5話 雨とカラス

「おかえり。遅かったわね」

 霞とカラスがいた。中学生くらいの男の子とカラスが机を囲んでいる。宿題だろうか。霞は洗濯物の山にもたれかかっていた。

「雨降りそうだったから洗濯物入れといたわよ。感謝しなさい」

 デジカメを弄りながら霞が言う。

 ここは中也の家だ。

 同じような棟の並ぶ団地。その一棟の三階が中也の家だった。階段のスペースが狭く、明らかに絵の袋を持ちながら上がるのは大変そうだったので、葵羽が同行を申し出たのだ。

 扉を開けた直後、赤いスニーカーが見えた。葵羽も中也もそれが誰のものかよく覚えている。松葉杖を立て掛けた中也が脚を引きずりながら部屋の戸を勢いよく開ける。

 当然かのように霞とカラスがいた。

 二人というより中也に投げかけられた言葉。霞もカラスも、葵羽が一緒にいることは気にも留めていないらしい。

 中也は口を開き、立ち止まっていた。唖然とした表情。

――いや、そりゃそうだよね。

 十年来の友人のように語りかけてくる霞。おそらく弟であろう少年に勉強を教えているカラス。かなり懐いているように見える。控えめに言って、意味がわからない。だから代わりに葵羽が問う。

「……なんで二人がここにいるの?」

 葵羽の問いに答えたのは霞ではなく、当然カラスでもなく、弟だった。

「あ、兄ちゃんおかえり……え! 彼女!?」

 葵羽のことを彼女だと勘違いしたらしい。目を丸くしてこちらを見る。かわいい。中学生男子の中ではおそらく小柄であろう少年は、とても愛らしかった。よく見ると鼻の形が中也と似ていて、兄弟なのだと葵羽はしみじみ思う。

「違う! 順! なんでコイツら家に入れてんだよ!?」

「え? 兄ちゃんの友達じゃないの?」

「違う!」

「は? 友達みたいなもんでしょ? 何言ってんの?」

 つまらなそうに吐き捨てる霞の言葉はいつも通りの調子。そろそろ慣れてきた葵羽だった。

「学校から帰ってくる途中で木から降りられなくなったネコがいてさ。どうしようか悩んでたら二人が助けてくれたんだよ。カラス兄ちゃんすごいんだよ! スルスル木に登って、着地もスタッてかっこよかった!」

 葵羽は少し笑いそうになる。

――カラスの癖に木登りって!

 まあカラスは人間なので飛べない。当たり前のことだ。しかし葵羽はカラスのことを、およそ世間の当たり前が通用しない人種だと思っていた。

 そんな飛べないカラスを見ると、彼もじっとこちらを見ていた。相変わらずの黒い沼のような瞳に引き込まそうになる。

「まあそんな感じで家に招かれたのよ。宿題も教えてあげてるんだから別にいいでしょ?」

 霞が言う。どう見えても教えているのはカラスだけだが、まあそういうものなのだろう。

 中也はしばらく霞と順の間で視線を巡らし、

「……ちっ」

 舌打ちをしながら、洗面所に向かう。

――あ、ちゃんと手洗いうがいするんだ。

 葵羽もついていく。

 中也はうがいのとき、頭を左右に振っていた。気になって尋ねてみると、

「そうした方がちゃんと菌を流せんだよ」

 そいういうものかと、葵羽も真似する。少しむせた。


   ●


 カラスが順に宿題を教え終わったタイミングで葵羽たちは帰ることになった。

玄関に立つ葵羽に中也が、

「葵羽さん、荷物持ってくれてありがとうな」

 笑って手を振り、葵羽は霞たちを追いかけた。


「陸上の話はしなくてよかったの?」

 二人に追いついた葵羽は尋ねる。結局、霞は中也に昨日の話題を出さなかった。またケンカになると思い緊張していた葵羽としては少し拍子抜けだった。

「その話は葵羽がしたでしょ?」

「……!」

 葵羽がそのことを霞たちに話すタイミングなどなかった。

「……なんで?」

「なんでもいい。何話したか教えて」

 階段を降りきり外に出ると、少し雨が降っていた。今日の天気予報はくもり。雨が降るとは思っていなかったので、葵羽は傘を持ってきていない。

――まあ別に濡れてもいいか。

 そう思って外へ踏み出す葵羽に黒色の折りたたみ傘が差し出される。カラスだ。

「え? 別に大丈夫だよ」

「……風邪を引くとよくない」

 傘を押し付けてくる。

「……ありがとう、渡くん」

 見ると霞はすでに傘を差している。ビニール傘だ。カラスも同様のビニール傘を持っている。

「そういえば霞ちゃん、なんで雨が降るってわかったの?」

「二つある」

 先頭を歩きながら霞が答える。カラスと違って、霞は意外と質問に答えてくれる。

「まずは冷たい風。雨の降った所の気温は下がる。だからそっち側から吹く風は冷たくなる」

 葵羽は知らなかったし、そのような風も感じなかった。

「あとは西の方の景色が少し霞んで見える。天気は西から東に変わるからそれでわかる」

 ニュースで当たり前に天気がわかるこの時代に、そのような判別法を使う人間がいるとは。葵羽は感心して西の空を見る。もちろんすでに雨が降っているのでその行動に意味はない。

「まあ、そんな方法で私は判別できないけど」

「え?」

 霞の言葉に反応する。少し考えて、わかった。

――渡くんか。

 黙々と前を向いて歩き続けるカラスを観察する。

 木を登ったり、天気を予測したり。克己の『雑食性』という言葉を思い出す。

――何者なんだろう?

 霞も相当に変わり者だが、まだコミュニケーションができる分、葵羽的な不思議度はマシだ。距離感も近い。

 対してカラスとの距離感はいまだにわからない。近いのか遠いのか、近づいているのか遠ざかっているのか。

――それこそ、カラスとでも一緒にいるみたい。

 それから霞にせかされて、帰り道に中也と話したことを二人に伝えた。


   ●


 透志は、葵羽と分かれたあとの道を歩いていた。

 傘を差す霞が前を歩いている。傘の差し方が雑で、いつも着ている白トレーナーが少し濡れている。足元で跳ねた水がジーンズを湿らせていた。

 彼女が曲がり角に入る。いつもならまっすぐに歩いて帰る道だ。

 しばらく歩くと、右手に交番があった。彼女がちらりと見る。中では警官が地図を見ながら電話をかけている。何かをメモっているようだ。カラスは少し目線を下げた。

 またしばらく歩くと交差点に出た。

 一つの信号のライトが暗い。時間帯によってはどちらが点灯しているのかよくわからないだろう。

 透志は前に出る。

 トラックが乱雑なカーブを切った。できていた水たまりをタイヤが走る。少量の水が歩道に跳ねてきて、透志のズボンが濡れた。

 霞は何も言わず歩き続ける。

 彼女の後ろを、透志もまた静かに歩き続けた。


   ●


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