第2章 メール
「ええ、ええ。分かった」
女が携帯電話で話している。里香の視線に気付き、
「ありがとうございました。また後ほど」
ケータイをしまい、里香に笑いかけた。
「気分はどう?」
宿直室のような小部屋だった。
「ありがと……」
起き上がろうとすると頭がフラフラした。女は背中に手を回し支えてくれた。里香は薔薇の香水の匂いを嗅いでポッと頬が上気した。
「あ、ありがとうございました。あの……、芙蓉……美貴……さん……?」
女は丸椅子に座りベッドに起き上がった里香と向かい合った。
芙蓉美貴、
最近テレビでよく話題になる霊能師だった。
美人だ。
背中に流した真っ黒なロングヘアー。トップモデル並の美貌。くっきりとした強い眼差し。出来る大人の女という感じだが、本職は大学生とのことだ。
美貌の霊能師ということで話題になるのだが、
彼女は、アシスタントだ。
彼女の「先生」は彼女に輪をかけてすさまじく………
ぼうっと見とれていた里香は芙蓉のじっと覗き込む視線にはっと我に返った。
「そうだ、あたし……」
どうしてしまったのだろう?
「危なかったわね」
芙蓉は探るように里香の目を見ている。
「もう少しで線路に飛び出すところだったわ」
(そして、あの女性のように……)
里香はまた髪の毛と手に付いた血を思い出してぶるっと震えた。
「小川春香さん」
「え?」
「知ってる?」
里香は首を振った。
「そう。さっき亡くなった方。知り合いに調べてもらったの」
さっきの電話か。
「ここの人は教えてくれないから」
ガラス窓の棚に医薬品が並んでいる。駅の医療室だろうか? 常駐の医師もいないらしく二人の他に誰もいない。
「小川春香さん。近くの商社に勤めるOL。年齢29歳。独身」
知ってる?と芙蓉はもう一度尋ね、里香はいいえと答えた。
「突然線路に向かって飛びだしたそうよ。入ってくる電車を狙いすましたように」
里香はその光景を……想像したくもない。
「自殺のようね。断言は出来ないけれど」
芙蓉は黙って里香を見つめた。沈黙が重い。
「あなたは、どうだったの?」
「ち、違います! 自殺なんて、そんな!……」
「そう。自分が何をしようとしているのか、自覚はあったの?」
「分かりません。ぜんぜん、分からないんです。突然なんだかすごく不安になって、とにかくここから逃げ出さなくちゃと思って、もう、とにかく怖くて、どうしたらいいか分からなくて、とにかく、逃げなくちゃって……」
里香はまたさっきの不安が襲ってこないか身構えたが、だいじょうぶだった。
芙蓉が落ち着いた声で言った。
「パニック症候群。
閉所恐怖症とか高所恐怖症の類ね。専門家じゃないから適当だけど人混みで突然不安に襲われてパニックになってしまう人もいるそうよ」
「はあ……」
「たいていは何も出来ずに物陰にうずくまってしまうケースが多いようだけど、線路に飛び出そうとするのはちょっと特殊かしら?」
「そうなんでしょうか……」
自分はそのパニック症候群とかいう病気なのだろうか?
里香はうつむいた顔を上げて芙蓉に挑むように言った。
「わたし、今までそんな風になったことありません。それに、人が死んだんですよ?目の前で! そんな、病気なんかじゃ……」
芙蓉はあくまで冷静に受け止め、訊く。
「じゃあ、なあに?」
「………分かりません……」
里香はちょっと恨めしそうに芙蓉を睨んだ。彼女なら自分の不安の原因を教えてくれるのではないか?
(予知とか、精神のシンクロとか…………)
芙蓉は笑った。
「霊能者的見解を求めるのはよしたほうがいいわね。わざわざ引き寄せることもないでしょう」
芙蓉の目に里香はゾクッと背筋が寒くなった。芙蓉はすぐに穏やかな視線に戻した。
「先生の受け売りだけど、世の中の出来事なんてみんな霊的世界とつながっているし、心霊現象だって、理屈をこねればなんだって『科学的に』説明できるわ。要は、精神を健全に保つことがだいじね」
分かった?と目を覗き込まれ、里香はほっとした。
何にしろ、もう済んだことだ………
耳慣れた音楽が鳴った。里香のケータイの、メールの着信音だ。
どうぞ、と芙蓉がカバンを取ってくれ、里香はケータイを引っぱり出した。
クラスメートの真衣からだ。ピッ。
「な…………………」
里香は驚愕し、カアーッと頭に血が上った。
「なによこれっ!」
里香のただならない様子に芙蓉も顔を曇らせた。里香は黙ってケータイを芙蓉に見せた。
<リカ、もう死んでる? それとも別の誰かが死んだ?>
「どういうこと?……」
さすがの芙蓉も困惑を隠せない。里香はケータイを引き寄せると真衣に電話した。すぐに出た。
『もしも~し』
「真衣!このメール!どういうことよ!?」
『あれ?里香ー? なーんだ、あんた、生きてるんだ? へえー』
鼻にかかったフニャフニャしたしゃべり方。むかつく。
『あ、じゃあさじゃあさ、……フフ、
誰か、死んだ?』
頭がジーンとしびれた。死んだ? そうよ、死んだわよっ!!
「ふざけてんじゃないわよ! どうして知ったのか知らないけれど、タチ悪すぎよ!」
『あー、うっさいなあー。てことは、死んだんだ、やっぱ。へえ~』
呑気に感心している。腹立たしいが、里香はだんだん不安になってきた。声を落としてゆっくり言った。
「まじめに答えなよ。どうして事故のこと知ってるのよ?」
クスッと小さな笑いが聞こえた。
『教祖様のお告げがあったのよ』
里香はギクリと固まり、再びカアーッと怒りがわき上がってきた。すぐにまた声のトーンが上がる。
「松田さんが、何を言ったのよ?」
『教祖様と呼びなさい!』
相手もそこだけ強い調子で言って、またフニャフニャのしゃべり方に戻った。
『教祖様が予言なされたのよ、あんたが今夜7時、電車に飛び込んで死ぬって』
「………………」
『もし死ななければ、身代わりに誰かが死ぬ、って』
「身代わり?」
(身代わり?)
里香は心の中でもう一度言った。
あの女の人が自分の身代わりで死んだというのか?
また、あの光景と音がフラッシュバックした。
『おーい、里香ー、聞いてる~?
教祖様はね、たぶんあなたは死なないだろうとおっしゃってたわ。代わりに誰かが死ぬ。
あなたが死ねばいいのに、ってね』
本気か? 本気でそんな悪魔のようなことを言ったのか?
「……いつよ? いつそのお告げがあったの?」
『えっとー、放課後、教室でよ。集会の時にね。ごめんねー、7時ちょうどにメールするつもりだったけど陽子と電話してて忘れてたわ。アハハ』
壁の時計を見ると7時50分になろうとしている。
「……明日、松田さんと話すわ」
教祖様と、と言う声を無視して里香はケータイを閉じた。
芙蓉が眉を険しくして里香を見ている。
「教祖様って誰?」
「クラスメートです。
松田麗美(まつだれいみ)っていう。
最近占いに懲りだして、それがけっこう当たるものだから女子たちで熱心な信者になる子たちがいて……」
本当は、けっこう、どころじゃないのだが……
「ふうん。どんな占いをするの?」
「花札を使うんです。よく分からないけれどタロットカードと同じように使うとか」
「花札。それはまた古風ね」
里香が問うような視線を向けると芙蓉は笑って手を振った。
「あ、わたしたちそういうのはぜんぜん別だから」
「見えるんですよね?ふつうに?」
「先生はね。わたしは感じる程度だけど。わたしたちが使う道具と言ったらこれだけかな?」
芙蓉はジャケットの内からシルバーのマスコットを取り出して里香に渡してくれた。
高さ5センチほどの女神の像だ。西洋の顔立ちに、背中に大きな羽根を畳んでいる。
「お守り、霊力増幅装置、結界等々、万能アイテムね。
で、その教祖様、松田さんは、最近なの?占いをするようになったのって。それ以前は?」
「それまではぜんぜん。そうですね、ちょうど1ヶ月くらいかな?10月になってからだったと思いますけど……」
実は、里香はそのきっかけになったであろう一つの出来事を知っているのだが……
ふうん……と芙蓉は考えて、
「キツネにでも憑かれたかしら?」
と言った。
「キツネ……ですか?」
さあ?と肩をすくめて、
「正体は分からないけれど、そういうのはたいてい本人の資質より何か霊的なものに憑かれている場合が多いみたい」
「科学的な検証はなしですか?」
芙蓉はコラと指で里香を小突く真似をした。
「でもちょっと心配ね。死を予言するなんて、たちの悪い悪霊に取り憑かれているんじゃないといいけれど」
芙蓉は考え込み、里香は手持ちぶさたに借りた女神像を手のひらに転がした。
「あの、これ……」
バタンとドアが開いて里香の母親が飛び込んできた。
「里香!あんた、だいじょうぶ?」
肩を抱き、頭を撫で、怖い顔でどこか異常がないか調べている。
「お母さん、だいじょうぶだよ。あたしはビックリして気絶しただけだから」
「気絶だなんて、あんた」
「だいじょうぶだって」
里香はうるさそうに母親を引き離した。
母親の後ろにまだ若い背広姿の鉄道職員がついてきている。母親は彼を睨んだ。
「いや、あのこちらの方が休ませればだいじょうぶだろうと……」
職員に示されて母親は芙蓉を見た。芙蓉は邪魔にならないように椅子から立って後ろに退いていた。母親はそれまで芙蓉も職員と思い込んでいたようだが、
「えっと、あなたは……」
際立った美貌に大物感を漂わせる落ち着いたたたずまいに困惑した。
「芙蓉美貴さん。すごいでしょ、芙蓉さんがわたしを助けてくれたのよ!」
「ふようさん?」
「ほら、美人霊能師で話題の。こないだお母さんもいっしょにテレビ見てたじゃない?」
芙蓉が挨拶し、母親も慌てて頭を下げた。
「芙蓉さん……。ああ、芙蓉さんね、あらまあ、ほんと、ええ、よくテレビで拝見しております。あらあらまあまあ」
母親はオホホと笑ってまあまあと頭を下げた。が、里香の目にも母親が芙蓉を胡散臭く思っているのは明らかで、里香はガッカリした。
「お母さん。どうして分かったの?」
これ、と芙蓉が胸ポケットから里香の生徒手帳を取り出した。
「勝手にごめんなさいね。やっぱりご家族にご連絡した方がいいと思ったから職員の方にお見せしました。はい、里香さん」
そういえば自分はまだ命の恩人に名前も名乗っていなかった。里香は名前を呼んで手帳を手渡され、芙蓉に親しみを感じ、嬉しくなった。
母親はまたしつこく礼を述べ、里香に歩けるかと促した。
「うん」
里香は立ち上がり、手に持った女神像を芙蓉に差し出した。
「これ……」
「ええ」
芙蓉は受け取り、里香にだけ聞こえるように「手帳の中」と囁いた。
「どうもありがとうございました」
母親に促されて廊下に出て、里香はそっと生徒手帳を改めた。
名刺が挟まっていた。
里香は嬉しくてニヤッと笑った。
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