9話 誘拐犯と戦友

 家に帰った葵羽はテーブルに作り置きしてあったオムレツを見ていた。玉ねぎ抜きだ。葵羽の弟はどうしても玉ねぎが食べられない。中学に上がるくらいまでは直そうとしていたが、成績で学年一番をとってからは特製メニューが作られるようになった。

 葵羽は冷蔵庫からケチャップを取り出し、ご飯をよそいで席につく。ラップを外してケチャップをかけた。子供のように字を書いたりしない。

 波を描くようにケチャップをかけていく。右端にたどり着いたらまた左端へ。そしてまた右端へ。何度も繰り返す。

 走る、というのは単純な動きだ。専門家に言うと怒られるかもしれないが、やはり球技と比べるとシンプルな動きになるだろう。

 そのシンプルな動きを、人間の極限に至るまでに高めるのが彼らだ。

 中也も彼らの一員だった。

 けれどもうすぐ、彼はその一員ではなくなる。

 涙する彼を慰めるように、葵羽は少年を抱きしめていた。落ち着いた中也は葵羽に感謝と謝罪の言葉をつぶやき、一人帰路についた。一人で帰らせるのは心配だったので、隠れて家までついていった。

「どうしようもないことは、あるよね」

――そのとおり、アオバ。もう彼と関わるのは終わりにしなさい。

 食器を洗って、風呂に入る。熱い湯の中、眠りそうになる。

 何かが落ちた音にハッとして目が覚めた。黄色いひよこのおもちゃ。幼い頃、弟と一緒に遊んでいたものだ。

 ひよこを拾うために右手を伸ばし、ふとカラスのことを思い出す。

――最近、会ってない気がする……。

 実際には彼と最後に会ってからそこまで経っていない。そもそも知り合ったのも最近なのだ。懐かしさを感じるはずはなかった。

――渡くんなら、どうにかできるのかな……?

 何でもできるように思えるあの青年に、葵羽はなんとなく会いたくなった。


   ●


 葵羽の思いが通じたのか、翌日の夜、カラスと会うことになった。

 ベッドで横になっていた葵羽のスマホが鳴り、電話で直接「来てほしい」と伝えられた。場所は中也の通う高校。

 慌ててパジャマから着替える。秋の夜は肌寒い。お気に入りのパーカーを上から重ねた。


 正門は開いていた。

 葵羽は不思議に思いながら、学校に入っていく。校庭の方に光があったので、そちらに向かうことにした。

 広い校庭。陸上のトラック。その真ん中に、少女はいた。

 ぶかぶかの白トレーナーに紺のジーンズ。赤色のスニーカーを履いた小柄な少女。霞だ。デジカメで校舎やら校庭やらを撮って回っている。

「こんばんは、霞ちゃん」

「遅かったわね、葵羽」

 霞がいつもの調子で声をかけてくる。

「よくやったわ」

 続けて放たれた褒めの言葉を、葵羽は理解できなかった。

「え?」

「おかげで全ての準備が整った。中也を支配していたグチャグチャの感情がある程度おさまったはず」

「ちょっと霞ちゃん? どういうことか全然わからないんだけど?」

 霞は答えない。再びデジカメに戻る。

 今までも数回、似たようなことがあった。霞は質問に答えてくれるが、すでに説明したと思っていることについては繰り返さない。勝手に会話を中断する。

 諦めつつ、葵羽はあたりを見渡す。

「霞ちゃん、渡くんは? いないの?」

 そんなはずはない。カラスは霞のそばにいるはずだ。

「ああ、のど渇いたから買いに行ってもらってるの」

 葵羽は霞の言葉に違和感を感じる。何かが変だ。

「あ、葵羽さんだ」

 突如、幼い声がかけられた。

 振り向くとカラス、そして中也の弟・順がいた。

「こんばんは、葵羽さん。えっと、レモンティーのホットでいいですか?」

「え? なんで? あ、うん。レモンティー好きです」

 いるはずのない人物の登場に慌てつつ、レモンティーを受け取る。温かい。順がカラスの方を向いて笑っている。葵羽の好みをカラスが教えたのだろう。

 同時に先程の違和感の正体に気づいた。

――霞ちゃんがカラスに『行ってもらってる』なんて表現するわけがないもんね。

 パシリだからだ。今回そのような表現になったのは順が同行していたからだろう。

「……ちょっと、霞ちゃん。なんで順くんがここにいるの?」

 カラスからカフェオレのペットボトルを受け取った霞に、葵羽はこそこそと耳打ちする。


「は? 誘拐したからよ? 言ってなかったっけ?」


 今日の霞の言葉はいつもよりさらに意味不明だ。

「え!? なんで!? 誘拐!?」

 というか間違っても誘拐といった雰囲気ではない。順の身体はどこも縛られていない。しかしカラスがいれば逃げても捕まえられるような気もする。わからない。

「ちょっと渡くん、どういうこと?」

 なんとなく霞がこの先を答えてくれない気がしたので、五分五分に期待してカラスに問いかけた。

「中也を呼び出すため。この時間この場所に確実に来てもらうためには弟を攫うのが一番」

「言っておくけど、偽装だから。順の同意は得てる」

 カラスに加えて、霞も答えてくれた。

 兎にも角にも、これからこの場所に中也が来るらしい。二人が何をするつもりなのかは不明だ。葵羽は多少の気まずさを感じながら、彼の到着を待つことにした。


   ●


「ふざけんな! 何のつもりだよ!」

 到着するなり中也は怒鳴った。主に霞に対してだ。付き合いはあまりなくても主犯が霞であることくらいはわかる。

「順! お前も何してんだ!」

 順が彼女らに協力していたのは一目見てわかった。今はカラスの後ろに隠れるようにしてこちらを見ている。

 さらにその横で立っていたのは葵羽だ。最初に霞や葵羽と出会ったときの雰囲気。おそらく彼女もよく状況がわかっていないのだろう。

「とにかく帰るぞ、順。母さんも心配してる」

 中也の携帯に表示された知らない番号。ボイスチェンジャーを使った誘拐犯からの電話に松葉杖を掴んで家を飛び出した。ケガをしていることが、今まで以上に悔しかった。道中で夜勤のはずの母親にはメールしてある。

「は? 帰らせるわけないでしょ? バカなの?」

 霞の侮蔑の言葉。今さら怒ったりはしない。

「知るか」

 順の手を引いて帰ろうとする中也。しかし進めなかった。順だ。

「順……」

 中学生の弟が、彼を連れ帰ろうとする中也に抗おうと踏みとどまっている。順は中也と比べて身体の強い方ではない。身長も低く、当然のように腕力も弱い。いくら松葉杖だからといって、中也が順を引っ張れないはずがなかった。

 しかし、いま中也が感じている力は中也の知っているそれではなかった。小さく弱いはずの腕と脚で、弟は兄に抗っている。

――いつの間にか、こんなに強く……。

 その時、校庭に強い光が降り注ぐ。ライトだ。校庭の周囲に設置されたライトが一斉に点灯し、校庭に昼が訪れた。

 それと同時に、多くの人影が見える。


 かつて同じトラックを走った、陸上部の戦友たちだった。


   ●


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