伊藤有紀のケース: 2
背後で、転移ゲートが光を放った気配に、雲井かなたはカウンターを拭く手を止めた。
いつも通りの、ハイパティーロ旅行相談所。
銀髪エルフのサーシャは、パソコンのモニターのようなものの前で、キーボードらしいものを叩き、青髪に羊角を生やしたスーツ姿のルドラは、最近手に入れたタブレットらしいものを手に、その画面を真剣な顔でつついている。
狼に似た顔立ちの獣人リカルドは、いつものアロハシャツ姿で、給湯器の手入れをしている。
いつもの平和な、相談所。
「いらっしゃいませ、ハイパティーロ旅行相談所へ……」
言いながら、笑顔で振り返ったかなたの視線の先で、
『キシャァァアっ』
空中に浮かぶ異形のものが、空間を裂くような叫びを放った。
それは、遠い遠い昔、地球上に存在していたという有翼の獣に似ていた。翼の先についた申し訳程度の前脚、四本のかぎ爪。毛も羽もない、皮だけの翼を一度だけはためかせたそれは、鋭いくちばしを槍のように突き出し、かなたに襲いかかった。
「……かなた!」
獣の叫びに気づいたサーシャが、椅子を蹴って立ち上がり、カウンターに手をついて躍り上がる。顔上げたルドラが、とっさに右手の指先で空になにかを描く。振り返ったリカルドが、かなたと獣の間に立ちはだかろうと床を蹴る。
だが、どれもわずかに間に合わない。
かなたは悲鳴を上げるのも思いつかないまま、とっさに自分の顔の前に腕をかざし、ぎゅっと目を閉じた。
『グゲエエェェ』
鳥が喉を絞められたような叫びと共に、なにかが遠くの壁にぶち当たった音が響いた。
かなたが目を開けると、相談所の、反対側の壁に、翼を広げたままの獣がめり込む勢いで叩きつけられている。転移中継フィールドを擁した室内は、不測の事態に備えて作りだけは頑健らしく、壁自体に損傷はないが、飾られたポスターが破れたり、額が割れ落ちたりと、衝撃の強さを物語っている。
『グゲェ?』
自分に何が起きたのか、よく判っていない怪物は、目を丸くして辺りを見回していたが、離れた場所で呆然と立ちすくむ獲物の姿を再認識すると同時に、改めて翼を動かした。その勢いで壁から離れ、改めて宙に躍り上がる獣の、その目と目のちょうど中間に、
モップの柄が突き刺さった。
獣の眼前でモップの柄を握るのは、銀髪の事務員エルフ、サーシャだ。
空中にありながら、絵画のように不自然に静止した獣とエルフは、遅れて役割を思い出した慣性と重力の動きによって、獣の後方に向けて、弧を描くように落下をはじめた。
サーシャはその動きの中で、モップの柄を掴んだ右手を引くと、今度は獣の喉元から胃の上に当たる腹部に向けて、鋭い突きを放った。
翼を動かす隙も与えられず、落下地点を下方に修正された獣の真横から、大きな影が飛びかかる。リカルドの太い腕が、翼獣の左半身を容赦なく殴り倒す。
翼の動きとは全く無関係な方向にはたき倒された翼獣の全身に、無数の光の縄が張り巡らされた。
翼や脚だけではなく、くちばしまでまきつかれた翼獣は、身動きを封じられ、本来ならそのまま床に落下するはずの中空で、見えないなにかにぶら下げられたかのように制止している。
「……大丈夫、かなた」
「は、はい」
座り込んで身を縮めていたかなたは、すぐ後ろのカウンターに腰掛けてこちらを覗き込むルドラに、小さく頷き返した。右の指先を伸ばしているのは、光の網を操っているからだ。駆け寄ってきたリカルドがかがみ込み、かなたに手を貸して立ち上がらせる。
「怪我はないですか? 驚きましたね」
「ありがとうございます。不注意でした」
「いやいや、転移ゲート経由でモンスターがここに入ってくるなんて、普通じゃ考えられないよ。なにか不具合でもあったかな」
「都市外でも見ないやつだな、誰ぞの転移に巻き込まれてきたのか?」
モップの柄をくるりと手元で回して鞘に収める仕草をすると、サーシャは光の網の中で身動きできずにいる翼獣を目をすがめて観察している。ルドラがなにかに思い当たったらしく、
「……下級の魔獣だね。誰かが使い魔にでもするのに呼び出したのかな?」
「でも、人間以外にはここの転移ゲートは反応しないんですよね?」
「そうなんだよねぇ。それにこいつ、ろくに知能もないんだもん。呼び出したところでペットにもならないよ」
くちばしまでぐるぐる巻きにされて声も上げられない翼獣は、目の前で酷評されても文字通り手も足も出ない。
「せいぜい、魔法薬の材料とか、使い魔の餌とか? こんなもの、わざわざ召喚魔方まで使って呼び出すような物好きなんか……いや、一人だけ知ってるけど……」
ルドラの言葉にかぶせるように、慌ただしい足音と怒号のような叫びが、遠くから聞こえてきた。自動ドアのはずの入り口がありえない早さでぴしゃんと開き、
「貴様らなんのつもりだ! 私の獲物を返せ!」
ゼエゼエと肩で息をつき、なぜかまっすぐにルドラを睨み付けている。
黒い三角帽子に黒いローブ、見事な銀色の髪。右手に持っているのは枯れかかった古木でできたおどろおどろしい杖。白雪姫の時代からの古典的記号的な「魔女」だ。
ただ、その体はひどく小さい。かなたも小さいが、かなたは成人女子の平均よりも大幅に小柄なだけで、人間としては常識的なサイズだ。
目の前の魔女は、かなたよりも更に小さく、人間の子供、小学校低学年程度の等身だ。見た目も、言ってしまえば、子供そのものだ。
目を丸くしているかなたとリカルドの後ろで、ルドラは一気に脱力した様子で、
「出たなコスプレ魔女」
「コスプレではない! 口減らずの三下魔族が!」
可愛らしい幼女の見た目とは裏腹に、豊富な語彙を予感させる口調で、魔女が噛みつくように叫ぶ。目を点にして固まっていたかなたは、やっと我に返った様子で、
「ど、どなたですか……」
「ああ、かなたは初めてだっけ? 自称錬金術師のパラケだよ。このご時世に錬金術ってだけでも、脳内の世界観お察しだよね」
「やかましい! 誰にも迷惑はかけておらぬのにその言い草はなんじゃ!」
と、歯をむいているが、見た目が可愛らしいのでどうにも微笑ましさが先に立つ。
「だいだいだ、市壁内にはモンスターは入れぬと言うから、こちららは不便を押して郊外に居を構えておるのじゃ! こんなものを郊外に落としてくるだけでも貴様らの怠慢だろう! それも、わざわざ我の魔方円に!」
「……こんなものって」
その言葉で、一同はやっと、パラケが肩に担ぐ、古典魔女の持ち物には余り似つかわしくないアイテムに気がついた。
すなわち、ロープでぐるぐる巻きにされてたあげく、眼を回している人間の女の子。
「そ、そんなもの担いで、よく門番が街に通したね……」
「貴様らの所に突き返して来ると言ったら納得して門を開けた」
「ええっ、それひょっとしてお客様ですか?!」
断片的ながら、少女の存在の意味を理解したかなたが、悲鳴のように声をあげた。
「まさか、市壁外に出ちゃったんですか?! なんでぐるぐるまきにしちゃってるんですか?! リカルドさん、助けてあげてください!」
「あ、はいはい。ちょっと失礼」
かなたの剣幕に圧倒されているパラケの肩から、リカルドが少女をひょいととりあげる。応接セットのソファに運ばれた少女に巻かれたロープを、必死で外すかなた。
口を挟み損ねたサーシャは、空中からぶら下がるような位置で浮かんでいる翼獣をちらりと見やると、やれやれと言った様子でモップの柄片手にデスクに戻っていった。
カウンターに腰掛けたルドラの横で、かわいらしい魔女が顔を引きつらせている。
「三下、なんじゃ、あの人間の娘は」
「うちの受付嬢だよ、てか三下ってなにさコスプレ魔女」
「コスプレでもないし魔女でもない! 錬金術師じゃ!」
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