愁いを知らぬ鳥のうた
増田朋美
愁いを知らぬ鳥の歌
愁いを知らぬ鳥のうた
今日もまた。
「ねえ、ぜんぜんダメだわねえ。」
トラーは、水穂の口元を、タオルで拭いてやりながら、そんなことをいった。
「申し訳ありません。」
そういう水穂だが、
「其れしか言わないでさ。もう少し食べてもらおうという気にならないかな。食べるもの全部、吐き出したりしないでさ。」
と、トラーはできるだけ明るく言うのだが、その口調の裏には、一寸じれったいというか、いら立ちが入っているのが見て取れた。
「ごめんなさい。」
「しゃべんなくていいわよ。しゃべると、また疲れちゃうから。」
そういってトラーは、改めて掛布団をかけなおしてやった。
「暖かくして、寝ていてね。」
そういって、水穂が寝たのを確認すると、トラーは、客用寝室を出ていった。部屋を出て、とりあえず杉ちゃんたちが待っている、食堂まで行った。
「あ、どうだった?」
トラーが入ってくると、マークさんが、声をかけた。
「だめ、今日も、食べてはくれなかった。」
ちょっと、気が抜けたような表情で、トラーはぼそりと呟く。
「食べてくれない、か。」
マークさんがそういうことを言うと、杉三が、ガブッと、ソーセージをかぶりついた。
「杉ちゃんが、そんな風に、おいしそうに食べるのが、何だか恨めしいなあ。」
「だって、食べないと、何も出来んだろ。腹が減っては戦は出来ないっていうし。」
そういう杉ちゃんの、その旺盛な食欲を、水穂さんにも分けてやってくれないかなと思うマークであった。
「しっかし。このままだとどうなるんだろうね。水穂さん、何にも食べないんじゃ。」
と、いうマークだが、マークでさえもその先が怖くて言えない。
「何とかして、食べさせなきゃいけないんだろうね。どうやったらいいもんかなあ。とにかく、食べなきゃいけんなと説得するしか僕らには出来る事もないよ。」
またソーセージをかぶりついて、杉ちゃんが言った。
「どっかで相談でもしてこようかな。」
マークは、ぼそっと呟いた。
「相談?どこに?」
杉三がそういうと、
「とりあえず、ベーカー先生もいることだし、他のお医者さんもいることだし。」
そういうマークだが、相談先など、見つからないのだった。何処へ調べていいのか情報もなく、どこで調べたらいいのかもわからない。
「とりあえず、何か食べさせなくちゃ。何かないかな、日本にあるのと共通する食べ物。」
杉三がそういうと、
「そうね。あるとしたら、野菜とか、果物とかそういうものばっかりじゃない。葡萄とか、リンゴとか、そういう物。水穂、食べられるかな。」
トラーがそういった。
「うん。当たった食品は、100以上あったが、果物は比較的少なかった。それでは、なんとかなるかもしれない。」
腕組をして杉ちゃんがそういうことをいうと、
「じゃあ、あたし行ってくるわ。」
と、トラーが言ったので、みんなびっくりする。
「行くって、どこに行くの?」
びっくりしてマークがそういうと、
「農園よ。ミゲルさんとこよ。あそこだったら、葡萄もリンゴもたくさんあると思うから、なにかと引き換えに、分けてもらってくるの。」
と、どこからひらめいたのか、トラーはそういう事を言った。
「ああ、あそこか。」
「あそこって、そこに、食べ物があるのかい?」
マークが言うと、杉三が口をはさんだ。そこでマークが、こんな風に説明する。
「まあ、言ってみれば、観光客向けの、リンゴ畑だよね。いろんな種類のリンゴがたくさんなっていて。日本にあるリンゴと共通するかどうか、は不詳だけど。」
「変な説明はしなくていいわ。あたし、すぐ行ってくるから。其れじゃあ、行ってきます。」
トラーは、自分の食事をするのも忘れて、急いで靴を履き、部屋をとびだして行ってしまった。おい、待て、とマークが言っても、聞かなかった。
「水穂さん、リンゴ何て食べられるのかな。」
と、杉ちゃんがちょっと心配そうに言ったが、まず食べるものを、何とかしなければならないことは確かだった。
「まあいい。リンゴ持ってきてくれたら、それをすりおろして、はちみつと合わせて食わせよう。それとも、まるごとはちみつで煮て、あったかくして食わせよう。」
「杉ちゃん、ほんとに、考えるのが速いんだね。」
そういう杉ちゃんに、マークは、溜息をついた。
「それにしても、トラーのやつ、道を知っているのかな。確か、ミゲルさんの農園に行ったのは、十年くらい前だよ。だって、トラーが、バカロレアの試験に落ちて、この家にいるようになってから、もう、十年以上たつし。」
「そんなに、長く閉じこもってたの?」
杉三が聞くと、マークはそうなんだよねと言った。
「はじめのころは、何とかはたらこうと思っていたようだが、何だかうまくいかなくて、結局長続きしなくて。そのまま、家に閉じこもるようになってさ。なんでだろう。僕も正直わからないよ。」
「誰かに、相談もしなかったの?」
と、杉三が聞くと、
「そうなんだけど、どうも僕も、なかなか相談というところがなくてね。今みたいにインターネットがたくさんあるわけでも無かったし。本を読んでも、テレビを見て勉強しても、その効果はなかったな。もう、しまいにはお客さん何て、誰も呼べなくなっちゃったから、僕が外で仕事しないといけない羽目になった。」
と、マークは、引きこもりの若い人を抱えている保護者の気持ちを代弁するように言った。
「そうかそうか。そういう風になっちゃったか。まあ、一つ一つ、変わっていくしかないからよ。ゆっくりやっていくことだな。」
「杉ちゃん有難う。」
マークは、申し訳なさそうにいった。奥の部屋から、また咳き込んでいる声が聞こえてくる。ああ、水穂さんまた発作を起こしたなと、杉ちゃんとマークは、急いで客用寝室に行った。
一方。道路に出たトラーであったが、自分が外へ行くのにふさわしい格好でなかったことに気が付く。単に緑のトレーナーに、紺と白の縞模様の、フリースのズボンをはいていただけだった。それに、それに、勝手口用のつっかけ靴をはいていだけだったから、足元も、凍えそうなくらい寒かった。でも、戻るわけにはいかないと、雪のどかされた、道路を歩き始めた。ちょうど、道路のわきに、町内の案内板がある。それを見てみると、ミゲルさんの農園は、ここから二キロ以上離れていることが分かった。それでもいい。水穂のためだもん。頑張っていこう。そう思ってトラーは道路を歩いていく。
それにしても道路は寒かった。周りの人たちは、みんなコートを着て、雪をふさぐ帽子を被って、ブーツを履いている。そんなんだから寒くはないんだろう。自分だけが、凍えそうな寒さである。寒い。自分の方には見向きもしない周りの人たちのしゃべり声が、なんだか愁いを知らない鳥の声のような感じで、何だかとてもつらかった。
それでもいい!あたしは、水穂のためにそうするって決めたんだから!トラーはそればかり考えながら、とにかく、案内板を頼りに歩き続ける。幸い、パリの町は、十年前とさほど変化はなく、覚えていた店舗はまだ存在していたから、それを頼りに行けばいいのだという事は確かだった。
「水穂さん。大丈夫ですか。薬のんで、休みますか。」
マークたちの客用寝室では、咳き込んでいる水穂に、マークが背中をさすってやったり、たたいてやったりするのだった。一応、薬は飲ませたが、効きが悪いのか、咳き込むのは止まらなかった。
しかたなく、マークさんは、ベーカー先生を呼んだ。ベーカー先生は、すぐに来てくれた。あろうことか、隣のいえに住んでいるチボー君まで、通訳のためだからと言って、やってきてくれた。
ベーカー先生が持ってきてくれた薬を飲んで、やっと楽になってうとうと眠ってくれた水穂だが、ベーカー先生の顔は深刻だ。ベーカー先生が、また何か言った。チボー君が、
「ずいぶん、衰弱しておりますな。栄養失調だ。」
と、ベーカー先生の言葉を通訳した。
「だって、ご飯なんか、ほとんど何も食べてないんだもん。」
と、杉三がいうと、また何かいうベーカー先生。チボー君が急いで、
「食べないというと、どういう事でしょうか。極度に食欲がないという事でしょうか?」
と通訳する。
「ずっとそうなんだけどね。口にはいれるんですが、飲み込もうとすると、咳き込んで吐き出してしまうんです。」
と、杉三がそういうと、ベーカー先生は、また困った顔をした。
「ベーカー先生。何か、困ったことでもありましたかね。」
と、杉三が、そういうと、また何かいうベーカー先生。本当に、ベーカー先生が日本語を話せたらいいのになと、マークもチボーも、じれったい顔をした。
「おい。どういう事なんだよ。せんぽくん、通訳を頼むよ。」
杉ちゃんはそういうが、チボーもマークも、杉ちゃんにはこの言葉は言いたくないなあと思った。でも、それはちゃんと伝えなければいけない言葉かもしれなかった。
「杉ちゃんごめんね、こういう事だ。水穂さんには、人口栄養の投与が一番だ、それも経口摂取ができなくなってきてるから、もう、点滴で、人工栄養を入れるしかないって。」
急いでチボー君がそういうと、
「ああ、そんなのはお断りだ。あんまり、そういう措置はしてもらいたくないな。其れよりも、ちゃんと
ご飯を食わしてやるのが一番だ。それは、誰でも知っているじゃないか。」
と、杉三はさらりと言う。
「しかし杉ちゃん。もうそれしか、やる方法もないんですよ。そうしないと水穂さん他に体がもちませんよ。」
チボー君が、そういっても、杉ちゃんは、そんなものはだめだとでかい声で言うのだった。それが、どうしてだめなのか、杉ちゃんは考えを変えなかった。
「それでも、杉ちゃん、水穂さん何とかしなくちゃ。」
マークはそういったが、何とかしようという気は杉ちゃんには、ないようだった。本当にこの人は、どうして平気な顔していられるんだろうかと、チボーも、マークも不思議な顔をしていた。
「杉ちゃん。どうしてそうなるんですか。もしかすると、水穂さんの事、見捨ているんじゃないでしょうかね。」
チボーは、杉ちゃんにそういうのだが、
「だって、おトラちゃんにこれを言ってみな、あいつが、リンゴ食わしてやる、という思いも消えちまうじゃないか。」
と、杉三はからからと笑った。
「そうだけど、、、。」
マークは、杉ちゃんのその冷たさぶりに、ちょっとあきれてしまうというか、そんな気がしてしまうのであった。
一方のところ、トラーは、一生懸命寒いなか、リンゴ畑を目指して、歩いていた。もうとにかく寒いけれど、とにかく行くしかないのだと彼女は自分に言い聞かせていた。
「あいた!」
思わず、道路にすっ転んでしまう。着いた手のひらに、道路の雪がすぐ噛みつく。手のひらに擦り傷ができたが、トラーは、急いで立ちあがり、また農園を目指す。
「へっくしょい!」
トラーは、大きなくしゃみをしたが、こんなところで風邪を引いたらいけないと思い、すぐにたちあがる。
暫く行くと、市街地を抜けて、広い農場ばかりの土地へ来た。一寸でも歩けばすぐに農園ばかりになってしまうのである。とにかく、この道をまっすぐに行けば、ミゲルさんの所にはたどり着けるはずだ。と、トラーは思いながら、道路を歩き続けた。
今度は、鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。人間の声よりもよほどきれいだった。鳥は、なんだか、人間たちを、静かに自分たちの元へ迎えようとしている、そんな感じの鳴き声だった。
「トラーちゃん、どうしたの?」
そんな意味の言葉が近くから聞こえてきて、はっと彼女は後ろをふり向く。
「しかし杉ちゃん。このまま放置し続けたら、水穂さんは、大変なことになるよ。それでもいいのかい?そうじゃないだろ。だから、ベーカー先生の言う通りにしたほうがいいんじゃないの?」
マークがそういうが、
「何の事だか知らないな。」
杉三は鼻歌を歌っているのみであった。
「幸せは、歩いてこない。だから歩いていくんだね。」
何て歌っている杉ちゃんが、チボーも、マークもうらやましかった。ベーカー先生がまた何か言う。
「あ、あのねえ。その歌みたいに明るく生きるんだったら、水穂さんには、医療器具をつけてやったほうがしあわせになれるよと言っている。」
チボーは、また通訳した。
「そうかな?」
そのそうかなの言い回しが、やけに生々しくて、チボーも、マークも思わず口をつぐんだ。ベーカー先生が、チボーの通訳をとおして、どうしてそう思うのか聞くと、
「だって、医療器具くっつけて、たいへんな思いをするよりも、其れよりも、しずかにしあわせに過ごしてやりたいんです。」
と、杉ちゃんは答えた。チボーが通訳すると、
「そうですか。しかし、そうするためには、水穂さんには、人工栄養で補うことが必要なんですよ。食事ができないのは、食道の硬化が進んでいるからであって、もはや、普通に食事をさせていては、栄養が取れないという事を表しているんです。」
と、ベーカー先生は、そういう意味の事を言った。それでも杉ちゃんの態度は変わらなかった。
「幸せになるために、そういう重大な器具をつけてつらい思いをしないといけないかなあ、、、。僕は、それはもっと可哀そうだと思うんだが、どうなんだろうか。」
と、いう事をいうありさまだ。
「でも杉ちゃん、これは、日本の人たちにも言ってほしいですが、どうして皆さん、水穂さんの事を放置したまま、なにもしないんですか?」
チボーがそんなことをいうと、杉三は、
「そうしてやるのが、水穂さんにとって、一番幸せだからな。」
と答えた。
「いや、そんなことありませんよ、杉ちゃん。水穂さんだって、少しでもこっちに居たいはずだ。そのためには、もう、こうするしかないんです。こうなったらちょうどいいチャンスですよ。水穂さんは、日本に居ても碌な人生を送ってこれなかったんだから、それなら、残りの時間はこっちにいてくれてもいいんじゃありませんか。」
マークさんがそういうことをいっている。
「確かにマークさんのいう事も一理あるけど、本人は、日本へ帰りたいと思うよ。」
と、杉ちゃんは言った。みんな、やるせない気持ちになって、それぞれ下を向いてしまった。また、外は、鳥たちの鳴き声で、あふれかえってくる。鳥は、いいなあ、あんないい声してさ、と、思われるほど、こちらの鳥たちはいい声をしているのだ。それは、人間をバカにしているのか、それとも応援しているのか、よくわからない鳥たちの声。つまり愁いを知らない鳥たちの歌であった。
またベーカー先生が何か言った。チボーが急いで、
「では、彼が目を覚ましたら、すぐに、人口栄養の投与における道具を手配しますから、いくら本人が嫌がっても、残りの余生のためだとしっかり説得してくださいね。」
と、通訳した。そうなると、ベーカー先生のいう通りになるのなら、水穂さんは二度と、ご飯なんか食べれなくなるのか、という事が、もうはっきりしてしまったのだった。
「ちょっと待ってくれないかな。あと一人、重要な人物がいるんだからさ。そいつは、どう反応するかなあ。」
と、杉三がそういう。チボーが急いでベーカー先生に通訳をしようとすると、
「ただいまあ!帰ってきたわ!」
と、一人の女性の声が聞こえてきた。彼女は、玄関のドアを開けると、猪突猛進に客用寝室に突進してきた。彼女、つまりトラーの足は、両方とも、ひどいしもやけができていて、手のひらには、両方とも擦り傷があった。
「どうしたんだよ、その足?」
「ごめんなさい。道路で滑って転んでしまったの。ちゃんとブーツを履いていかなかったから、あたしが悪かった。」
マークが聞くと、トラーはそう答えた。
「それより、ミゲルさんのところにいって、リンゴを分けてもらったの。そして、帰りがけにカフェのマスターに、リンゴの蜂蜜煮を作ってもらってきた。みんな親切ね。水穂に食べさせるんだって言ったら、喜んでやってくれたわ。」
「ははあ、なるほどねえ。」
マークはそう言ったが、これはたぶん、トラーが持っている艶めかしい雰囲気で、周りの人たちが動いてしまったのだろう。彼女はそういう女性だった。トラー自身がそのことを知っているのかは不詳だが、いくら引きこもりの女性であっても、彼女はそういう事ができる美貌を持っていた。
「とにかく、作り立ての蜂蜜煮だけど、食べさせてあげようと思って。こういう甘いお菓子なら、自然に食欲もわいてくるんじゃないかって、マスターが言ってた。」
トラーは、持っていた密閉容器の蓋を開ける。確かにリンゴの蜂蜜煮がフォークと一緒に入っていた。それをフォークで突き刺して、トラーは水穂の口元に、リンゴを持って行った。
「食べてよ。」
ベーカー先生が止めようとするが、杉三がちょっと待ってやってくれ、と頼んだ。もちろん、ベーカー先生は日本語の知識というものはないが、表情がはっきりしている杉ちゃんの顔も、また周りを動かす能力があった。
「食べて!」
トラーが、ちょっと強い口調でそういうと、水穂さんのこわばった唇が動いた。たぶんリンゴの匂いで目が覚めてくれたようだ。やがて、そっと目が開き、リンゴを口に入れてくれた。ベーカー先生は、すぐにのどに詰まって吐き出してしまうのではないかと身構えたが、水穂は、リンゴを口に入れて、そのまま飲み込んだ。
「やったぜ!」
「奇跡だわ!」
杉三とトラーが同時に叫ぶ。マークさんとチボーは、こんなことって本当にあるのかなという顔をしているが、水穂にトラーが抱き着いた。杉ちゃんなんかは、よくできましたと三回繰り返して大喜びしたくらいだ。
こんなことをいっている間に、パリのお天気はだんだん暗くなっていく。愁いを知らない鳥たちは、もう、寝場所へ帰っていく時間だった。彼らは、木のうえや電柱のうえから、またのんびりと歌を歌って、飛び立っていくのだった。
愁いを知らぬ鳥のうた 増田朋美 @masubuchi4996
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