第1章 ホームにて
なんの前触れもなく、
とっさに、
『逃げなくちゃ』
と思った。体の内側から強烈な危険信号が発せられている。
しかし、何が、里香にそう思わせているのか?
時刻は7時になろうというところ。Y線のN駅。帰宅の途にあるサラリーマン、OLでホームはごった返しているが特に異常は見えない。
里香は中学2年生。自宅がリフォーム中で今は電車で2駅離れたウィークリーマンションに一時越している。
里香は辺りに注意しながら電車を待つ列の後ろについた。
身内からわき上がる不安はどんどん膨らんでいき、足元をおぼつかなくしている。人の動きに肩を押されただけで里香はよろめき、列から大きく外れてしまった。年輩の男性が不審そうな目を向けた。
里香の胸の動悸はどんどん大きくなっている。あごが震えて歯がカチカチ鳴った。
『何?なんなの?』
しかし辺りをどんなに見渡しても原因は見つからない。
不安は際限なく膨らんでいき、体がフラフラ感覚を失い、せっぱ詰まった焦りがフルボリュームのサイレンのように内耳を圧した。
『逃げなくちゃ』
何から?どうして?
年輩の男性がまた里香を見た。変だと思われている。
しかし、どんなに理性的になろうと努力しても、巨大な不安感に神経を麻痺させられ、『逃げなくちゃ』という思い込みが里香の体を突き動かした。
里香はむりやり人の列を押し分け前に進んだ。怒りの声が上がる。かまわず人をかき分け前に進む。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。
どこに?
逃げ道を探って里香はがむしゃらに前に出た。
不安が、恐怖が、危険が、
里香を追ってくる、
後ろから、右から、左から。
前へ、前へ、
逃げなくちゃ、
ここから、
逃げ出さなくちゃ!
ぽっかりと、空間が開けた。
飛び込め、
逃げなくちゃ!!!!
「あなた」
里香はグッと腕を掴まれ、思わぬ強い力で引き戻された。
里香の足が空間をかいた。ホームの端。あと一歩で線路に飛び降りるところだった。
里香はこわばった顔で相手を睨んだ。
「どうしたの? 落ち着きなさい」
長身の女が真っ黒なサングラスを外して里香を見つめた。
里香はふわふわ頼りない感覚の中で小さな驚きを感じた。
その女、綺麗な顔に落ち着き払った理性的な眼差し。
「あなた……、知ってる……。テレビで見た……」
女は小首を傾げちょっぴりおどけた表情を見せたが、ビクリと、きつい目になって横を向いた。列の先頭。ラッシュ時のホームは乗車口以外も第2第3の列が隙間なく並んでいる。場内アナウンス。
『ただいま入場してきます電車は快速電車で当駅には停車いたしません。ご注意くださ…』
キャー、ワー、と悲鳴が上がった。
パアン、と警報を鳴らし電車が入ってくる。
ゴツン。
ザアーッと通り過ぎていく電車の、先頭に、黒い固まりがたなびいていた。
ピチャリと頬に当たった液体を拭うと指が真っ赤に濡れていた。
「……………………」
頭の中でさっき通り過ぎていった黒い固まりがフラッシュバックする。
髪の毛……
女の人だった。
『ゴツン』
耳の奥に衝突音が甦る。
女の人が電車に…………
急ブレーキの音が鳴り響き、悲鳴がわき上がる中、里香は気を失った。
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