第2話 食堂
程なくして到着した吉村さんに(本当に1分以内に来た)橘を引き渡して自分の部署にあるデスクに向かう。
吉村さんに引き渡されるまで橘は逃げようとはせずそれどころか『一度捕まえた先輩から離れるなんて有り得ません!』と繋いでいた手、もとより拘束手をがっしりと握り直した挙句、繋がれている方の腕に自分の身体を絡めて絶対に離れないと固い意志を物理的に表現していた。
ほとんどの人はこの状態を見ると彼氏、彼女の関係であると推測するであろう。自分だってそんな場面に出くわしたらそう考える。だが橘とはそんな関係では全く無い。皆無である。
橘が口を開けば『先輩とは将来を結ばれた仲です。』なんてふざけたことを言うだろうが全くの虚構である。嘘である。そんな事実は一度たりとて認めたことなんてない。
橘とは大学の時からの付き合いであるが交際したことなぞ記憶の限り存在しない。それに橘は大学の時から変わらずいつもこんな感じだ。平常運転で日常茶飯事。何一つ変わらないのだ。だから今更恋人の真似事をされようといつも通り、代わり映えのない日常の一部なのだ。会社の中では、無論、外であろうとそのような事はやめていただきたいものだ。
そうして吉村さんが到着するまでの少ない時間の間、橘は自分腕にまとわりつき、吉崎さんが到着してからは強引に腕から引き剥がされ悲鳴を上げながら連行されて行った。いやはや吉崎さんの仕事の早さには頭が上がらない。
何はともあれようやく仕事が始められるのである。
自分の部署に入り自分のデスクに座りパソコンを起動して仕事を始める。予期せぬ事で仕事が遅れたので遅れた分は取り戻さないといけない。そう思って仕事を始めいつの間にか昼のチャイムがなっていた。
チャイムはいつも時計の長針と短針が数字の12時を指示したときになるように設定されている。規則正しい時刻に対してお腹も呼応するようになり始める。昼食を取ろうかと悩んだが仕事が朝の遅れを取り戻せていないためパソコンに再度顔を戻す。
「おーい、古村崎くん。昼食は取らないのかい?」
声のするほうに振り返ると自分よりも2年早くこの仕事に就職した先輩、香坂葵さんがこちらを向いていた。
「えぇ。まだ遅れた分の仕事が終わってないので昼食は取らないです。」
「そうなのかい?いつも会社の食堂で大盛りのランチを頼む君がとらないとは珍しことでもあるものだね。」
「たまにはそんな日もありますよ。」
「そうかい。なら私は1人食堂に行くとするかな。」
「はい。そうしてくださ。」ぐぅぅぅぅ
朝もドタバタしていたせいで全くお腹にエネルギーを入れなかったツケが先輩の目の前で腹が鳴るという恥で返された。
「ふふっ。体は正直だね。空腹を我慢していても仕事の効率に差支えが出るだろう。どうだい。一緒に食堂に行ってお腹を満たすというのは?」
「…ご一緒させていただきます。」
「素直でよろしい。では仕事は一度置いて食堂に向かうとしようか。」
席を立ち先輩と一緒に食堂に向かった。
会社の食堂と言えばかなりコスパの良い料理がある反面、味が悪く種類も少ないしすぐに飽きが来る。そんなイメージが多いものだ。自分もこの会社に入るまではそんな先入観を持つ1人だった。
食堂なんて名ばかりのとりあえず取って付けたような体裁を保つ為に存在しているそんな形だけのものだと思っていた。実際他の会社の噂話を聞く限り自分先入観と誤差はなく寧ろそれ以上に酷いところだってあるようだ。
栄養バランスも考えられてなく適当に肉を炒めただけの焼き肉定食、新鮮さが外出してるようなサラダ、ダシを入れ忘れたのか水のような透明度のラーメンなど酷いところは酷いようだ。あくまで噂話ではあるが。
その点この会社の食堂は他と比べてとてもしっかりしている。値段が安いのは勿論、種類も多くカロリーなど表記されており栄養バランスも良く考えられている。メニューも飽きが来ないように定期的に替えられておりメニューを見るだけでも楽しみなものだ。
そんな会社の食堂は社員ほぼ全員が利用しているのではないかと言うぐらい混んでおり、ワンフロアではとても狭く食堂の為だけに二階までテーブルと椅子が設置されており全社員が利用出来る様にととても広く開放されている。
わざわざ会社の食堂の為にそこまでする必要はあるのか疑問ではあったが社長の方針らしく『腹が減っては戦はできぬ。腹を満たしてやる事が出来なければ恥である。腹を満たし、しっかりと仕事に臨むべし。』という口上が会社のパンフレットにも載っておりその言葉の通りに社員ほぼ全員が利用するような素晴らしい食堂になっている。
自分もそこをよく使う1人であり昼食は食堂で取ると毎回決めているのである。
「それで古村崎くんは何を食べるんだい?お金が足りなくてひもじい生活をしているようならお姉さんが奢ってあげるのも吝かではないよ。」
食堂に着いてからメニューを見ていると香坂さんは自分が昼を取らないのを仕事が終わらなかったからではなく他に理由があると考えたのか昼も取れない程生活に困っていると当たりをつけてそんな事を言ってきた。
「心配には及びませんよ。昼食を取ろうとしなかったのは本当に仕事が終わらなかっただけでしたから。お金に困っているわけではないです。」
「おおっと、それは本当に珍しいね。何かあったのかい?」
「いや、少し寝坊してしまって。」
「それだけじゃないんじゃないのかな?君は寝坊というのもほとんどしない事を私は知っているからね。」
「…少し、夢見が悪かっただけですよ。」
「…そうかい。あっ、順番が来たね。フレンチ定食を一つ。君はどうする?」
「キング焼き肉定食、肉マシでお願いします。」
「ふふっ、相変わらず肉食なのだね。」
「腹が減ってはなんとやらですよ。」
「おおっと、さっきまで『自分はいりません。1人で食べに行って下さい。』と言っていた人のセリフとは思えないようだね。」
「…揚げ足を取るのは勘弁して下さい。」
「すまないね。ついからかいたくなってしまってね。」
香坂さんは小さく笑いながら楽しそうな顔をしていた。
料理を受け取り適当に空いている席にお互い向かい合うように座る。
「それにしてもお昼になっても橘くんが君の周りに居ないのは珍しいものだね。」
「朝から仕事を抜けて遊びに来ていたのを吉崎さんに捕まってましたから。今頃折檻でもされているかもしれないですね。」
「吉崎くんも仕事に厳しい人だから橘くんもかわいそうに。」
「アイツにはコレぐらいが丁度いいんですよ。」
「橘くんに厳しいね。いいのかい?可愛い後輩をそんなに虐めて。愛想尽かされるかもしれないよ。」
「アイツから貰う愛想なんてありませんから。あったとしても御免被ります。」
「橘くんも報われないな。」
香坂さんは言っている言葉とは裏腹に楽しそうにクスクスと笑っていた。俺が橘を貶める事なんて日常茶飯事なのである。
「そういえば、古村崎くんは最近会社の中で流行っている噂話を知っているかな?」
「…噂話、ですか。」
「あぁ、なんとも仕事帰りの男性社員に女性が逢引を持ちかけてそのままホテルに一泊、次の日起きるとその女性がいなくなっているという噂さ。」
「…ただの援交にしか聞こえないんですけど。それが何かあるんですか?」
「確かにこれだけの話なら援交に協力したいかがわしく節操なしの話で済むのだが、どうにもその女性、男性からお金を貰ってないらしい。」
「…次の日の朝には消えているなら財布を抜き取られていたのでは?」
「それが荷物も全部置いてあって一切無くなっているものがないようだ。」
「つまり女性は無償で仕事帰りの男性社員に逢引を持ちかけ、一夜を共にして次の日の朝には何も無かったように消えているって事ですか。」
「まとめるとそうなるな。」
「…いくらなんでも変じゃないですか?」
「私もそう思う、どこかの男性社員が垂れ流した妄想なら疲れてたんだと笑い話で済む。だがこれはあまりにも具体的であり、なおかつ出所が分からず色々な会社で話題になっているのが問題だ。」
「それはうちの社員が援交に協力した奴がいるってことですか。」
「いやいやそうじゃない。この噂は他の会社に営業に行っている社員から伝わってきている話で実際うちの社員から実際出てきている話ではないよ。…ただ噂話にしてはあまりにも内容が具体的すぎて妄想と一蹴するのは憚られるがね。」
「でも援交に協力と言っても女性はそんなに幼いのですか?大人同士の関係であるならそんなに口を挟む事ではないのだと思いますけど。」
「それが女性の年齢が良く分からないんだよ。」
「わからない?体の関係を持った人がいるなら少なくとも十代か二十代ぐらいとかある程度の当たりをつける事は出来るもんじゃないですか?」
「そうだと思うんだがなんとも噂によっては若い子だった。綺麗でとても魅力的は女性だった。妖艶な雰囲気で大人の魅力があった。なんて、正確に年齢が特定出来ないような話が多い。分かっているのは女性でありお金を取らずホテルに勧誘して次の日の朝には居なくなっているという事だけだ。」
「…なんとも不思議な話ですね。」
「だろう?私も実にそう思うよ。けれどあまりのも噂話にしては具体的なのと話の出所が複数人から出ているので噂話にとして片付けられない。だからうちの会社では援交の協力者が出ないように援交に協力してる所を見つけられた者は厳重処分を科すってお触れ書きが回っているほどだぞ。見ていないのかい?」
「…全く気づかなかったですね。」
「君はそういうとこには疎いな。まぁそういう事でくれぐれも援交には協力しないように気をつけてくれたまえ。」
「言われなくても援交になんて協力しないですよ。」
「本当かい?気の優しい君の事だ。言い寄られでもしたらその気がなくともほいほい着いていきそうなものだ。」
「そんな節操なしではありませんよ!」
「ふふっ、冗談だよ。まぁ君にそこまで心配はしていないけれどそんな話もある。少しだけ頭の隅に入れて置いてくれたまえ。さてそろそろお昼休みも終わりだ、仕事に戻ろうじゃないか。」
そう言って葵さんは席を立ち、食べ終わった食器を片付けに行った。自分もすぐに彼女の後に続いて席を立った。
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