賢人シュムリのケース:2

 大通りから裏手の、住宅街と混ざり合った細い通りに、その本屋はあった。ガラスの多い扉と、黄色いすりガラスでできたランプがぶら下がっている。暗くなってから通ったら、さぞかし雰囲気の良さそうな外観だ。

 中に入ると、奥まったところに二列ほど背の高い本棚が置かれていて、入り口に近い場所には丸いテーブルが二つ、椅子が四脚並んでいる。ぱっと見、本屋というより図書室のような印象だ。まだ昼前だからか、客は誰もいない。

「やぁ、君がかなたの国からの客人かい」

 カウンター代わりの机で本を読んでいた店主が、日本では漫画でしか見ない牛乳瓶の底のようなレンズのついた眼鏡を指で押さえながら、物珍しそうに声を上げた。背は和美よりも低く、顔立ちはアジア系に近いように思えた。

 ぼさぼさの白髪に、白衣姿で、ひどくやせて手足や顔はしわが多く、その中で濃い茶色の瞳が好奇心に輝いている。本屋の店主というよりは怪しい研究者のような外見だ。

「僕はシュムリ、君の名前は?」

「た、タナカカズミです……」

「カズミか、たぶんいい名前なんだろうね」

 いい加減なことを言いながら、シュムリは握手の手を差し出してきた。おずおずと握り返すと、

「君はかなたと違って背が高いんだねぇ。こっちにいるニホン人は割と小さな人が多いけど、種族的な特徴ではないのかな」

「ああ、なんか食べ物の違いみたいです。あたしの親やそれよりも上の世代は、わりと小さい人が多いです」

「なるほど、食糧事情が改善されたからか。かなたは貧しい家の子供だったのかな」

「そ、そういうことでもないと思いますけど……」

 そもそも背が高くて驚かれるのも、今の子は食べ物が違うからと言われるのも、親戚のおじさんおばさんが言っていることの受け売りで、詳しい理由までは考えたことがなかった。和美は曖昧に言葉を濁したが、そもそもシュムリは詳しい解説など期待していなかったようだ。

「リカルド、君の元の国の本がいくらか入っているよ。真っ先に君が読みたいだろうと思って隠してある」

「えっ、ありがとうございます!」

「奥の茶棚にあるから持ってきてくれないか」

「それは、ついでにお茶を入れろということですよね?」

「少しばかり多めに作っておいてくれよ、本を読み始めると、自分でいれるのも面倒なんだ」

 悪びれる様子もなく答えたシュムリに、リカルドは苦笑いしながらも、和美に軽く頭を下げて奥へと引っ込んでいった。あの大きな体でも通れる程度には、ここは扉も広いし天井も高い。

「ところでカズミ、君が持っている袋の中身は本じゃないかと思うのだけど、それは転移の時に一緒にニホンから持ってきたのかい?」

「あ、はい」

「是非見せてもらえないかな。いったい、なんの本だい?」

「これはテスト用の参考書……」

 形だけは疑問系だが、和美がいいも悪いも言わないうちに、シュムリは和美の手から紙袋を当然のように受け取って中を開いている。

「参考書? なにか学んでいるのかい?」

「なにかっていうか……学校の……」

 和美にとっては、理由もわからずにただ暗記させられる事柄ばかりのものだ。そもそも日本語が読めるのかも気になるが、特に困った様子もなくぱらぱらと読み進めていたシュムリの顔が、次第に真剣になってきた。和美は驚いてそれを眺めていた。

「これは……君は科学者なのかい? これは国家機密級の研究結果ではないのか?!」

「え? わたしは普通の学生で、これはみんな調べようと思えば誰でも調べられる……」

 大げさだな、と思ったものの、シュムリの顔は真剣そのものだ。

「本当なのか? ニホンの学生は、みんなこれほど高水準の学問を学ぶのか?!」

「え、まぁ……その人の状況にもよるだろうけど」

 その熱心さに引き気味だった和美も、本を開いたままぼろぼろ涙をこぼし始めたシュムリの姿には、さすがに言葉を失った。

「そうか、ニホンは、こういうことが誰でも学べる国なのか……そんな世界が存在するのか……」

 そう言うと、シュムリは言葉もなく涙を流し続けている。なんと声をかけていいか判らず、呆然と突っ立っていた和美は、お茶の用意をした盆を片手に戻ってきたリカルドに静かに肩を叩かれ、顔を上げた。リカルドはテーブルに盆を置き、仕草だけで和美に座るよう促し、泣き続けるシュムリの背中を支えて椅子に座らせた。


「失礼、つい感極まってしまってね」

 十数分くらいは、シュムリは黙って泣き続けていた。リカルドは慣れているのか、二人にお茶を出した後は、自分も近くのソファに座って、茶棚にあったらしい簡素な装丁の本に目を通していた。泣き続けるシュムリを前にして、勝手に本を読む気にもなれず、和美はおろおろと様子を見守っていた。

「私は、君の世界によく似た環境の世界から来た」

 少し落ち着いた様子で、シュムリは醒めかかったお茶を手にして、和美に話しだした。

「知的生命体は人間だけで、魔法の概念はあるが、そういったものは存在しないか、あったとしても一般の人間には知らされていない世界だ。そのかわり、科学はある程度発達している。飛行機も鉄道も存在していたし、電気も使えたよ。かなたに聞いたら、私がその世界にいた時代は、君たちの世界でいう『第二次世界大戦前くらい』の文明レベルだそうだ」

「へぇ……」

 異世界、といったら、剣と魔法の世界しかないのかと思っていた。でも考えてみたら、地球だってこちらから見たら異世界なのだ。中世ファンタジー風の世界がいくつもあるのなら、現代地球のような世界だってそれなりにあってもおかしくはないだろう。

「君たちの世界と、発達の過程がよく似ていて驚いたよ。といっても、当時の私には、世界情勢を客観的に知る方法がなかった。私の国の周辺では、私の生まれる前から小さな戦争が続いていて、人は皆貧しかった。両親から最低限の読み書きを教えてもらっていただけでも、私は恵まれていたように思う。

 私はいろいろなことを知りたかったが、教えられるのは国に都合のいい思想ばかりで、学問らしいものに触れるには相当の努力が必要だった。それでも、ある程度大きくなると、純粋に学びたいもの同士で交流する機会もできた。算学や生物学、化学といった専門書が手に入ると、仲間内で回し読んで、それこそ暗記するくらい読み込んだものだよ。戦火は戦場を越えて市街にまで迫っていたが、だからこそ私たちは必死に知識を求めた」

 そういうものなのだろうか。当たり前に学校に行って、つまらないつまらないと思いながら授業を受けてきた自分には、いまいちぴんとこない。

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