1話 霞とカラス

 葵羽は廃ビルでその男と出会ったとき、彼のことを知らない人間だと思っていた。二人とは初対面だと思っていた。

 しかし家に帰って思い返すと、葵羽は彼のことを知っていた。意味不明なシチュエーションと少女の「カラス」という呼称のせいで気づかなかったらしい。

 「カラス」の名は、渡透志わたりとうし。大学三年生。黒髪で平均的な身長、覚えにくい顔をしている。経営学部に通っており、成績は優秀。最後の必修科目となる『英語Ⅲ』のジョージ先生には非常に気に入られている。席は少人数教室の最前列。

 今、葵羽が座っている席の右ななめ前の席だった。


――いや、クラスメイトなんかい……!


 クラスメイトが『変態』だと知ったとき、果たしてどう振る舞うのが正解なのか。そんな取り留めのない思考に葵羽の小さな脳みそは持っていかれ、ジョージ先生の話はまったく入ってこなかった。


   ●


 授業が終わり、葵羽もとりあえずの結論を出した。

――そもそも喋ったこともないんだから、こちらから絡まなければいいだけだよね!

 昨日見た謎のポーズ。白いトレーナーの少女との関係。「カラス」。

 好奇心がうずく。しかし葵羽はシャーペンを筆箱に戻しながら、その『ウズウズ』も心の奥底に閉じ込める。

――うん、これで正解。無関心でいることが一番のはず。

 今日の授業はこれで終わりだ。だから帰る。『変態』とは関わりを持つことなく帰る。それで万事問題ないはずだった。

 ポロン。

 葵羽の目線の下。消しゴムがはねている。右前の方。「カラス」のいる方だ。

 気づいたカラスが拾おうと手を伸ばす。右手だ。膝を曲げるのではなく、腰から身体を折って消しゴムに手を伸ばす。その結果、彼の頭は右手について来る。

 まもなく右手が地面に触れる。

 教室の床はコンクリートではないし、夕日も差し込んでいない。それでも葵羽は息を止めてしまっていた。まもなく地面に到達する右手から目が離せない。

――待て待て、アオバ。ここで笑いでもしたら関わっちゃうぞ。絶対に笑ってはいけない……!

 カラスの指先が消しゴムを通り過ぎて床に触れる。葵羽の息は問題なく止まっている。


 カァー! カァー!


「ぶふぉ!」

 唐突に後ろから聴こえたカラスの鳴き声。それと同時に床にたどり着いた右手を見て思い出してしまった。吹き出してしまった。

 目が合う。まさにカラスと呼ばれるに相応しい黒い瞳が葵羽を映している。

 音源を確認しようと振り向くと、後ろの方でたまっている男どもがスマホを覗き込んで笑っている。動画配信サイトでも見ているらしい。鳴き声はSEか何かだろう。

――振り返ったらもう帰ってたりしないかなー。

 そんな仄かな期待をこめつつ振り向く。いた。いつもは存在感うすいくせに、今だけは世界の中心であるかのようにこっちを見ていた。

「こ、こんにちは? 渡くん……」

 気まずくなりながらも、葵羽はクラスメイトに挨拶する。

 カラスは答えない。相変わらず沼のような瞳でこちらを見てくる。

「え、えと、その……何か用?」

 笑っておいて『何か用?』というのもおかしいが、とにかく葵羽は続ける。そろそろ周りの視線も恥ずかしくなってきた。目の前のカラスは消しゴムをとる姿のままで、葵羽は椅子に座っている。その構図で見つめ合っている状況だ。

「あ、あの……渡くん?」

 十五秒くらいの硬直。葵羽には三十分程度に感じる謎の時間が過ぎる。

「紀さん」

 ふいに目の前の男から声がかけられる。ジョージ先生の質問に答える声は何度も聴いていたが、こうして自分にかけられる声を聴くのは初めてだ。少し緊張する。

――というか名前、覚えてくれてたんだ……。

 そんな事実に少しときめきながらも、目の前の男が『変態』であることを思い出した。

「紀さん、ついてきて」

 手をとられた。引っ張られる。とっさにカバンを持ち、足を動かした。そのまま教室から出ていく背中に訝しがる視線と声が降り注ぐのを、葵羽はわけも分からず感じていた。


   ●


「遅い」

 カラスに連れて行かれた先は公園だった。ザ・公園といった感じの雰囲気。夜には家出少女がブランコをしていそうな公園だ。

 そこに彼女がいた。白いトレーナーの少女。カラスの飼い主。

「のど渇いた。コーラ」

 つぶやくような少女の声にカラスが反応する。隣で風が吹いたと思ったら、その黒い姿はすでに公園の入り口にある。公園内に自販機はないので、外に買いに行ったのだろう。

 ブランコの周りにある安全用のバーに腰掛けた少女はつまらなそうにデジカメを弄っている。覗き込んでみると写真が切り替えられている。これまで撮った写真を確認しているのだろうか。

 また隣に風が吹く。と同時にコーラが少女に差し出された。ゼロカロリーのやつだ。

「……ちょうどゼロが飲みたいと思ってたんだけど。なんかムカつくから腕立てしろ」

 理不尽だ。しかしカラスは明らかに年下の少女の命令に従って腕立て伏せを始めた。怖い。

 ちなみに葵羽の右手にはホットレモンティーの缶が握らされている。カラスに渡された。有名な紅茶メーカーのやつだ。確かに葵羽はレモンティーが好きだったりするわけだが、当然それを話したことはない。怖い。

「で?」

 ゼロコーラを呷りながら少女がこちらを見てくる。鋭い目線だ。

「……?」

「いや、自己紹介は? いきなり現れて何もなし?」

 当然のようなタメ口と上から目線。バーに腰掛けている少女はもとの身長もあり葵羽を見上げている状況なわけだが、気分的には王座からでも話しかけられているようだ。

「え、えと……はじめまして。渡くんの大学のクラスメイトの、紀葵羽です。えっと渡くんに引っ張られ……」

「あーあー、もういい、経緯とかいらない。欲しかったのは名前だけ。『お前』とか『アンタ』じゃ失礼でしょ?」

 どう考えてもすでに失礼なわけだが、一応『礼儀』という概念はあるようだ。

「あ、じゃああなたの名前も教えてもらっていいかな?」

「は?」

 睨まれた。意味がわからない。

「……カラス、私の名前くらい教えとけよ、ったく」

 横で腕立てを続けているカラスに言葉が飛ぶ。理不尽だ。

「霞よ」

 コーラの缶を三メートルほど先にあるゴミ箱に放りながら告げてくる。缶の軌跡を追いながら葵羽は、

「えと、名字とかは……」

 コーラの缶は入らなかった。霞の方を見ると不機嫌そうだ。葵羽の質問に対してなのか、缶が入らなかったことに対してなのかわからない。

「……名字は嫌い。名前で呼んで。私もそうするから」

「う、うん、わかった。よろしくね、霞ちゃん」

 言ってしまってから『ちゃん』づけしたことを後悔する。見た目から高校生だろうと考えていたが、まだその辺りのことは知らないのだ。『さん』づけの方が良かったかもしれない。いや、たとえ年下でも『さん』づけの方が良かったかもしれない。

「……カラス!」

 また風が吹く。振り向くとカラスがゴミ箱に缶を入れていた。

「とりあえず行くわよ、葵羽」

――…………。

 『ちゃん』づけについては不問らしい。もはや呼び捨てであることは気にもならない。

――あれ? 私もこの子のパシリになるの……?

 なんとなく状況に慣れてきつつ、葵羽は自分の処遇について考えていた。


   ●


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