8話 夢と現実
○ ○ ○
ぼんやりとした背景。白い。もやがかかって視界が狭い。
暗転する。
少年が走っていた。楽しそうに校庭のトラックを走る少年。
暗転する。
交差点。一つの信号の光は淡い。
松葉杖をついた少年が歩いてくる。とぼとぼとした足取り。呆然とした表情を浮かべながら、少年は交差点を渡る。信号は青だった。
そこへ一台の車が突っ込んできた。信号は赤だ。しかしその光は淡い。
暗転する。
自転車に乗る少年。新聞を届けている。右脚を引きずるようにしてポストへ投函していく。
再び走り出す少年の自転車。まっすぐに進む。曲がり角。カーブミラーはなかった。
角を曲がった少年の眼前に、バイクがあった。
暗転する。
夜のコンビニ。少年はレジの横で発注作業を進めていた。
音が鳴り、自動ドアが開く。一人の男が入ってきた。客への対応のために少年が顔を上げる。
男の手には、鈍く光る刃があった。
暗転する。
○ ○ ○
目を覚ます。額に手をやると濡れていた。額か手か、その両方か。パジャマ代わりのTシャツはびしょびしょになっている。
体温が高かった。服の中に熱がこもって気持ち悪い。しかし風邪を引いているわけでないことはわかっている。
荒くなっていた呼吸を落ち着け、服を脱ぎ捨てる。汗でへばりついていて脱ぎにくかった。
近くに置いてあるタオルで身体を拭く。開けてあった窓から入ってくる風が心地いい。水筒からアルミのコップに水を注ぐ。水道水だ。飲む。
身体の熱が大人しくなってきたところで、下着も含めて着替えていく。
最後にぶかぶかの白いトレーナーを被り、頭を出す。左から腕を通していく。
こうして霞の一日は、昨日と同じように始まった。
●
葵羽は高校の通学路を歩いていた。中也のノートを返すためだ。大学の講義が長引いたせいもあり、いつもの時間には来れなかった。だから中也には会えていない。
中也の家に直接持っていくことも考えたが、それは失礼な気がして思いとどまる。
葵羽は何気なく河川敷沿いに向かう。ランニングをしている人が何人か見えた。夕日の中で走る人々は一つの絵画のようにも見える。
――中也もここを走ったことがあったのかな。
そんなことを考えていると、いた。中也だ。
河川敷に降りる坂。草が乱雑に生えたその場所に、松葉杖を横に置いた少年がいた。夕日が落ちていくのをぼーッと眺めている。
葵羽は静かに少年に近づいていく。
「中也」
少年がびくっとして振り向く。よく見ると右手のそばに求人情報誌が落ちていた。新聞配達が紹介されているページに折り目がついている。
「なんだ、葵羽さんか」
「なんだって何? お姉さんに失礼じゃない?」
「お姉さんって(笑)」
「ちょっと?」
打って変わって朗らかに笑う少年。座る中也を葵羽が上から見ている形であるため、いつもとは視線の高低が逆である。こう見ると弟の順と同じく可愛らしい笑顔だ。
「事故。大丈夫だった?」
「……あー、カラスさんかあの女から聞いたのか」
「うん」
「まあドジッちまった。ちょっとぼーっとしててさ。カラスさんには感謝だな」
笑いながら語る。
中也が求人情報誌をカバンになおし、松葉杖をもって立ち上がろうとした。葵羽も支える。
「ありがとう」
「なんで早朝にそんなとこ歩いてたの?」
「うーん、なんとなく? 習慣で朝早く起きちゃうからさ。まあその習慣生かして新聞配達のバイトやろうかと思って。コンビニと掛け持ちで行こうかなって」
「ケガは? 動けるの?」
「もう少しで日常生活くらいはなんとかなるさ」
二人で坂を登り、帰路につく。あまり川が好きではない葵羽にはありがたかった。
「そうだ中也、これ」
持っていた手提げカバンから大学ノートを取り出して中也に差し出す。座っているときに渡してやればよかったと、葵羽は少し後悔する。
「……なに……って、はぁーー!? え!? なんで葵羽さんが持ってんだよ!?」
「いや、私じゃないよ、わかるでしょ。霞ちゃんだよ」
「……っぐぐ、あの女……!」
赤く顔を染めながらノートを受け取る中也。
「……見た?」
「…………」
答えない葵羽を見て、中也は答えを知る。耳まで染めながら、
「……あんまり言いふらすなよ……」
「ぷっ」
「はぁ!? なんで笑うんだよ!?」
そのノートに書いてある少年の軌跡。努力と諦め。恐ろしいまでに重い決意。それを見ていた葵羽は、年相応に恥ずかしがる目の前の少年を見て思わず吹き出してしまったのだ。
「えぇー? 別にぃー?」
「っくそ、何なんだよ!」
弟とふざけあっているみたいだと、葵羽は思った。
――楽しいよね。
中也が陸上に捧げた時間は戻ってこない。そして少年は別の道を選んだ。
それは確かに悲劇のような物語であったけど、きっと当たり前にある日常なのだ。この国の、世界のどこかで誰かが同じように夢を諦めている。仕方のない現実。それはこの世界に溢れているものだ。
今はショックだと思う。けれど人間は適応していく生き物だ。
だから葵羽は告げる。年上として、最後の役目を果たそうと思ったのだ。
「中也は偉いね」
「べ、べつにそんなことねえって」
「偉いよ。もう前を向いて、未来のことを考えている」
自分とは違う。中也は大丈夫だ。
「あれだけ陸上を頑張れた中也だもん。何でもできるよ」
葵羽にはあれほどの努力を続けることはできない。きっとその経験は宝物になる。
「そうやって生きてたら、いつかもっと楽しいことにも出会えるよ」
そんな言葉を紡いで、葵羽は気づく。隣に中也がいない。
振り向く。中也は葵羽より数歩、後ろにいた。下を向いている。表情が見えない。
「…………ぇよ」
声が地面に落ちる。葵羽の耳には届かない。だから聞いた。
「え?」
「――走るより楽しいことなんてねえよ!!!!」
その咆哮は、霞の前で叫んだときよりもはるかに大きく、強いものだった。
●
中也は夕暮れの道で叫んでいた。
ランニング中の人が振り返るのが見えた。目の前の少女が驚いているのが見えた。
「ずっと走ってきたんだ……!」
口に出すつもりなんてなかった。こちらを気遣ってくれる葵羽に、声を荒げている自分が情けなかった。それでも、
「努力してきた……!」
小学生の頃、一番速かった。運動会で一番の旗を持つ中也を見て母親が喜んでいるのが見えた。家にいないことの多い母親が満面の笑みを浮かべてくれるその日が大好きだった。
中学生になり、陸上部に入ってからも一番速かった。けれど、大会に出ればそうはいかない。自分は凡人なのだと、はじめての大会で強烈に自覚した。
本を買うお金がないので、図書館でトレーニング方法や走り方に関する本を借りて読んだ。小遣いのすべてをトレーニング用品に費やした。
「推薦とって、毎日毎日練習して……!」
雑誌を部の友人から借りて読んだ。顧問に短期のバイトを紹介してもらい、少しでも資金を増やした。学校のトレーニング機器は一番使った。
「やっと、全国の切符を手に入れて……!」
そしてケガをした。致命的な、ケガだった。
「……なんで……!」
別に選手生命が終わるようなケガではない。リハビリをすればどうにかなるかもしれないケガだ。しかし時期が悪い。中也の家庭環境を鑑みれば、この時期からリハビリをして、大学推薦やプロの道を進むのは厳しかった。
「…………なんで……!」
環境のせいにしたことなんて一度もなかった。努力ですべて塗り替えられると思った。一人で自分を育ててくれた母親に感謝していた。兄のためにと小学生の頃から家事を手伝ってくれた弟に感謝した。
「……なんで、なんで俺なんだよ!!」
裕福な家庭であれば、リハビリをしながら陸上を続けられるはずだ。でも自分にはこの道しかなかった。細い道を、必死に押し広げながら走ってきた。
「……陸上しかねえんだよ……!」
家族のために、他の道を歩むことを決めた。
「走ることだけ考えてきたんだ……!」
陸上でオリンピックに出て、金メダルをとる。親孝行にもなる。
そう思って、走り続けた。
「陸上を辞める……? 俺が……?」
納得できなかった。だから書いた。自分を納得させるために、何行も何行も、『辞める理由』を書き続けた。それでも、
「……走りたいに決まってんだろ……!」
すでに松葉杖は手の中になかった。中也は道に崩れ落ちていた。雨も降っていないのに、地面が湿っていた。
「……頼むよ……」
うずくまる中也を、葵羽の両腕が包み込んでくれる。
「……頼むから、俺に陸上……続けさせてくれよ……!」
吐いた。
封じこめ続けた、誰にも話せなかった、夥しいほどの情熱を。執念を。
理性は理解していたけれど。
感情は何もわかっていなかった。
中也を抱きとめてくれる葵羽が小さな声を紡ぐ。それは謝罪の言葉だった。
――謝るのは、俺の方だ……。
中也は泣いた。自分を気遣ってくれる人にぶつかった自分の情けなさに。現実を受け入れきれない自分に。周りのせいにしようとする自分に。誰かに頼りそうになる自分に。
走ることが大好きな少年の、抑え込まれた感情の爆発を眺めながら、夕日は静かに下がっていく。うずくまる二人の影が長く、長く伸びていた。
●
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