10話 友達と家族

 葵羽は突然現れた陸上部員たちに、目を見開く。カラスがスマホで撮っていた顧問やコーチもいる。その奥にはスーツを来た、見たことのないおじさん。その横にはジャケットを着こなす三十代くらいの男性がいた。こちらはいつか見た気がした。

「な、なんで皆が……?」

 中也が疑問の言葉を放つ。葵羽も思わず霞を見る。答えを言うとしたら彼女だと思ったからだ。

 しかし、葵羽の予想は外れた。

「中也! 俺ら言ったよな!」

「お前の思うようにしたらいいって!」

 陸上部員たちだ。

「家のことも知ってるし。お前が頑張ってきたのも知ってるから、自分で納得できる道を選べばいいと思ってた」

 一人の部員が前に出てくる。確か、中也と同じ二百メートルの選手だ。

「……なんていうか、お前がいなくった分リレーの枠も空くなーとか、ちょっと考えたりした」

 前に出た少年を他の部員が小突く。

「でもやめた!」

 全員が、中也を見る。真っ直ぐな視線。

「走ったり跳んだりしかできないサルだからな、俺ら! 急に大人ぶってどうすんだよってな!」

 少年は大きく息を吸う。その言葉を、離れた戦友に届けるために。

「陸上辞めんなよ、中也!!」

 彼の言葉につづいて部員たちが各々叫ぶ。もはや一つ一つを聴き取ることはできない。しかし意味はわかった。

「な……何を……」

 中也は呆然としている。これまで、中也の意思に任せるとしていた仲間たちが急にその方針を変えたのだ。無理もないだろう。

 葵羽はその答えを知っているはずの霞を見た。デジカメで陸上部員たちを写している。隣に立つカラスは虚空を見つめていた。

「お前さ、俺らがお前の努力、知らないと思ってんだろ?」

「中也、努力隠したがるもんなー」

「アホか! 全員知ってるわ!」

 中也は何も言えずに聞いていた。わけもわからず、ただ耳を傾けていた。

「いつも誰より早く来て、遅くまで練習して。昼休みもトレーニングして」

「俺の貸した雑誌、俺よりも読み込んでるし」

「なんか先生にバイト紹介してもらったりもしてたろ?」

 葵羽も聞いていた。この先に何があるのかはわかっていない。霞たちが何を考えているのか知らない。それでも、何かがあるのだと思った。

「中也、お前はいつも俺らの前を進んでた。陸上バカだよ」

 はじめに前に出た少年が話す。

「でもお前、いつも前にいたから知らないんだよ」

 少年が下ろした拳を握りしめるのが見えた。

「朝、乗る電車を一本早くした。帰る電車も一本遅くなった」

「俺、前は読んでなかった栄養とかの記事も読むようになった」

「フィギュアに使ってた金で、高級トレーニングウェア買ってみた!」

 誰よりも努力する少年。その姿を見た人々がいた。

「負けたくない、って思ったんだよ」

 紡がれていく告白。後ろを走る彼らのことを、中也はわかっていなかった。

 努力は伝播する。少年は一人で走っていたわけではなかった。彼に追いつこうとする無数の足音が聴こえだす。

「俺らにとって中也、お前はただの部活仲間じゃない。お前がいたから、あともうちょっとを踏ん張れたんだ。だからさ……」

 ここまで冷静に話し続けた少年の言葉が途切れる。頬を汗ではないものが伝う。


「だから……辞めんなよ……! 続けてくれよ……!」


 それは本音だった。

 その努力を知っていたからこそ、決断を本人に委ねた。それが彼の後ろを走っていた戦友たちの総意だった。彼がどのような決断をするか、なんとなくわかっていて、それでも彼に委ねた。

 戦友たちの本音はある意味わがままだ。自分たちが努力するために、苦しい道を選べと告げる。それはもしかしたら、酷いことなのかもしれない。

 けれど彼らは信じていた。

 かつて背中を見せてくれた少年もまた、それを望んでいることを。


   ●


 中也は陸上部員たちを見ていた。

 らしくもない、恥ずかしいことを叫ぶ友人たち。霞が唆したのではないかと思った。自分の目的を果たすためなら、彼女は平気で他人に嘘をつかせるだろう。

 しかし、戦友の嘘を見抜けない中也ではない。彼らが本心で話していることを、強く理解した。

 誘拐犯からの連絡に慌てて飛び出した中也の服装は薄着だ。来るまでにかいていた汗が乾き、身体から熱が奪われていく。だからこそ感じた。

 自分の頬を流れていく熱を。

 唇を噛んだ。戦友たちの叫びは中也の望みそのものだ。しかし、

「…………ムリだ……!」

 彼らの想いは嬉しい。昨日、葵羽に気持ちをさらけ出し、真っ白になっていたからこそ、素直に嬉しく思えた。けれど、現実は変わらない。どうしようもない現実がそこにあった。

「……俺は、家族を選ぶと決めた……!」

 何行もの言葉を弄した。納得しきれず、少女に気持ちをぶつけた。そうして選んだのだ。

「……俺は……陸上を続けることができな……」

「兄ちゃん!!」

 叫び。順の声だった。

「陸上、続けてよ!」

 そんなことを言ってくる。

「……順。お前な……」

「分かってるよ! 兄ちゃんが何を考えているかくらい。僕が大学行けるようにとか、兄ちゃんのことじゃないことを考えてる!」

「……順……」

「でも兄ちゃんは僕が何考えているかわかってない! 大学くらい自分の力で行ける、奨学金で学費払えるくらい勉強できるようになる!」

 大きな声がぶつかってくる。順がこれほどの声を出せるとは思わなかった。

「同じ家にいるんだ。兄ちゃんがどれだけ頑張ってきたか知ってるんだよ。兄ちゃん。陸上続けてよ。走っている兄ちゃんが好きなんだよ……!」

 順の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「順。お前の気持ちは嬉しい。でも、世の中はそんなに簡単じゃない。全部が全部、希望通りに行くわけじゃない。第一希望が通るわけじゃないんだ」

 自分を納得させるために紡いだ言葉。中也の中にはそんなつまらない言葉が大量にあった。

「第二希望を選べるっていうのも、人生では大事な能力なんだよ」


   ●


 葵羽は中也の告げる言葉を聴いた。

 彼がその言葉で自分を騙そうとしているのがわかった。それでも、そんな空虚な言葉に縋ることしかできないのだと理解できた。

 どうしようもない現実がある。そうなのだ。それは仕方のないことなのだ。

 霞たちを見る。動こうとはしない。

――どうするつもり……?

 もう一度、中也の方を見る。

 彼に近づく影が一つ、見えた。


   ●


「中也」

 よく知った声。中也の背中に投げかけられたのは、疲れていて、寂しそうで、けれど暖かい人の声。母親の声だった。

「中也。陸上を続けなさい」

 その大好きな声で紡がれた意味は、現在投げかけられ続けたもの。

 振り向きざまに声を返す。なぜ母親がここにいるかなど、気にならなかった。

「でも! ウチにはそんな余裕……」


 パチンと。母親のささくれだった両手が中也の頬を挟んだ。


「中也。お母さんがどれだけ大変か、知ってる?」

 問われる。知っている。中也が小二の頃に父親が家を去った。その後、一人で中也と順を育ててきた彼女の苦労を、中也はわかっているつもりだ。

「言っておくわ。あなたは私がどれだけの苦労をしているか知らない。まだ子供だもの」

「そ、そんなことない! 知ってるよ! だから……!」

 両頬に感じる母の手のザラつき。目の前にある顔は疲れ切っている。

「ねえ中也。なんでお母さんは苦労に耐えられるんだと思う? 別にゴールなんてないのに」

 その問いの答えを、中也は探した。自分が苦しくても努力を続けられのは、陸上の夢があったから。ならば母親は?

「お母さんが頑張れるのはね。中也。順。あなた達がいるからよ」

 目の前の顔が優しげに微笑む。

「あなた達を負担だなんて思ったときは一秒もない。中也と順が笑えるなら、お母さんどれだけでも頑張れるわ」

 頭を撫でてくる。小学校以来。懐かしいその感覚に、中也は身を任せた。

「なのに、このバカ息子は自分が笑えない道を行こうとしている。そんな親不孝はないわ」

 気づけば、中也は母にしがみついていた。松葉杖を捨て、体重を預ける。

「でも……でも……! こんなんじゃ推薦はとれないし……! リハビリの費用だって……! それに高校の学費も……」

 推薦で免除されていた分の学費。中也が残りの高校生活の中で大会に出ることはない。

「母さんが頑張ってくれても……どうしようもないことはあるよ……!」


「はーい、じゃあその『どうしようもないこと』をクリアしていきまーす」


 兄弟・親子の感動的なシーンにもらい泣きしていた陸上部員たち。そのすすり泣く音さえも沈黙させる、まことに空気の読めないテンションで割り込む声があった。

 もちろん霞だ。


   ●


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