第11話・ナキア

 午前五時、まだ夜も明けて間も無く、わずかに薄暗さを残した頃少女は目を覚ました。ウンザリするほど見慣れたはずの石の天井は少女の視界になく、代わりに温かみのある木の天井がある。

 少女は、まだぼんやりとした意識で辺りを見回した。

 見慣れた寒々しい牢獄の面影はなく、人が暮らすための当たり前だらけの部屋だ。

 少女は実感する。自由になれたのだと、戻らなくてもいいのだと。そう思うと涙がこぼれた。


「……うくっ……」


 押し殺そうとしても、少女の口からはわずかに嗚咽が漏れる。


「どうした?もう大丈夫なんだよ。」


 少女が声の方を向くと、銀髪のこの世のものとは思えないほど美しい少年がいた。アルタナである。


「ごめんなさい……」


 起こしてしまったのではないかと、不安になりとっさに謝った。


「大丈夫、そろそろ起きる頃だよ。それより、お腹すいてないかい?喉乾いてないかい?」


 アルタナは問いかけた。

 少女は生まれて初めての優しい質問攻めに狼狽える。

 それを見てアルタナは微笑んだ。


「おいで、一緒にギルドに行こう。ご飯もらえるよ!」


 そう言って差し出されるアルタナの手を、少女は恐る恐る握る。

 アルタナの少女より大きな手は、少女の小さな手を優しく包み込む。

 少女にとって、拘束するためだけだったその行為はもっと優しい別の目的で……。

 ゆっくりと先導するアルタナは、時折こちらを気遣って……。


「あ、そうだ。名前、聞いてなかったね。俺はアルタナ、君は?」


 アルタナが尋ねると、少女は黙って俯いてしまう。

 そして、しばらくしてから小さな声で呟いた。


「ルーネ……。」


 自分の名前を言う、ただそれだけなのに時間がかかる。名前を呼ばれたのか過去の記憶なのか、あるいは……。


「自分の名前、嫌いかい?」


 アルタナの問いに少女は頷いた。

 非合法奴隷にはよくあることだ。親に売られ、その過程で親を嫌いになり、じぶんのなまえもきらいになる。


「なら、俺は君をナキアと呼ぶ。どうかな?」


「ナキ……ア?」


「古い言葉で、天使の落し物さ。」


 それは、両親を思い出させないようにとアルタナが考えたものだ。


「ナキア……。」


 自分の胸に手を当てて呟く少女はどこか嬉しそうだった。

 この日から少女は奴隷でも、ルーネでもなくナキアとなった。


「ナキア、ついたよ。ここがギルド。」


 ナキアはアルタナに連れられ、ギルドに入る。


「お!やぁアルタナ君!隣の子は昨日の子かい?」


 一番にアルタナに気づいたのは、巡回のホッブスだった。


「そうです。ホッブスさんは、こんなに朝早くどうして?」

「あぁ、さっき終わったんだよ。いやぁ、疲れた」


 そう言って苦笑いをする。


「この人はホッブスさん、俺の先輩でいい人だよ」


 好青年といった雰囲気のホッブスは、とても人当たりがよく子供なんかに懐かれることも多い。

 ナキアはそんな雰囲気の人間にあまりなれていない、だけど少しくらいなら間違えても痛いことをされない気がした。


「ナキア……です……。」


 そして初めてナキアは自己紹介をする。


「うーん、嬉しいなぁ!元気になったみたいだね!おはよう、ナキアちゃん。俺はホッブス、よろしくね!」


 ホッブスの手がが頭に向かって伸びるのを見てナキアは思わず目を瞑った。

 ホッブスは気まずそうに、アルタナを見る。アルタナはホッブスに頷いて返した。

 ホッブスの手はナキアの頭に触れ、そっと優しく撫でた。

 ナキアは、少し驚いてホッブスを見上げた。


「じゃあ俺たち、朝ごはんにしますので。」


 アルタナはホッブスにそう言って、ナキアの手を引いた。

 ギルドの食堂カウンターには、見事に日焼けしたスキンヘッドの筋肉が立っている。


「おう、おはよう!食いたいもんはあるか?」


 そう言ってニカッと笑う筋肉。覗く歯は驚くほどの白さだった。

 何より笑えるのが着ているエプロンがクマさんなのである。熊ではなくクマさんだ。可愛らしいポップなイラストで書かれている。


「えっと……」


 その光景にナキアは困惑した。


「ほら、あの黒い人の上に沢山絵が並んでるだろ?好きなのを選ぶんだ。」


 ここは、ギルドの食堂で、1日3回まで冒険者に無料で食事が提供される。本来は、アルタナはここではなく冒険者学校の食堂だ。しかし、冒険者に触れて刺激を受けさせようと言う判断で、ここの使用が許可されている。それに、学校の食堂ではナキアが悪目立ちする。

 ちなみに、酒は無料ではない。

 しかし、そんな自由など与えられたことはない。ナキアは困って、黙り込んでしまった。

 そこにコンッと小さな音を立てて、二皿の料理を筋肉が置く。

 ナキアはそれを見てホッとした。見た目は白一色で奴隷の時に食べてたものとあまり変わらなかったからだ。


「まぁ、食ってみな」


 そう言って、筋肉は再び白い歯を輝かせる。

 どうやら、アルタナもナキアと同じメニューで決定のようだ。だが、アルタナに不満はない。


「いただきます」


 それどころか喜び勇んで、食べ始める。


「どうした?嬢ちゃんも食え。」

「あの……」


 筋肉はナキアを急かすが、ナキアは一向に食べようとしない。


「ナキア、ほら!」


 アルタナがナキアの料理を、スプーンで掬って口元に運ぶ。


「えっと……」

「食べなさい。ナキアはもう、みんなと一緒に食べていいんだ。」


 ナキアが奴隷だったから、こんな食卓には慣れてない。でも、床で食べさせるつもりはない。だから、アルタナは荒療治をすることにした。


「はい……」


 少し怯えながら、ナキアは料理を食べる。

 奴隷の食べ物みたいだと思ったことを後悔した。

 りんごのリゾット。それがナキア達に出された料理だ。

 ナキアは口に入れた瞬間に広がる、新鮮で爽やかな甘みに驚き、次に訪れた突き抜けるような刺激的な香りに目を白黒させ、トロリととろける食感に意識を手放しそうになる。


「……ッ!」

「ははは!気に入ったみたいだな!」


 ナキアはそんな筋肉の言葉を聞く余裕などなく、噛みしめるたびに訪れるシャキシャキとしたりんごの甘みに翻弄されていた。

 しかし、返事などなくてもわかる。ナキアはそれくらい幸せそうな笑顔で、リゾットを味わっていたのだ。


「ほら、持って。全部食べていいんだよ。」


 アルタナはナキアにスプーンを握らせ、リゾットを食べさせる。

 ナキアは思わず、それを一口、また一口と口に運んだ。

 黙々と、だが幸せそうに食べるナキアを見ていると筋肉はとても嬉しくなるのだった。


「お、いい香りだ。僕もそれが食べたくなってしまった。エルド!僕にもリゾットだ!」


 ちょうどその頃、マーリンも朝食を取りに来た。


「はいよ!」


 マーリンは料理を注文すると、ナキアのすぐ隣に腰を下ろす。マーリンはアルタナの隣に座りたかったのだが、アルタナはカウンターの端に座っていたのだ。


「やぁ、アルタナ君。それと、はじめましてお嬢さん。」


 マーリンは、いつでもマイペースだ。

 そんなマーリンに、ナキアは不審な物を見るような目を向けている。


「おはようございます。ナキア、こちらが昨日話した大賢者マーリン様だ。」


 アルタナはナキアにマーリンを紹介する。

 ナキアは、戸惑いを隠せなかった。自分はなんてことをしてしまったのだろうと。


「やぁ、マーリンだ。新鮮な反応だね、ありがたいよ。あっちでもこっちでも注目されるからうんざりなんだ。僕は来世貝になる魔法を研究しようかと悩んでるよ。」


 と、言って笑うマーリン。


「仕方ないですよ、マーリン様ですし。」

「言っとくが、君もだぞ!君は僕をあそこまで追い詰めておきながら、マーリン様、マーリン様って。君には対等になって欲しいんだぞ!」


 マーリンは激怒した。いや、激怒するフリをした。見え見えの、三文芝居で。


「え?」

「ほら、マーリンだ。君の友達、マーリンだ。」

「あ、はい……えっと……マーリン……さん。」

「まぁ、良しとしようか。」


 まだ、不満そうであるがマーリンはナキアに向き直る。


「はじめまして、お嬢さん。君のお名前は。」


 ナキアはマーリンがマーリンであることを知ってからずっと緊張しっぱなしである。


「ナキア……です……。」


 声が硬い。だが、仕方ないのだ。マーリンの英雄譚をアルタナが昨日たっぷり聴かせてしまったのだから。ちなみに、マーリンの伝説はドラゴンをソロ討伐した話である。

 ドラゴンはSランクモンスターであり、接触禁忌とされている。出会えば死ぬという意味だ。


「じゃあナキアちゃん。君の王子様を、あとで少し借りてもいいかな?」


 マーリンの問いに、ナキアは困惑した。自分の王子様が、誰を指すのかわからなかったのだ。


「あの、マーリンさ……ん。ナキアの王子様とは?」


 代わりにアルタナが尋ねる。


「よし、英雄の話をするとしよう……彼は強く、そして美しい少年だ。ある日、冒険者ギルドに現れ、次の日にSランク冒険者に訓練に誘われると、そのSランク冒険者をギリギリまで追い詰めてしまった。」


 アルタナはどこかで聞いた話だと思っていた。


「Sランク冒険者はそのあと、彼に魔法を教え、彼より早くギルドに帰る。そして、Sランク冒険者が目を離したすきに、地獄の底から可憐な少女一人を救い出してギルドに戻った。次の日の朝、彼はりんごのリゾットをその少女の隣で食べ、平穏な日常を謳歌しているのだ。」

「俺じゃないですか!」


 アルタナは赤面していた。顔から火が出るのではないかというほどに。


「そうだ、君だ!最初から君しかいなぁい!なのにとぼけて、この、生意気なアンランク詐欺師め!」


 なぜか激昂するマーリン。だが、冗談の類とすぐわかる態度だ。顔は愉快そうに笑っているのだから。


「恥ずかしい呼び方も、恥ずかしい話もよしてくださいよ!」

「君だって、しただろ!マーリン様!とか……僕の英雄譚と称した日常の話とか」

「で、俺に何をさせたいんですか?」

「簡単なことだよ、クエストに付き合って欲しい。」

「俺はまだ、冒険者のじゃないんですけど?」

「問題ない、クエスト終了を以ってジュニアライセンスを発行する!」


 そんな話をしているうちに、ギルドの営業時間がいつの間にか始まっていた。


「私は反対ですからね!」


 と、言いながら机にドンッと派手な音を立てて書類の山を置くモニカ。


「なんでだい?Sランク相当が依頼を受けないのはもったいないじゃないか!」

「それは確かにそうですが、彼はまだセカンドバースデーを迎えたばかりなんですよ!」

「でも僕を追い詰めたんだ!奇策で勝ったけど、次は僕が負けるぞ!」


 と、マーリンが自信満々に言うと、アルタナが恐縮したように口を挟む。


「いえ、俺がマーリンさんに勝てることはないかと……」


 実はアルタナはマーリンさんと呼ぶことに少しだけ慣れはじめていた。


「いや、あるね!今やれば確実に負ける!君を倒す奇策が僕にはない。」

「俺、ドラゴンより強いみたいになってませんか……?」

「ドラゴンを鼻で笑うようになるだろうね」


 実際、マーリンはドラゴンをソロで討伐した時にまだ余力があった。だが、アルタナと戦った時は全身全霊の戦闘の中で奇策がハマったから勝てたのだ。だが、アルタナはマーリンがまだ手加減しているのだと思っている。

 アルタナはその時少し、自分の袖口に違和感を覚えた。気がつくと、ナキアが不安そうな顔をして握っていたのだ。


「どうした?ナキア……」


 ナキアは自分でも気付かぬうちにそうしていたようで、慌てて手を離した。


「ごめんなさい……」


 アルタナはナキアに微笑みかけると、頭を撫でながら言った。


「怒らないから、言いたいことはもっと言って欲しい。俺じゃ頼りない時は、そこのマーリンさんでもいいから。」


 アルタナが怒ったことなんて、拾ってくれた昨日から一度もない。夜中なのに叫んで、泣き出した自分を優しく寝かしつけてくれたこの人ならと、ナキアは甘えてみることにしたのだ。


「捨てないで……」


 そんなこと思ったことこれまで一度もなかった。自分は、使い潰され、捨てられて死ぬ、そう思ってたナキアにとってその言葉は最大級の甘えだった。

 行ってしまえば帰ってきてくれないかもしれない。そんな風に思うと、ナキアは怖くてもそれを言わざるを得なかった。


「捨てないよ、帰ってきたら一緒にご飯を食べよう。」


 と、アルタナが答える。


「そうだ!お菓子を買ってこよう!君の初報酬で!」


 と、マーリンはアルタナをクエストに誘うキラーワードを投げるのだった。


「ぐっ!張り切らなきゃですね……」


 とアルタナは苦笑いを浮かべる。

 だけど、ナキアはなんだかまだ物足りなそうにしている。


「まだ、何かあるかい?」


 と、アルタナはナキアに尋ねた。


「昨日の水……忘れられなくて……」


 ナキアは恐る恐る怯えながら言った。


「水?……あぁ、これだね。クリエイトウォーター!」


 そう言って、ナキアのコップにアルタナの魔法で作られた水が注がれる。


「ちょ!ちょっと待った!それ、僕ももらえたりするかな!」


 そう言って、マーリンがグラスを差し出す。


「はい、いいですよ。クリエイトウォーター!」


 アルタナは首を傾げながら水を注いだ。

 マーリンはそれを一口飲むと、顔を驚愕に染める。


「すごい!すごいぞこれは!まさしく神の水!水としての本質を極めた究極の水だ!」


 なにやらマーリンが興奮しだす。


「えっと、すごいんですか?」

「ものすごくすごい!毒を洗い流し、潤いを与え、癒しをもたらすただの水だ!ただの水なのに、これは万病の薬だ!あと、ものすごく美味しい!」

「そうなんですか……」


 と、アルタナの顔が悪巧みの色を浮かべた。


「ちなみに、売ってたら買います?」

「買うね!言い値で買う!」


 と、マーリンのお墨付きが出てしまったのである。


「まさか僕に売ってくれるのかい!?」


 と、アルタナの予想に反して予想外の方向から食いつくマーリン。


「あ、マーリンさんにはいつでもあげますよ。」

「くっ、くははははは!笑いが止まらないね!よし、約束だよ!」

「さて、それじゃあ行きましょうか。とっとと帰ってきましょう。」

「よし、目的地までは僕が送ろう!」


 と、マーリンが張り切ってアルテラを構えるのだった。

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