茶漬け一杯、しあわせの味

いももち

茶漬け一杯、しあわせの味

 東千尋は、茶漬けが大好きだった。



 夏には少し冷めたごはんに冷たい緑茶をかけて食べるのが好きで、冬は熱々のご飯にこれまた熱々の玄米茶をかけて、鰹節やささみ肉それから梅干しを入れた物も好きで。

 毎日茶漬けでも飽きないくらいに、大好きだったのだ。



 千尋がこんなにも茶漬けが好きになったのは、父の影響だった。



『ほーれ、千尋。父ちゃんの茶漬けだぞ〜』



 まだ千尋が赤ん坊の時に母親は亡くなってしまったため、男手一つで育ててくれた父。

 不器用で、料理はあまり上手な方ではじゃなくて。加えて仕事も忙しく、朝だとまともに顔を合わせられた試しがない。

 そんな父であったものだから、サラッと食べられてお腹も膨れる茶漬けばかりを作っていたのだ。茶漬けが大好きだったというのもあるけれど。



 もちろん、千尋が飽きてしまわないように具材を変えて、出汁をとる時は鰹節を使ったり、昆布を使ったり、または両方使ったりして味を変えたりしてくれていた。一応スーパーで買ったお惣菜も一緒に出してくれてもいた。

 だから千尋も毎回茶漬けを出されても、嫌な顔はしなかった。むしろ、今日はどんな茶漬けが食べられるのだろうとわくわくしていたほどだ。



 茶漬けこそが千尋にとっておふろの味ならぬ、おやじの味だった。



 成長して家事のほぼ全てを父の代わりに千尋が担うようになってからは、父の作った茶漬けを食べる機会は減ってしまったけれど。

 代わりに、千尋が色々とアレンジを加えて茶漬けを作るようになった。特にお酒を飲んだ後に「シメにちょうどいい」と喜ばれたくらいだった。



 そんな大好きだった父が、一年前に交通事故で亡くなった。

 いつも通りに仕事に行こうと、最寄りのバス停でバスを待っていた時に、猛スピードで突っ込んできた乗用車に轢かれて数十メートルも引き摺られたのだ。



 家に忘れていた父のスマホを届けに行き、その一部始終を見た後、あまりにも変わり果ててしまった父の姿に膝から崩れ落ちた。



 その後駆けつけた救急車に父が運ばれたけれど、もう息はなくて。

 病院で医師から、父はおそらく即死だっただろうと聞かされた時、あまり痛い思いをしなくて済んだのだろうと、ほんの少し安堵した。

 それほどまでに、父の姿は酷かったから。



 それから父の葬式を終えた後は、あまり記憶が無い。

 四十九日はいつの間にか過ぎていて、父だったモノが収まった箱は母と同じ墓石の下に収められていて。

 親戚の人たちが、痛ましそうにこちらを見てお悔やみの言葉を述べて、去って行った。



 それまで一度も、涙は出なかった。父が亡くなって半年も経った今ですら、一粒も涙は出ない。

 意外と自分は薄情な人間だったのだと、心底絶望した。



 あんなにも大好きだった父が死んでしまったのに、母がいなくとも寂しいと感じないくらい、たくさんの愛情を注いでくれた父が目の前で変わり果てた姿となっていたのに。

 なんて冷たく、酷い娘なのだろう。



 そうして、漠然と日々を過ごした。



 父がいなくなったその瞬間から、千尋の世界は色褪せた。

 ただ生きているから生きているような、そんな状態。

 前は面白いと思えた漫画はちっとも面白くなくなって、毎週父と見ていたバラエティ番組は見ることすら苦痛で。



「……死のう」



 父の命日であるその日一番楽で、一番選んではいけない選択を選んだ。



 死ぬのなら一人で。

 誰にも迷惑をかけない場所で。



 そう考えて、電車で地元から遠く離れた海のよく見える町までやって来た。



 父は海が好きだった。夏休みになると、数日休みをもぎ取って来て海水浴に連れて行ってくれたのだ。

 中学生に上がった頃からは、父の仕事がさらに忙しくなってしまって、毎日疲れて帰ってくる父に無理をさせたくなくて海水浴には行かなくなってしまったけれど。



 駅から黙々と歩き続ければ、浜辺へと辿り着く。

 今は真冬なので辺りには人影は無い。

 ザァザァという波の音と、自分の呼吸しか聞こえなくて、まるで世界に一人だけ取り残されてしまったよう。



 海の方へと足を進めて、あともう二、三歩歩けば波に当たるという所まで近づいて、ふと聞こえた水音に顔を上げる。

 少し離れた所で、二回魚が跳ねた。なんの魚かは分からなかったけれど、夕日の光を反射してキラキラと光るその姿は綺麗で――昔似たような光景を見て父が「美味そう」と言っていたことを思い出した。



 そんな昔の記憶を思い出した瞬間、ぐうっと腹が鳴った。

 この一年間空腹なんてあまり感じなかったのにと、少しだけ驚く。



「……そういえば、全然お茶漬け食べてなかったな」



 父が亡くなったあの日から、大好きだったお茶漬けを食べていなかった。

 そもそもまともに食事も摂っていなかった。



 一人で食べる食事はあまりにも味気なくて、なにより父がいなくなってしまった事実を突きつけてくるから。

 だから、ここ一年の間はほとんど企業戦士の味方であるゼリーを食べていた。あとは、適当に買った惣菜パンなどだ。



 空腹のまま死ぬのはなんとなく嫌で、最期の晩餐として茶漬け一杯くらいは食べようと、近くにあるコンビニをスマホで検索し、余分に持ってきていたお金で必要な食材を買ってコンビニを出る。

 そしてスーパーの近くにあった公園へと向かい、入り口近くにあった自販機でホットの玄米茶を買い、公園の中へと入って砂場近くのベンチに腰掛けた。



 コンビニの袋から紙の丼にたらこのおにぎりを入れて、その上にサーモンと梅干し、それから塩昆布を乗せて、上からまだ温かい玄米茶をかける。

 ふわりと湯気が上って、玄米茶の香ばしい匂いが漂う。

 それが空きっ腹を刺激して、ぐうぅぅっと腹から大きな音が出て、思わず周りに人がいないかと見渡す。

 流石に人様に腹の虫が騒いでいる音を聞かれるのは、少しばかり恥ずかしい。



 幸い周囲に人はおらず、人に腹の音を聞かれてはいなかった。



「……いただきます」



 安堵の息を吐き、一度手に持っていた丼をベンチの上に置き、手を合わせてからコンビニ袋からスプーンを取り出し丼の中身をかき混ぜてから、一口分を掬って口に運ぶ。



 もぐもぐと咀嚼すれば、おにぎりに入っていたたらこのプチプチとした食感と、塩昆布の塩気と梅干しの味が合わさり、とても美味しい。

 サーモンも玄米茶のおかげでそこまで生臭さは感じず、醤油が無くとも塩昆布と梅干しのおかげで、するすると食べられる。



「おい、しい……」



 久しぶりの温かな食事に、胃が喜んでいるのが分かる。

 体の芯からぽかぽかと温かくて、目の奥がじんじんと熱くなる。



「おいしい、よぉ……」



 今までちっとも出てこなかったはずの涙が、ポタポタとお茶漬けの上に落ちていく。

 そして、今になって思い出した。このお茶漬けは、父が生きていた頃に一番よく食べていた、一番好きなお茶漬けだったと。



『お父さんはなぁ、この組み合わせが一番大好きなんだ』



 お茶漬けを食べながら、幸せそうにへにょりと笑った父の顔が鮮明に思い浮かぶ。



 この一年間、変わり果てた父の姿以外全く思い出せなかった。

 アルバムにある父の写真も全て、あの時の記憶に上塗りされてしまって、ちゃんと顔が見れなかった。

 父の笑顔が、脳裏に思い浮かべられなかった。



 それなのに、今はどうだろう。



 父のたくさんの顔が浮かぶ。

 千尋が怪我をして大泣きし困っておろおろしている時の顔も、小学校の入学式の写真撮影でビシッと決めた顔も、誕生日におめでとうと言って笑ってくれた顔も、悪戯をして怒った時の顔も、母と並んで幸せそうに微笑んでいる顔も、全部全部。



『千尋はお父さんとお母さんの宝物なんだよ』



 この世で一番愛してくれた人。

 たくさんたくさん愛情を注いでくれて、誰よりも千尋の幸せを願ってくれた人。



「……ご、めん……なさい……! ごめん、なさい……!」



 どうして忘れていたのだ。

 どうして思い出せなかったのだ。



 あんなにも、大切だったのに。

 あんなにも、大切にしてもらったのに。



『お父さんは千尋が大好きで、大切だから、世界で一番幸せになってほしいんだよ』



 死んでしまったら、終わることを選んでしまったら、幸せになってほしいと願ってくれた大好きな父を裏切ってしまうじゃないか。



「ごめんなさい、お父さん……、ごめんな、さ……」



 それから暫く、千尋は泣き続けた。

 一年前泣かなかった分の代わりのように。







 あの日から、十数年経った。



 千尋は自殺することをやめて、家へと帰った。

 それから親戚たちに気遣われながらも通っていた大学を卒業し就職して、職場で出会った男性と結婚した。



 今、千尋には旦那と三人の子どもたちがいる。

 四人共、千尋ほどではないけれどお茶漬けが好きで、時々朝ごはんや昼ごはんに出すと、喜んで食べてくれる。



 そのことがとても幸せで、あの時死んでしまわなくてよかったと心からそう思う。

 父が亡くなってしまったあの日のことは今でも記憶の奥底にこびり付いて消えないし、時々夢に見ては飛び起きたりすることもあるけれど。



「お母さん、今日の朝ごはんなにー?」

「お母さんの大好きな『しあわせの味茶漬け』でーす!」



 大切な『しあわせの味』を忘れることは、もうなかった。

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