雲居かなたのケース
滞在はたった三日なのに、すっかり生活サイクルが健康的になってしまったのか、朝の六時過ぎには目が醒めてしまった。着替えて朝食をとりに食堂に行き、食堂に流れるラジオ的なものに耳を澄ます。字は読めないが、言葉はなぜか理解できるから、情報源はラジオの方が向いているようだ。
しかしこの三日間、何人かに会って話した以外は、すべてフリーだった。観光的な滞在をイメージしていたから、あれこれ遊びに行く場所を提案されるかと思っていたが、そうではないらしい。むしろニホン人が、旅の中にあれこれ予定を詰め込みすぎるだけなのかも知れないが。
ほかに特にすることもないので、相談所に顔を出してみることにした。もし散歩でいける距離でいい場所でもあったら、教えてもらおうかと思ったのだ。
ちょっと早いかと思ったが、まだ開いて間もない営業所の中で、かなただけがカウンターに座って書類を眺めている。
「あっ、おはようございます和美さん。朝早いんですね!」
「いや、目が醒めたけど特にすることもなくて……」
昨日丸一日会っていないが、かなたは来たときと変わらない顔で元気よく声をかけてきた。というか、会っていないのは昨日一日だけなのだが、ひどく久しぶりに会うような気がした。
日本からの転移者は多いと言うから、きっとこの人には、自分がこうやって滞在しているのも、特別なことではないのだろう。
あれだけいろいろな人から話を聞いたのに、特に劇的に『帰りたい!』という気分でもないのは申し訳ない気がした。でも、自分が残ろうが帰ろうが、特に深刻に悩まなきゃいけないことではないのかも知れない。
「あの……あたし、やっぱり帰ります」
どこか近くで気軽に散歩できそうなところはないか、聞くだけのつもりだったのに、気がつけば和美はそんなことを宣言していた。かなたは笑顔のままだが、ほっとするのでもなく、逆に残念がる様子もない。
「そうですか、高野さんやシュムリさんのお話は、和美さんのお役に立てましたか?」
「え、……あ、うん」
シュムリって誰だっけ、そうだ、あの本屋のひとだ。和美は頷いた。
「差し支えなければ、帰りたいという気持ちが強まった理由を教えていただいていいですか? あ、どうぞおかけになってください」
「理由……」
というか、そもそも日本の生活で感じていた先行きの不安は、自分が直接なにか嫌な目にあったり、身の危険を感じたとかいう目に見えたものが原因ではない。
高野達の話を聞いたことで、別に全てを放り出してこっちに移住するほど日本での生活が苦痛だったとわけではないのを、再確認した程度だ。
「そうですか、それならよかったです」
言葉にすると相変わらず『中途半端』な気もしたが、かなたは特にがっかりした様子もない。自分のような感覚でやってきて帰って行く者は、やはり珍しくないのだろう。
「じゃあ、午後にでも送還ゲートを使えるように手配しておきますね」
「あ、……でも別に、強いて急いで帰りたいってことでもないから……」
「判ってます、お昼に、なにかこちらならではのものが食べられるお店をご紹介しましょうか。そういうの、シャムハザさんが詳しいんです」
「あ、うん……」
言いながら、かなたは二色刷のパンフレットを取り出して、ぱらぱらとめくり始めた。
字は相変わらず読めないが、どうやら周辺のお薦めスポットが載っているらしい。かなたの向かい側に座り、それを少しながめていた和美は、
「かなたさんは、なんでこっちで暮らしてるの?」
「はい?」
「かなたさんも日本人なんでしょう? なんで異世界で働いてるの? 帰りたいと思わないの?」
「わたしは……」
かなたはパンフレットを閉じ、軽く首を傾げた。
「それに、かなたさんって最近の日本にも詳しそうだよね。日本に友だちとか家族とかいるんじゃないの?」
「それが……」
こちらに来て、『どうしてここに住んでいるの』となんとなく質問したときと、同じ反応だ。なにか答えたくない事情でもあるのかと思ったが、そんな感じでもない。
「覚えてないんです」
「えっ? 親のこととか、忘れちゃうほどこっちは楽しいの?」
「そうじゃなくて、わたし、この世界に来る前のことを、覚えていないんです」
「ええっ?」
それは、長期連載マンガの主人公が高確率で経験する『記憶喪失』という症状……!? と大げさに驚いて見せようかと思ったが、かなたはどうも冗談を言っているようにも見えない。
「わたしは、郊外の森の中で、ふらふら歩いてた所を、リカルドさん達に助けてもらったんです。なんでか、服も靴も、ものすごく長い距離をずっと歩いてきたような汚れ方をしてました。でも、どうしてそこを歩いていたのか、どこから来たのか、自分の名前も覚えてないんです。『雲居かなた』というこの名前は、わたしのことをサーシャさんから聞いて様子を見に来てくれた高野さんにつけてもらいました。『雲居』には『はるか遠く』という意味があるんだそうです」
「え、でも、日本のことはちゃんと……」
「そうなんです、自分が日本人だってことは自覚がありますし、現代日本の文化――特に関東近郊に関してもある程度知識はあるんです。でも、自分自身に関する記憶だけがすっぽり抜け落ちてるんです」
そんなこと、あるものなんだろうか。和美は目を瞬かせた。
「思い出そうとしても特に拒絶反応があるわけでもないですし、思い出せないことで不安になったり、怖いと思ったこともないです。自分の記憶がないだけでほかは至って健康で、でも、記憶がそんな状態で、日本のどこに帰ればいいのかも判らなかったですし……。それなら、日本からの転移者の応対にはうってつけなんじゃないかってことで、設立当初のこの『ハイパティーロ旅行相談所』のスタッフとしてオファーを受けました。ほかにやりたいことも思いつかなくて、それ以来ずっとこちらで生活しています」
「ええ……日本のことは覚えてても、こっちのことはなにも知らなかったわけでしょう? 不安じゃなかったの?」
「不思議なことに、全然そういう気分にはならなかったんですね。逆に、日本からのお客様の話を聞いても、特に何かを思い出したり、帰りたいという気持ちが強まるわけでもないです。今日本に戻っても、わたしは『何者でもない』からでしょうね」
「『何者』でもない……?」
「人って言うのは、ただそこにいるだけで、何者かになれるわけではない、と思うんですよ」
考えが追いつかない様子の和美に、かなたは穏やかに微笑んだ。
「『タナカカズミ』さんが『タナカカズミ』さんたりえるのは、生まれてから今まで、その世界で積み上げてきたものがあるからです。ご両親や親戚やお友達に囲まれ、幼稚園から小学校、中学校と言った中で経験してきたこと全てが、『タナカカズミ』さんが『タナカカズミ』さんであるという裏付けになります。でも、わたしにはそれがないんです。わたしはここでは『雲居かなた』ですが、日本に戻ったとしても、名前のない、なんの存在の裏付けも持たない、記憶喪失の誰か、にしか過ぎないんです。
……日本から来る方は、漠然とした不安を持ってる方が多いです。日本って、突出した個性を認めない風潮が強いじゃないですか。人並みかそれ以上の生活をすることが人生の成功で、失敗は命取り。でもそれは、平均的な存在であるうちは、今の自分の場所にいるのが必ずしも自分である必要はないってことに近いですよね。みんな揃って平均点のひとばかりなら、『タナカカズミ』さんのポジションがある日『ヤマカワハナコ』さんのものになったとしても、全体に不都合はない。だから不安になるんです。
自分を特別だ、貴重だと思って欲しい。今の自分が冴えない脇役の一人に過ぎないのは世の中のせいで、状況が違う別の世界にいけば、きっと活躍できる、今よりもずっと華やかで充実した生活が送れるはずだ――。ここに来られた日本人の多くは、そういう心理状態だったなんじゃないかと思うんです」
なんとなく、判る気がした。もし自分が、もっと価値ある人間だと自信が持てたら、『別の世界ならうまくやれるはずだ』などと考えたりはしないだろう。
「でも、不安になるからこそ、人って成長しようと思うし、学んだりいろいろな経験をしたいと考えるんだと思います。だから、今そうやって悩むのも無駄じゃないんですよ。『タナカカズミ』さんという細い芯に、色々なものが肉付けされていって、『タナカカズミ』さんそのものになっていくために、必要なことだと思うんです」
「自分が自分になる……?」
「ええ。生きる意味、行動の意味というのは誰かに教えてもらうものではないんです。自分で自分に意味を与えるためのもの……なんじゃないかと思うんです」
一息にそう言うと、かなたは少し気恥ずかしげに小さく舌を出した。
「なんて、説教っぽいことを言ってしまいました。あまり気にしないで下さい」
「ううん……なんか、ちょっとだけ、判った気がする」
和美は本心から頷いた。
勉強する意味とか目的とか、どこかの誰かがはっきり教えてくれたらとても楽なんだろうけど、それは自分なりに見つけないと意味がないのだろう。
「わたし、帰ってちゃんと勉強するし、やってみたいことをやってみる。ここに来て、勉強以外にも知りたいことがたくさんできたし。……蕎麦つゆの作り方とか」
「そう……ですね」
かなたはくすくす笑うと、すぐにほっとしたように目を細めた。
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