ホテルから始まる恋人生活

梯子酒

第1話 夢

「しゅーくん、しゅーくん。」


懐かしい声が聞こえる。声のするほうを向くと幼い顔立ちと姿で可愛らしい少女が花畑を楽しそうに歩いている。


「しゅーくん。ほら、手。手をつなごう。」


少女はにこやかにこちらに手を差し伸べて待っていて、彼女に差し出された手を取ろうと歩み寄る。内心、何かに酷く怯えながら、なぜ怯えているのかもわからないまま、彼女に近付き手を取ろうとする。


そんな彼女に近づいたのは好奇心か、はたまた怖いもの見たさか、なぜ近寄ろうと、手を取ろうとしたのかわからないままだった。心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえていく。…夢はその手を取れないまま目が覚めた。


「…何見てんのよ。」


目の前には夢の中でみた少女とはにこやかな笑顔とはかけ離れた、仏頂面をした少女が不満そうにこちらを見ていた。かけ離れたと言ってもそれは見かけだけの話であり目の前の彼女は世間一般から見たらまだ幼げが残っているとても可愛らしい。彼女は自分と一緒の布団に入っていて自分の右腕を枕にしながらお互い見つめ合うように寝ていたらしい。


「…別に見たくて見たわけじゃない。」


寝起きの目の前に顔があれば誰だって見つめる。


「そう、じゃあ目を逸らしてよ。」


「なんでだ、お前が見ていたんだろ。それならこっちを見なければいい。」


こちらは寝ていたうえ起きたら目の前の少女はこちらをジッと見つめているのだ。彼女に非があるならともかくこちらが何か言われるのは不条理甚だしい。


「嫌よ、まだ布団から出たくないもの。」


自分で顔をそらすだけで済む話なのにその答えはおかしくないか?顔を見ないようにするのに布団の出入りを問題にする必要はないのだが…。


「…分かったよ。それで今日は何曜日で今何時なんだ?」


寝起きながらのあまり回転の良くない頭ではよく理解できないだけかもしれない。とりあえずはそういうことにしておく。それよりもまず確認しなければならないのは日付と時間だ、自分の記憶だと今日は休日のはずだが。


「土曜日の八時。」


「そうか、なら今日は大丈夫か。」


彼女の言葉を聞いて安堵する。この時間に起きてその日が会社ならまず間に合わない。着替えと支度を済ませ家を出て会社に到着するまで早くても一時間はかかるからだ。基本的にはうちの会社は土日祝は休みである。そう、基本的には...


「付け加えるなら今月の第三土曜日よ。」


...今なんとおっしゃいましたか?


理解しがたい言葉を放たれ心の中に動揺が走り、一瞬現実から脳が逃避を始める。顔は安堵の表情から引きつり何とか体裁を保っているに過ぎない。


基本的にはうちの会社は一般的な週休二日の休日休みであり、いたって普通で健全な会社だ。残業もほとんどなく業務内容もそれほど辛いものでもない。とても働きやすくいい会社だと思っている。


…だが一つだけ不満をいうのならば毎月第一、第三土曜日のみ休日ではなく出勤なことくらいだ。


「もう準備しないと会社に間に合わないじゃないか!ちょっとどいてくれよ!」


自分が思っていたより寝ていたようで慌てて起きようとする。


「嫌よ、寒いのは苦手だもの。」


「そうは言ってももう春も過ぎて夏だろう!布団から出ても寒くなんかない!」


今は5月に入っており、春を過ぎて夏。昼は日差しが当たれば暑さにやられ汗をかき、夜も昼の暑さが残り寝苦しさを感じ始めるほどだ。一緒の布団に寝ているなんてよっぽどであろう。


「残念ながら私は寒いのよ。ほら、今だって布団がまくられたせいでこんなに震えているわ。」


「…それは貴方がキャミソールで寝ているせいじゃないですかね。」


季節的に薄着で涼しいのかもしれないが寒いのならもう少し着込むべきだと思われる。


「そこは兄さんという人間カイロを使うから問題ないのよ。」


「いや、問題しかねーよ。」


なんでそこで服を重ねて着るということをしないで実の兄と一緒の布団で寝るという発想にいたるのか理解出来ない。


「って、お前に構ってる時間は無いんだ!着るもの着て荷物持って行かないと!」


布団から慌てて身体を起こして急いで鞄に荷物を詰め込み始める。


「兄さん、兄さん。」


「なんだ!今準備で忙しいんだ。」


「見て見て。私これ結構似合うと思うんだよね。」


「よし!荷物は終わった!後はスーツに着替えるだけ!」


鞄から意識を戻したまたま目に入った妹を見ると自分がこれから着るべきスーツをこの妹様は着ていた。体格的にスーツが全くと言っていいほど合っておらず、似合っている以前の問題でブカブカにスーツを着ていた。


「お前それ今から俺が着るスーツだろ!早く脱いでくれ!」


「いやよ、寒いのは苦手だから。」


「今そのセリフはどうやっても関係しないだろ!スーツを脱いで返してくれ!」


「…酷い、兄さん。妹がこんなに寒いと言っているのに温めてもくれないんだ。」


「今はそんな事言ってる場合じゃないだろー!!!」


それから妹と数十分程言い争いをして無事に会社には遅刻した…。




「…すいませんでした。」


「寝坊なんて誰にでもあることだ。次は気を付けろよ。」


「はい、失礼します。」


時刻は10時過ぎ、妹からスーツを返して貰うのに随分と時間がかかり会社は遅刻。案の定上司に呼び出しをくらい軽く説教を受け今に至る。


「あいつ、なんであんなに返してくれないんだよ。」


「セーンパイ!」ダキッ


ぶつぶつと今朝の文句を呟いていると後ろから抱きつかれる。


「おうこら離せ。」コンっ


「イターイ!」


後ろから飛び出してきた頭を軽く叩き、退くように促す。


「軽く当てただけで痛いもんか。」


「痛いですよ!橘の胸はとても痛かったです!」


「そうか、それが本当なら早めに病院で診てもらうことをおすすめするよ。」


「あっ!信じてないですね!本当に痛かったんですよ。ほらよく見て下さい!」ばっ


「やめい!あほう!」ゴンッ!


抱きついていたのを離れたら突然自分の胸元を開け始めたので慌てて殴って止める。


「〜〜〜〜〜っ!!!何するんですか!本当に痛いですよ!」


「いきなりこんなところで胸元を開け始めるんじゃねえよ!アホか!」


「えっ、なら場所を選べばいいんですね。先輩ったら相変わらず照れ屋なんですから♪」


「そんな場所はねえ。」


胸元を開けるのをやめたら今度は両手を顔に当てながら身体をくねらせ始めた。相変わらず行動が読めねえな…。


「そういえば先輩、遅刻ですか?いつもは遅刻しないのに珍しいですね。」


「…少し夢見が悪くてな。」


「ははぁーん、さてはエロい夢でも見て寝過ぎましたね?先輩のエロ助め。」


「言いがかりだ。そんなもんは見ていない。」


「なら獣姦ですか!人ではなく獣に走るなんて先輩の守備範囲には驚きを隠せません!」


「ジャンルが獣だったわけじゃねえよ。エロから思考を離せ。」


「やや、流石に幼き少女を張りつけ束縛なんて橘の想像と許容がオーバースペックです。ですが先輩のためならば橘は乗り越えて見せます!」


「幼女を痛めつける趣味もない。そんな覚悟も求めてない。アホなこと言ってないで仕事にいけ。」


「だから仕事に来たんじゃないですか!今日は先輩と一緒に仕事です!」


「…お前、俺と部署が違うはずだよな。相方はどうした。」


「はい!今日は『俺1人でこんなもん片付けてやる。先にいきな!』とかっこつけていたので任せてきました。」


コイツも仕事をしてないで問題だがそれを促す社員も大概だな…。


「人はそれを放棄と言うんだ。ちゃんと戻って手伝ってこい。」


「嫌です!」


「お前、そんな事してたら部長に折檻くらうぞ…。」


「先輩と居られるのなら覚悟の上です!」


コイツは会社の仕事をなんだと思っているのか。配属された部署でしっかりと仕事をこなして欲しいものである。


「そうか、ならしょうがないか。」


だが、ここまでは怒られる事を覚悟して手伝ってくれるというのだ。本来なら許されるものではないが同じ部署内の許可も一応(認可されてはないが)出ていることだ、たまには一緒に仕事をしてもいいのかもしれない。


「えっ、先輩、いいんですか?」


「お前がそこまで言うんだ俺も諦めるよ。」


「…先輩!」ぱぁっ


「ほら、行くんだろ。手出しな。」


「はい!」ガシッ


ピッポッパッ、プルルルル、ガチャッ


「あっ、吉村さん。古村崎です。えぇ、脱走者を捕獲したので回収お願いします。」


「先輩?」


橘が力強く手を握ってきた瞬間、空いている手で携帯を取り出して橘の担当部署の上司に連絡をかける。


「はい、はい。ではよろしくお願いします。」ピッ


「せ、せんぱーい?」


携帯を取り出してから連絡し始めてから橘は明るい表情から徐々に不安に塗れた青い顔に変化していった。


「良かったな、橘。吉村さん1分以内には必ずここに来るってさ。」ニコッ


「せ、せ、先輩の裏切り者ーーーーーーーー!!!」


何を言われようと仕事は仕事だ。放棄して逃げ出している奴が居たらちゃんと報告、連絡、確保するのが当たり前である。人の仕事の手伝いをしたいならしっかり自分の職務を終わらせてからにしてくれ。

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