第1話
玄関のチャイムが鳴って、哲二の野太い声がした。
「順平、部活行こうで」
おれはちょうどパンをかじったところだった。十分前に起きたばかりで、まだ頭が働いていなかった。
「ほら、順平、はよせんね。哲二くん待っとるけん」
母さんが慌てて麦茶を片手に玄関に走る。
「ごめんねー。毎日毎日。あん子、遅刻ばっかで」
「よかですよ、おばさん。あ、麦茶ありがとうございます」
玄関から聞こえる会話をBGMに、おれは特に急ぎもせず、お風呂あがりにクーラーの効いた部屋でソファに座っているくらいリラックスをしてパンをかじり続けた。
網戸一枚で隔たれた外界は、刺すような日差しと雲一つない青空が広がっていて、今日も暑くなりそうだな、と部活に行く前から気持ちが萎えた。
「あんた、まだ食べとっと?!哲二くん待っとるって。はよせんね!」
母さんがダイニングに戻ってきて、目を剥いて怒鳴った。外で鳴くセミにも劣らない大きな声。
おれは、わかったよ、と重い腰を上げて自分の部屋に戻った。
練習着を着て、エナメルバックを肩にかける。時計を見ると、十二時半だった。練習は確か十三時からだ。
玄関では母さんと哲二が座り込んで話していた。もともと黒い哲二の肌は、夏休みに入ってさらに黒くなった。白目と歯だけがやけに白く目立っていて、身長一八〇センチに体重八十キロと体型がでかいから、こんな島にいたら熊だと間違えられてもおかしくない。
「遅かぞ、順平」
「練習、十三時からやろ?何でこんなはよ出っとや?」
家から学校まで自転車で十分もかからない。
「何もなか。別によかやっか」
立ち上がりながら哲二がぶっきらぼうに言い放つ。おれは、なんとなく理由がわかったから、小さくため息をついて、それ以上はなにも聞かなかった。
外に出ると、太陽の光が目に直で降り注いできた。歩くだけで額や背中にじんわりと汗を掻く。
自転車に跨ぐと、サドルが熱した鉄板のように熱くなっていた。練習着は薄いから、余計に熱さを感じた。お尻が火傷しそうだ。
ペダルを漕いで発進する。最初は生温かい風が、スピードを上げると涼しい風に変わった。前方になだらかな坂が見えた。
おれは、大きく深くペダルを踏み込んだ。そのまま、どんどん加速する。
「順平、置いていくなよ」と、哲二の声が背後からした。おれは、お構いなしに先へ進む。
坂だから、勝手にスピードが上がっていく。
坂を曲がった先に、一面に広がる海が見えた。日光が水面を反射してカメラのフラッシュをいくつもたいているかのように、白くて角ばった光が散りばめられている。
坂を下りきり、左に曲がって平道をまっすぐ進む。左側には森を、右側には海を携えて。
車とすれ違えばひと一人通るのがやっとの狭い道を通り、堤防に沿ってラストスパート。
額から滴り落ちた汗が、おれが作った風に乗って後ろに飛んでいく。波の音と、木々がなびく音と、自転車を漕ぐ音しか耳に入ってこなかった。
左手に高校が見えてきた。校門の前で自転車を止めると、全身から一気に汗が噴き出してきた。
カバンからスポーツ飲料を取り出して、水分を吸収し一息ついた頃、ようやく哲二が校門に到着した。
「遅かったな」
哲二は数分前のおれと同じように大量の汗を放出し、体全体で息をしていた。
「わいが早すぎっとさ」
「ごめん、つい風が気持ちよかったけん」
哲二が、ハトのフンが服に付いたときのような、渋くて呆れた顔でおれを見た。急に恥ずかしくなってきた。
自転車置き場について駐輪しているとき、哲二がふと言った。
「そういや、野球部は準々決勝まで進んだらしかぞ」
「へえ」
おれは興味がなさそうに返した。顔がこわばっているのがバレないように哲二の方は見ずに。
「すごかよな。二年前まではこげんこと考えられんかったとに。おいたちもサッカー部やなくて中学んときと同じ野球部に入ればよかったな」
「なんば言いよっとか。時代はサッカーや、って盛り上がっとたとはどこのどいつや」
「あんときはな」哲二が悔しそうに顔をしかめる。「ワールドカップで興奮しとった自分ば殴ってやりたか」
グラウンドには、すでに人がいた。慎太郎と裕也だった。二人とも同じ二年生で、慎太郎はサッカー部のキャプテンだ。
おれたちに気づいた慎太郎が手を振った。ひょろりと身長が高くて肌は真っ黒で、遠くから見たら、麩菓子のようだった。
我がサッカー部は、インターハイの地区予選一回戦であっさり敗北し、三年生は引退して今は受験勉強に励んだり家業の手伝いをしたりしている。
おれも来年の今頃はそうなんだろうな、と自分の姿を想像してみた。たぶん大学に進むことになると思う。でも、まだネーム段階の漫画のようにぼんやりとしかイメージできなかった。
「やっぱ、野球部のおらんかったら、グラウンドの広くてよかな」
顎まで伸びた前髪をヘアバンドで止めた裕也がおれに向けて言った。
裕也は、サッカー選手がヘアバンドをつけているのを見て憧れて、髪を伸ばし始めた。中学までは、おれと哲二と同じく野球部で、坊主だった。
「ああ、そういや三回戦まで突破すると負けるまで帰ってこんかったな」
「なんや、順平。わいもそいば知っとって来たとやなかとや?」
「さっき、準々決勝まで進んだことは哲二に聞いた。別に興味なかけん」
スパイクを履きながらおれは言った。つまらなさそうな声で。裕也が「確かにな」と冷ややかに笑った。
「野球部の応援はしとらんけど、おいたちが長くグラウンドば支配できるように頑張ってもらわんばな」
「そうやな」おれは履き終わったスパイクの調子を確かめるように地面を軽く蹴った。
高校の野球部が地区大会で三回戦を突破したのは、何十年ぶりかの快挙だった。
もちろん、覚醒的にいきなり強くなったわけではない。二年前に我が四岐島高校に赴任して来た数学の先生のおかげだった。
杉山先生という名のその教師は、高校時代甲子園に出場しエースだった人物で、父親が少年野球のコーチをしている英才教育を施されて育った人物だった。
今までグラウンドはサッカー部と野球部で半分ずつ使用していた。それが暗黙のルールでずっと守り抜かれていた。
杉山先生が顧問兼コーチになったことで、練習がきつそうなメニューになっていたことは横から見ていて感じていた。
バッティングやノックが中心だった練習が、ランニングやストレッチ、筋トレなど基礎的な体づくりを行うメニューが中心になっていた。
サッカー部は、他人事のように哀れみの目を向けているだけでよかった。一年前までは。
グラウンドの境界線が侵され始めたのは、去年の夏の地区大会を控えた七月の初めだった。明らかにサッカー部の練習域まで野球部が練習に使用するようになった。
慎太郎が野球部のキャプテンの土田に注意しても、「杉山先生の指示やけん」と聞き入れてもらえなかった。
だから、サッカー部の顧問の先生に話し合うよう訴えた。
練習には全く顔を出さず、試合のときだけスポーツドリンクを差し入れするサッカーのルールも知らない顧問に少しは役に立ってもらいたいと強く訴えた。
顧問同士の話し合いの末、地区大会で一回戦を突破できた部の主張を通すことで決着がついた。一方的に相手から通されたような話し合いだったようだが、野球部も地区予選一回戦敗退の常連だったし、みんなタカを括っていた。
結果は、サッカー部は一回戦敗退、野球部は、三回戦敗退だった。
それから、サッカー部は三分の一ほどの面積しかグラウンドの使用をさせてもらえなくなり、肩身が狭い思いをしてきた。
だから、野球部のいないこの期間は、天から舞い降りたこれ以上にない幸せだった。
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