それは長い間床に伏せり、もう長くないと予想されていた。
しかし、実際にその存在がこの世から消えると、恰も突然に亡くなったような喪失感を人々に与えた。
そう、豊臣藤吉郎秀吉、太閤殿下が稀有な人生の幕を閉じた。
その終焉では、あの明朗にして快活な、太陽のようなと称された太閤殿下の面影はなく、冥府より出で来た右府様に翻弄され、ひたすらに右府様の生まれ変わりである秀頼を頼むと
太閤殿下恩顧の家臣達が悲嘆にくれる中、家康公は体を震わせた。
確かに別の家ながら、幼い頃から見知った人々だ。
前田又左衛門利家、細川与一郎忠興、浅野弥兵衛長政……
(私は、これから彼らを裏切る )
あの恐ろしい女の為に。
目を瞑れば、あの妖しい白い顔が浮かんでくる。
リフレインするのはあの言葉。
コマーシャル並みに浸透力が強力な……
『天下は徳川……
その代償は払って
払ってねぇ~
永久に〜』
遺言で大坂城に入った薫子は、ゾッと身を震わせた。
太閤殿下を呪詛しつつけていた悪夢が、次の標的を求めて、そこここに漂っているような、薄気味悪さを感じた。
この空虚でどす黒い怨嗟の声が天下の実体なのか。
(とんでもないことだわ)
薫子はこの世の頂きに立って、その孤独に目がくらむ思いがした。
しかも、元服し藤吉郎秀頼となった息子は、恐ろしいことに松村にそっくりだ。
松村が月代を剃って、着物を着て、もっともらしい顔をして座っているようにしか見えない。
とてもではないが、豊臣家と縁も所縁もない秀頼を天下様になんて思えない。
大蔵卿局は、
「ほ〜ら、ご覧くだされ!全て秀頼様のものに御座り申すよ〜」
浮かれまくっている。
「そうね」
何とかしなきゃね。
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