第3話 路地裏

葵さんと昼食を取ってから一緒に部署に戻り仕事を再開した。やはり食事のエネルギーと言うのは大事であり午前中とは比べものにならないほど仕事がスムーズに進んだ。これなら遅れた分の仕事も終わらせて定時の時間で帰れる。


だが人間上手く行っている時ほど、悪い事や自分に不都合な事が降りかかるものであり自分も漏れなく該当された。


「古村崎くん、古村崎くん。申し訳ないけどこの仕事も今日中に終わらせておいてもらえるかい?」


正直、悪魔の囁きかと思うぐらい嫌だった。上司である部長にそんな聞きたくもない話を持ちかけられる。


「明日に使うものなんだが資料を作成する人が早退してしまってね。明日までに作成出来る人がいないんだよ。頼めるかい?」


本来なら使うべき人間がその資料を作成して使えばいいだけだ。間違っても他の人に任せるべきではない。だが上から言われた事に難癖をつけてご機嫌を損ねても自分が後々困るだけだ。やりたくない事でもやるしかない。


「…分かりました。今日中にやっておきます。」


「すまないね。よろしく頼むよ。」


やりたくはねーよ!このハゲ!と言ってやれたらどんなに清々しい事か、言いたい事を胸の内に秘めて残業が確定した仕事に今一度向き合う。


「嫌な仕事が舞い込んでしまったようだね。今からでは定時に帰れないだろう。私も手伝おうか?」


部長の話を聞いていたであろう香坂さんが心配して話かけて来た。手伝ってくれるのはありがたいが資料の作成に2人でやる事もなく手伝ってもらうとするなら自分の他の仕事を押し付ける形になる為それやらせるのは忍びない。


「大丈夫ですよ。朝遅れた自分が悪いだけですから。大変な仕事を押し付けられたもんでも無いので心配しないで先に上がって下さい。」


「そうかい。なら、はい。」


香坂さんは自分の鞄を弄ってから一本の栄養剤と菓子パンを自分のデスクの上に置いた。


「大したものではないけど食べてくれたまえ。」


「ありがとうございます。」


この人はよく人に気を遣える。人の機微にとても聡く空気が読める。だからいつもこうやって少し疲れていたり嫌な事がある時は差し入れを入れてくれたり優しく接してくれるのだ。毎回毎回頭が上がらない。


「ふふっ。どういたしまして。では申し訳ないけど先に上がらせてもらうね。古村崎くんも大変だろうけど頑張ってくれたまえ。」


香坂さんは差し入れを置いた後しっかり仕事を終わらせて定時に上がって行った。


定時後。自分以外誰もいない部署の中、唐突に入った仕事が終わったのはそれから二時間経った後だった。


「これで、よし!終わったー!」


朝からアクシデントにありながらようやく仕事が片付いた。途中で追加の仕事もあって身体が疲労を訴えていた事もあり、すぐに帰りの支度を済ませて会社を出た。


会社の通勤は基本的に徒歩で移動している。駅なども近くにはあるが利用しても徒歩とはあまり変わらないためお金がかからない徒歩を選択している。


自転車などを使えば早いのだろうと思い一度試した事があるが道中、歩行者や車の行き来が多く、自転車のが徒歩よりも少し早いがそれ以上にストレスの方が大きく自転車も断念。


健康的にも金銭的にも徒歩の方が賢明であると判断。それ以来通勤には徒歩で会社まで通っている。


時間は8時を過ぎ、居酒屋や飲食店で賑わっている大通りを素通りして足早に家に向かう。本来なら。


途中、大通り少し外れた路地裏に入り進んで行く。路地裏は明るく煩い大通りと様子が変わり薄暗く、酷く静かだ。しばらく進んで行くと喧騒賑わっていた場所から一転して夜の静寂に包まれた。


会社帰りはいつも会社帰りのサラリーマンで騒がしい。疲れている時に歩いているとそれだけで気が滅入りそうになる。まぁ今日は土曜日であり会社帰りのサラリーマンなんてほとんどいないが。


たまにこうして路地裏に進んでいき忙しない日常からかけ離れた静かな世界に入るのである。


数十メートルしか離れていない同じ場所であるのにそれだけ自分の足音しか聞こえず、コンクリートジャングルの反響が響き渡る別世界が広がっているなんて考えていると少し奥ゆかしくてクスリと笑う。


そうしてしばらく現実から離れた世界を堪能しつつ家に向かっていると自分の足音とは別の足音が後ろから鳴り始めていた。気のせいかと思っていたが音は自分と常に一定であり遅く歩くと遅く、少し早めに歩くとそれに倣って音を早める。


つけられていると分かったがつけられたところでなぜ自分が?という疑問しか浮かばず勘違いかと思い歩く速さを変えてみたが自分と同じように歩くものなのでやはり自分なのかと再確認させられるだけだった。


ふと、昼に香坂さんが言っていた噂話を思い出した。援交を促してくる少女の話だ。まさか自分が?いやいやまさか、そんな需要はないだろう。と考え始めた時にお兄さん、お兄さんと声をかけられた。


まさかあの噂話は単なる噂では無かったのかと思う反面、何故自分に声をかけて来たのか気になった。が、会社のお触れ書きが出ている事と発見され次第厳重処分とされている事もあり呼びかけは聞こえなかったことにした。


「お兄さん、私の目の前を歩いているお兄さん。」


掛け声に構わず歩く。


「スーツ姿がよく似合う素敵なお兄さーん。」


褒められようが自分では似合っていると思った事は一度もないので気にしない。寧ろ妹に着ているの見せたら腹を抱えて笑われた事もあり皮肉にしか聞こえない。


「…頑固者で人の話を聞かず特殊な性癖で女の子を弄びそうなお兄さーん。」


「人の事を特殊性癖者として捉えるのを止めろ!」


なんだ!橘からも変な言われをされ他の見知らぬ女性にもそんな事を言われ、俺はそんなにやばそうな性癖を持ってそうな風貌と雰囲気でもあるのか!


「おっ!やっとこっち向いてくれましたね。」


変な言われ方をしてつい後ろを振り向いてしまった。後ろにいた女性、というよりも女の子は十代後半ぐらいの容姿で高校生か大学生に見える若い子だった。少女は振り向くのを待っていたのかニコッと笑っていた。


「…振り向きたくて振り向いたんじゃない。」


すぐに前を向き直して家に帰ろうとする。


「おおっと!待って待って!お兄さんにいい話があるんですよ!」


「お金が欲しいなら他の男を誘ってくれ。」


路地裏で声をかけてくるあたりでろくな話なんてあるわけがない。会社にも迷惑がかかる上に自分も処罰を受けかねない。


「…いきなりですね。でも話は違うんですよ。」


「…じゃあ一体なんなんだ。」


違うと言われ何か気になり、一度足を止めて再度振り向いた。それが間違いと気づくのには少し遅すぎた。


「それはですねー。えいっ!」


少女は話しながら自分に近づき、軽く跳ねて腕に抱きついてきた。


「おっ、おい!離れろ!」


急に抱きつかれたので腕を振って振り解こうとするが離れない。


「いやですー。こうでもしないとお兄さんいなくなっちゃいそうですもん。」


やられた!コイツの言葉に騙されて一度と話を聞いてやろうと思ってしまった。失態だ。


「いなくならねーよ!だから離しやがれ!」


「そう言う人はだいたいいなくなりますー。」


腕に抱きつかれてから離れるように頭を押したり腕を振り回したりするがこの少女、全く離れようとしない。こっちが振り解こうと抵抗する度により強く抱きついてくる。なんでだ…。


「なんでそうまでして離れようとしないんだよ!」


「お兄さんが話を聞いてくれないからじゃないですか!」


「そりゃ後ろからずっと若い女の子につけまわされて腕に抱きつかれればホテルの勧誘紛いだって思うだろうが!」


「誤解です!それは大いなる誤解です!ちゃんと私の話を聞いて下さい!」


「ならまずこの腕から離れろ!」


「それは嫌です!」


そんな問答と抵抗がしばらく続き、結局自分が半ば折れてそのまま話を聞くことになった。


「…あぁ、もういい。それでいい話ってのはなんなんだ。」


「それはですね…。私と一緒にホテルに行ってもらう事です!」


「…帰るわ。」


少女はこちらを見ながら自信満々に話す。が自分の期待していた答えとは違うようだったので即座に帰ろうとする。


「ちょ、ちょ、ちょ!ちょっと待って!待ってよ!話を聞いてよ!」


「話は聞いた。ホテル行くってだけでアウトなの。それで話はおしまいだ。」


長々と時間を無駄にした。早く家に帰ってシャワーを浴びて寝たい。だが少女は諦めてくれずまだ抵抗して腕を引っ張っている。そろそろ諦めてくれないものか。


「私がお金払うから!」


「は?」


そんな事を考えて強引に帰ろうとしたら耳が変な言葉を受信したようだ。なんとも援交でお金を貰うはずの少女が自らお金を払うと言う意味の分からない事を言ったと。そう聞き取った。


「私がお金払うから一緒ホテルに行ってよ!」


少女は聞き間違いではないと強調するように同じ事を言う。正直、聞き間違いのが良かった。聞き間違いの方が理解出来た。今この言葉の意味を脳が理解する事を拒んでいる、非常識であると。


「…なんでそこまでして俺とホテルに行きたいんだよ。他の男でもいいじゃないのか。」


脳が理解の範囲を超えて、無意識にもう一度立ち止まり少女に質問していた。


「…そうだね、他の人でもいいのかもしれない。でも今日はお兄さんがいいの。私は今すぐに、できるだけ早く、お兄さんとホテルに行きたいの、、、」


少女は先ほどまでの明るく活発的な様子から一転し酷く暗く、重たい雰囲気を漂わせていた。


この少女がここまでしてどうしてホテルに行きたいのか全くわからない。自分以外でもいい言っているなら他を探せばすぐに見つかるはずだ。なぜこんなに早くホテルに行く事を渇望しているんだ。誰かに言われて自分を連れて行くよう言われでもしたのだろうか。


なぜ、と言おうと思ってから掴まれていた腕から少女が震えていたのが今頃わかった。この女の子はいつからか知らないが震えていたようだ。何か無理をしているのだと思う。それは何に対しての無理かは分からない。だが震えるほど無理をしているなんてよっぽどの事なんだと思う、だから…。


「…分かった。今回だけだ。今回だけホテルに付き合う。だがお金は受け取らない、ホテルもうちの会社にバレないとこっていうのが条件だ。それでいいなら…。」


「それでいい!それでいいから早く行こう!」


少女は自分の言葉に食い気味答え、早くしろ言わんばかりに腕を引っ張り始めた。


「お、おい!あんまり引っ張るな!」


「あっ、ごめんなさい。嬉しくてつい。でも出来るだけ早く行きたいんだ。」


少女はそういってさっきまでの憂鬱そうな雰囲気なんてなかったように明るく、嬉しそうにニッコリ笑っていた。…もしかしたら自分は騙されたのかもしれないなぁ。


「はぁ、分かったよ。でも俺がホテルを指定するからちゃんと一緒に歩いてくれ。」


「うん!あっ、そうだ。私の事はミユって呼んでいいよ。」


「…俺は修治だ。」


「ならしゅーくんだね!じゃあ早く行こうしゅーくん!」


「…しゅーくんだけはやめてくれ。」


「レッツ、ゴー!」


ミユは片手を高らかに上げながら離れずに腕に絡み続け、不本意ながらも一緒にホテルに向かって歩いて行った。そしてこんな簡単に少女の援交紛いの事に乗っかってしまうなんて香坂さんには何も言い返せやしないな。しみじみと思い返していた。

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