第十二話 海辺の朝
翌朝。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでくる。
「んむ……」
その微かな陽光を敏感に感じ取ったオーケビョルンが、ベッドの上でみじろぎした。さすがは洞窟暮らし、朝の気配には殊の外敏感である。
ベッドから抜け出して、ぐっと身体を伸ばす。そしてカーテンを開くと、朝のエクルンドの町並みが姿を見せた。
「うむ、いい朝じゃ」
そのキラキラと輝く風景を見ながら、オーケビョルンは笑みを見せた。
夜景が美しいとされるエクルンドの町だが、朝の姿も実に麗しい。白亜の町並みは陽光を受けてまばゆく輝き、町並みの奥に見える海は白波が立って美しい。そしてその海が太陽の光を受けてキラキラと、宝石のように輝いているのだ。
「ほう……」
その美しさにオーケビョルンが嘆息していると、後方でもぞりと身体が動く音がした。同室宿泊のマルクスである。
ルーテンバリ村を旅立ってから、何度か宿屋に泊まる機会があったわけだが、その際にこの二人はいつも二人部屋を一部屋借りて、並んで床についていた。その方が資金を節約できるし、男同士だから何を気遣うこともない。サビーヌはこの町に拠点を構える故、今は二人と別れて自宅に戻っていた。
「ん、うーん……」
「む」
しかし、朝起きるときだけは少々気を使うのが事実だ。何しろオーケビョルンの朝は早い。老年だからということもあるが、そもそもの生活様式が違うのだ。
今も、カーテンを開けたことで陽光が部屋の中に差し込んできたせいだろう。マルクスがメガネもかけないまま、目をこすりながら体を起こしていた。
「なんだい、オーケビョルン……もう朝かい……」
「うむ、起こしてしまったかの?」
ぼんやりした表情で口を開くマルクスに、オーケビョルンが小さく頭を下げながら答える。サイドテーブルに置かれた目覚まし時計を手に取って、顔を近づけたマルクスが声を上げた。
「いいけど……わっ、まだ六時前じゃないか。相変わらず早いなぁ」
「いやぁすまなんだ。どうしてもこのくらいの時間になると、目が覚めてしまってのう」
批判的な目を向けてくるマルクスに、苦笑しながら頭を掻きつつカーテンを閉めるオーケビョルンだ。
元々このくらいの時分になると目が覚めてしまう彼のこと。暮らしている洞窟に時計など無いが、大体いつもこのくらいだ。今までの旅でもマルクスより先に目が覚めて、マルクスはオーケビョルンにちくりと文句を言っていた。
ともかく、まだまだ朝は早く。マルクスは再びベッドに潜り込んで、二度寝を決め込む心づもりの様子。
「しょうがないな……僕はもう一眠りさせてもらうとするよ。七時になったら起こしてくれ」
「あい分かった。手帳と硬筆は借りていくぞ」
彼にそう言いながら、オーケビョルンは彼のかばんから手帳と硬筆を取り出して部屋を出る。階段を降りると、ちょうど宿のフロントで朝の支度をしている若い女性スタッフと目が合った。
「おはようございます、お客様」
「おはよう。宿の庭には出てもよかったかの?」
挨拶を返しながら、オーケビョルンが指差したのは宿の入口扉だ。扉の向こうにはこの宿の前庭があり、そこにはテーブルとベンチが設えてある。海も見えたはずだし、詩作にはちょうどいいだろう。
果たして、人間族の女性スタッフがにこやかに笑いながら頷く。
「はい、どうぞ。ご自由にお歩きください」
「すまんの」
小さく頭を下げて、オーケビョルンは入口扉に手をかける。扉を開くと、微かに潮の香りを含んだ風が陽光と一緒に吹き込んできた。
宿泊しているこの宿「白き車輪亭」はエクルンド市の海岸から多少離れた、少しばかり高い位置にある。前庭が広く取られており、果樹や花などが植えられている。そしてその向こうには、海だ。
「ほう……いい眺めじゃ」
前庭のベンチに腰掛けながら、オーケビョルンは改めてその美しい街並みと海に目を見開いた。
窓ガラス越しに眺める風景も実に美しかったが、こうして外に出て眺めると、その美しさは格別だ。これは今まで長い生を経てきた彼としても、目にしたことのない美しさだ。
「朝日を受けて輝く海か……新鮮じゃなぁ。今までの竜生で見たことなどなかったわい」
ずっと山に引きこもって、海など話に聞くだけでしかなかったオーケビョルンのこと。朝日に輝く海を見ることは、今までなかった。それ故に詩作も捗るというもの。
手帳を広げて言葉を書き連ねていけば、次々に目の前の風景を言い表す言葉が浮かんでは消えていく。
「ふーむ。『宝石箱』……いや違うな、『輝ける
今回は随分と、言葉選びに難航している様子。風で手帳が飛ばされないように押さえながら頭を抱えるオーケビョルンの後方で、扉が開く音がした。
見れば、先程の人間族の女性スタッフが扉を閉めて、オーケビョルンを見ている。
「お茶をお持ちいたしましょうか?」
「ん、あ、ああ。頼めるかの」
突然に声をかけられて少しまごつくオーケビョルンだったが、すぐに気を取り直して頷いた。この風景の中、温かい茶を一杯いただきながらの詩作。贅沢だ。
と、オーケビョルンの手元の手帳をちらと見た女性スタッフが小さく首を傾げて言った。
「作家様でいらっしゃる?」
「うむ、まあ、そうじゃな。そこそこ名も知られていると自負しておるよ」
自身の名前は出さず、しかしそれとなく濁す程度に。そんな程度に自身を明らかにするオーケビョルン。
作家「オーケビョルン・ド・スヴェドボリ」の作品はどれも、今もなお読まれ続けてこそいるが、数百年前に盛り上がった古典作品だ。今どきの若者に話しても良くて「ああ、あの」という程度の反応しか返ってこないのは目に見えている。
実際、この女性スタッフも宿の関係者だからオーケビョルンの名前は見ているだろうに、驚いた様子はなかった。
「まあ素晴らしい。どうぞごゆっくりお作りくださいませ」
「うむ、ありがとう」
にこやかに笑って再び宿の中に戻っていく女性スタッフに礼を言いながら、オーケビョルンは再び手帳と向き合った。今までは旅した先々で「あの有名な作家の!」という反応ばかりされてきたから、こうしたビジネスライクな反応は、彼にとってなかなか新鮮だ。
「新鮮じゃなぁ、こういう対応も……」
そうした気付きを得ると、創作も捗る。すぐにスタッフが持ってきてくれたお茶を飲みつつ、硬筆を走らせる。
お茶を飲み干して、太陽がいくらか高くまで登ってきた頃。オーけビョルンはようやく硬筆を止めた。
「よし」
頷いて、そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がった時。ちょうど同じタイミングで宿の入口扉が開いた。そこから着替えまで済ませたマルクスが外に出てくる。
「オーケビョルン、ひどいじゃないか。もう七時半だよ。宿の人に起こされてやっと目が覚めた」
「えっ、あ、しまった」
そこで、オーケビョルンはマルクスに起こすよう頼まれていたことを思い出した。完全にそのことが頭から抜けていたようだ。手帳と硬筆を手にしながら頭を下げた。
「すまなんだ。詩作に夢中になっておったわ」
「まぁいいけどね、君らしい……うーん、潮風の香りが心地いいね」
呆れたように肩をすくめながら、マルクスが前庭を歩く。彼の足元で芝生がさくさくと音を立てた。一緒になってオーケビョルンも歩を進めながら、すんと鼻を鳴らす。
「これが
「たしかに。ルーテンバリやスヴェドボリ山では感じられないものだね」
彼の言葉にマルクスも頷いた。確かにこんなに潮の香りが強い風は、故郷の山では感じることが出来ないだろう。
この風が朝から昼にかけては海から吹き、日が沈んで気温が下がれば逆に陸から海に向かって吹くのだ。理屈が分かれば単純なことだが、面白いものである。
「ふーむ……じゃ、ここはこうしたほうがいいのう」
と、何かを思いついたのかオーケビョルンが再び手帳を開いた。二行目の一部に線を引き、その場所の言葉を書き直す。そして改めて読み返したオーケビョルンが、大きく頷いた。
「納得行くものになったかい?」
「うむ、これならよかろう」
そう言いながら、オーケビョルンが借りた手帳をマルクスに見せた。さすがに朝の街中、ここで朗々と詠むのはよろしくない。
――朝日を受けて輝く海原は、まるで煌めき波打つ絨毯のようだ。
海より吹く海風が、潮の匂いを乗せて人々の鼻をくすぐり吹き去っていく。
エクルンドの夜景は美しい。
しかしエクルンドの朝の海も、また同じくらい輝ける風景なのだ。――
「こんなもんかの」
「いいじゃないか。君らしく、素直に詠んでいる」
ともあれ、オーケビョルンのその作品にマルクスも頷いた。これもなかなかの良作だ。きちんと書けばとても映える作品になるだろう。
「うむ、あとで改めて清書しておくとするか。さて、朝食の時間じゃったな?」
「あ、そうそう。だからここに君を呼びに来たんだよ。さあ行こう」
そんな事を言いながら、オーケビョルンとマルクスは宿の中に戻っていく。彼らの背中を押すように、再び海風がひゅうと吹き付けた。
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