風に乗れ

ちえ

プロローグ

水たまりに思い切りジャンプすると、泥水が勢いよく跳ねた。

 朝から降っていた雨は下校時間の少し前に止んだ。おかげで、傘を学校に忘れそうになった。


「わっ、順平。ぼくにもかかったやっか」


 翔太がしかめ面で泥水がついた服を指差しながら、口を尖らせた。


「ごめん」


 おれは、ちっとも悪いなんて思っていなかったけど、形式だけ謝った。

翔太はアホだから、そんなこと露ほども考えていないはずだ。

思った通り、「ま、よかけどさ」とあっさりと赦してくれた。


 



三月の初旬。梅雨でもないのに三週間ほどずっと雨が降っていて、日照時間が一時間もない日が続いているって、今日朝からテレビで言っていた。

「日照時間」は理科の授業で習ったばかりで、担任の小山先生が「しょう」じゃなくて「に」の方に力を込めて言うのがおもしろくて、記憶に残っていた。

 

今だって、グレーの雲の隙間からうっすらと光が差しているけど、いつ雲に覆われて雨が降り出してもおかしくない、不安定な空だった。


 雨が長引いているせいで、気温がなかなか上がらず、三月になっても厚手の上着が必要だった。

例年なら、コートをクリーニングに出す人が増える時期だから、クリーニング屋で働く母さんは「いつになったら春は来るとかねー」と毎日ぼやいている。



おれたちは、「四岐島」という長崎本土から船で三時間かかる小さな島に住んでいる。半日もあれば車で一周できるほどの大きさで、海との距離が近い。物心ついた時からいつも目の前には海と山があって、海と山とともにこの島で育った。


通学路は、片側が山で片側が海の見える道路をひたすら歩く。変わり映えのしない景色を二キロメートル歩くと小学校がある。


来月には、中学生になる。中学校はさらに一キロメートル離れたところにある。小・中学生の自転車通学は禁止されている。だから、この死ぬほどつまらない景色をあと三年間は見続けなければならない。


高校は小学校と中学校とは逆の方向にあって、中学校と同じくらい離れている。

ただ、高校生は自転車通学が許可されている。

今年から高校生になった姉ちゃんが、ようやく歩きから解放されたと嬉しがっていた。

早速入学祝いに軽くて漕ぎやすい自転車を買ってもらっていた。


「そういや、翔太、部活ってもう決めた?」


おれは振り返って訊いた。


翔太は、一瞬たじろいで、打ち消すように笑った。いつもより弱々しく泣きそうな顔に見えた。


「まだ決めとらん」


「はよ決めんば、もう来月には中学校ぞ、おいたち」


翔太は、何事もマイペースで、とにかく遅い。それを見ておれはイライラすることもあれば、代わりにやってしまうこともあった。


「順平は、決めたと?」


「うん」おれは、傘をバットに見立てて思い切りスイングした。「野球部に入る」


「翔太も、一緒に野球部に入ろうで」


「かっこよかな。ぼくも野球部入るわ」


「やろ?一緒に甲子園目指そうで」


おれは、もう一度傘を振った。スパーンと空気を切る音がした。


翔太も傘を思い切り振った。傘が左右にブレブレで、へなっとしたスイングだった。


「なんや、そのスイング。そんなんじゃ試合も出れんぞ」


「順平、うまかな。ぼく、そんなはよ振れんわ」


「大丈夫、甲子園は高校やけん。まだあと六年もある」


翔太がニカッと笑った。いつもの笑顔だった。「そんなら、余裕やね」とまた傘を振った。やっぱり、空気を切るより、空気をすくうような音がした。


「翔太は相当練習せんばやな」おれは、そう言って閃いた。「あ、でもピッチャーならスイング下手でもよかばい」


「ピッチャーか。そっちの方がかっこよかね。ぼく、ピッチャーになる」


翔太が腕を頭上に振り上げて、ボールを投げる真似をした。

それを見て、おれは、ピッチャーの方がいいな、と思えてきた。


「翔太、さっきの取り消すわ。おいもピッチャーになる。わいはライバルや」


「話の違うやっか。順平相手じゃ、ぼく勝ち目のなか」


翔太が眉を下げて哀しそうな顔をした。


「まだわからんさ。とにかく、中学でどっちがピッチャーになるか競争な」


おれは、右手を翔太に向けた。翔太はため息とともに力なくその手を叩いた。


「楽しみやなー、中学校」


おれは、飛び跳ねながら言った。未知の世界に飛び込む前のわくわくした気持ちだった。これからどんなことが待っているのか、今からドキドキしていた。

翔太は、「やな」とおれの後に続いて小走りをした。




卒業式が終わって、春休みになって、おれと翔太は毎日のように遊んだ。




その日も、遊びに誘うために翔太の家に行った。春休みが終わる一週間前だった。

チャイムを何度鳴らしても誰も出なかった。

どこか行ってるのかなぁ、と諦めて、一人で公園にいった。キックベースで遊んでいた哲二たちに混ざって夕暮れまで遊んだ。


家に帰って、夕飯を食べているとき、母さんに翔太のことを話した。

母さんは、眉をひそめて、明らかに狼狽していた。

そして、おれにこう言った。


「翔太くんはお母さんの実家がある大阪に引っ越したとよ。だけん、もうこの島にはおらんはずよ」


おれは、母さんの言葉をすぐには理解できなかった。


「は?おい、何も聞いとらんし。何で母さんも教えてくれんかったっさ?」


 母さんは、「ごめん、知っとると思っとった。翔太くんも別れるとが寂しかったっさ。わかってあげんね」と翔太を擁護したが、おれは全く聞く耳を持たなかった。


何も言ってくれなかった翔太に対して、ただただ怒りの感情しか持てなかった。

 

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