7話 事故とノート

 葵羽は走っていた。はじめてカラスに連れて行かれた公園に向かっている。大学に入ってからあまり運動していなかったから、随分と体力が落ちているのを感じる。息が上がる。

 チャットアプリにカラスからの連絡があった。内容を確認するなり葵羽は家を飛び出した。時刻は午前七時。会社に向かうビジネスマンがちらほら見える。

 中也が事故にあった。

 カラスからの連絡にはそのことと、公園で待っていることが書かれていた。

 体温が上がる。汗が吹き出し、熱が溢れ出している。なのに背中は冷たかった。その感覚が、とてつもなく怖かった。


   ●


 葵羽が公園につくと、霞はブランコを漕いでいた。カラスはいないようだ。

「はぁはぁ……、霞ちゃん……、中也は?」

 息を切らしながら霞に話しかける。

 霞はブランコを止めず、そのまま身を空に投げ出して安全バーを超えてきた。

「無事よ」

 その一言に、葵羽は一気に脱力する。力が抜けると自分が疲れていることを実感し始めた。

「ちょっと擦りむいたくらい。今は家よ」

「よかった……けど、病院とか行かなくても大丈夫なの?」

「応急処置はカラスがやった。それに中也の母親は看護師だから」

 葵羽の知らない事実を告げてくる。以前、中也の家に入ったときに知ったのだろうか。

「……事故って?」

「今朝、四時半くらいに車に轢かれかけた。車が信号無視したみたいね」

「そんな……よく無事で……」

 中也は松葉杖のはずだ。避けることは難しいと、葵羽は思う。

「カラスが助けたの」

「……渡くんが? なんで?」

「……たまたまランニングしてたって」

 あり得るのだろうか。素直に信じられるような内容ではない。しかし今は中也が助かったことを喜ぶべきだろう。

「もしカラスがいなかったら死んでたわね」

 霞が冷たく言う。いつもどおりの調子で喋っているだろうが、葵羽には冷たく感じた。

「……まさか、その恩を使って陸上を続けさせるつもり?」

 霞ならやりかねないと、葵羽は思う。もはや倫理観など期待していないのだ。

 しかし霞は呆れたように返す。ベンチに向かいながら、

「は? 恩? そんな不確かなもの、使わない」

 ベンチには肩から掛けるタイプのカバンが置いてある。霞はいつもカバンを持ち歩いていない。

「でもターニングポイントなのは確かよ」

 霞はそう言いながらカバンを掴み、葵羽に告げた。


「葵羽。中也に陸上を続けるよう、言ってきなさい」


 霞にとって最も重要なのは「中也が陸上を続けること」。理由は知らないが、霞がそれにこだわっていることは知っている。しかしタイミングというものがある。彼は今、命の危機を脱したことに安心し、思い出しては怯えているはずだ。

 昨日の陸上部員たちの話。努力してきた道を、ケガと家庭の事情によって閉ざされた中也。それを知っていてなお陸上の継続を強いる眼前の少女が、葵羽には理解できなかった。

「……今はそのタイミングじゃないと思う」

「なんで?」

「なんでって……死にそうな思いをしたところなんだよ?」

「だからこそでしょ。命を拾って、本当にしたいことを自覚する」

 決めつけるような霞の口調。視線はカバンの中だ。カラスと違って霞は質問に答えを返すが、必ずしもその態度は真摯ではない。

「……私は、中也に陸上を続けてほしいとは思わない。もう十分にがんばったでしょ?」

「は?」

 霞がこちらを見る。朝の冷たい風が吹き、彼女の茶髪を揺らした。

「葵羽は中也の何を知っているの?」

「……!」

 確かに、葵羽と中也の付き合いは浅い。しかし、霞よりは中也の気持ちを理解できていると思っていた。家族の共通点。どうしようもない現実。短い夕焼けの帰り道の中で、何かが通じ合ったような気がしていた。

「私は……」

 しかし霞に言い返せない。そもそも彼女に口で勝てたことなどないのだ。

「まあ言いたくないのなら別にいい。他の手を考えるから」

 そう言いながら霞が近づいてくる。カバンから一冊のノートを取り出した。

「これ、今度中也に会ったら返しといて」

 使われた形跡のある大学ノート。葵羽も使ったことのある、お徳用・十冊セットのものだ。

「じゃあね。話はおわり」

 霞が公園を立ち去る。

 カラスを伴わずに去っていく霞を見るのは、これが初めてだった。


   ●


 通学や通勤で賑やかになりだす道を、葵羽は逆行していた。

 どうせ大学の準備も持ってきていないので一度家に帰らなければならない。とはいえ、今日は大学に通うような気分でもなかった。

 かといって中也を見舞うのも怖い。霞との会話が尾を引いている。

――他人に関わりすぎだよ、アオバ。

 そんな忠告が頭に浮かんだ。

 家につき、扉を開けて中に入る。

「勇志―? もう帰ってきたの―?」

 家の奥から母親の声が聞こえる。弟と勘違いしているらしい。適当に返事しつつ、うがいで頭を振って自分の部屋に戻る。ベッドに倒れ込んだ。

 霞に預けられた中也のノートの中身はまだ見ていない。

 霞と中也が交換ノートをする間柄になっているとは思いにくいので、家から勝手に持ってきたのだろう。

――何が書いてあるんだろう?

 なんとなくだが、あの二人の場合、持ち出す必要はないように思えた。カラスなら内容を記憶できるような気がする。葵羽の中のカラスが過大評価されているだけかもしれないが。

 おもむろにページを開く。前半は日記のようなもの。その日のトレーニングメニューと時間、軽いコメントが書いてある。

 朝のランニング、学校での朝練、昼休みのウェイトトレーニング、部活中のトレーニング、帰ってきてからのストレッチ。

――本当にすごいよ、中也。

 葵羽はトレーニングにも陸上にも詳しくない。その内容から、具体的なものを想像できるわけではない。それでもあの少年が陸上に捧げた日々は読み取れた。

 ペラペラとページをめくっていくと、しばらく白紙が続いていた。几帳面に毎日綴られていたノートの断絶。そこから、中也の道が閉ざされた日を推測することができた。

――これを見て、霞ちゃんは何を思ったんだろう?

 しばらく白紙のページがつづいた。ノートの四分の三が過ぎたあたりで再び黒の痕跡を見つける。安物のページの裏が透けて見える。めくった。


 飛び込んできたのは、黒の嵐。


 葵羽の息が詰まる。

 それは文字の羅列だった。箇条書きで書き殴られている。前半のノートに記されていた丁寧な字とは異なる、乱雑な字たち。感情が乗った、黒い線。書かれていたのは、

――陸上を辞める理由……。

 そこから何ページにも渡って、中也が陸上を辞めるべき理由が記されていた。これまで葵羽が聞いていたもの以外にも無数に書かれている。

 少年の闘争が見えた。

 納得のいかない現実に、折り合いをつけるための時間。陸上を辞めるための供物を並べるかのように、数多の理由を挙げていく。

 葵羽は理解する。

――中也の闘いは、もう終わっていたんだ……。

 霞も、カラスも、葵羽も。もう彼の意思を変えることはできないのだ。弱冠十八歳の少年の、あまりに重く黒い決意がそこにはあった。


   ●


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