第二十二話【『日米韓の連携』のために日本人拉致問題が放り捨てられました(あなたは『六カ国協議』のことを覚えていないのですか?)】

 左沢政治部長が何も言えなくなると天狗騨記者は言いたい放題になる。


「昔は正しいことを主張していたのに今は平然と間違ったことを主張している! 新聞がアメリカ合衆国の顔色をうかがって紙面を造るというのはまったく感心できません。いったいいつまで日本のジャーナリズムはアメリカのアンダーコントロールの下に置かれ続けるのか!」天狗騨記者が手に握り拳をつくりながら左沢政治部長に迫る。

「それもこれもエリート面した政治部にまったく正義を主張しようという覇気が無いからでしょうっ!」


 左沢としては(部長様のこの俺がなぜこのヒラの新聞記者にこれほど威張られるのか)という理不尽な思いでいっぱいである。


「エリート面とはなんだ! エリート面とは! つまり顔だけで〝エリートじゃない〟ってことかっ⁉」

「いちいち単語の端々を捉えての揚げ足取りしかしないからエリート面なんですよ。報道企業の悪い癖だ。私はね、なにも全否定しているわけじゃない。『昔は正しいことを主張していたのに』とちゃんと言ったでしょうが!」

「昔とは何時の昔だ⁉ 昭和の頃か? 戦前か?」

「戦前我がASH新聞は正しい主張をしていたんですか?」

「うるさいっ! 細かいところを突っ込むな! 何時だと訊いているんだ!」

「昭和までは行きませんよ。せいぜい平成中期です」


(へいせいちゅうき?)


(その頃と今とで我がASH新聞の社論が変わっただろうか?)と思い当たる節がまるで無い左沢政治部長であった。


「その頃はこのASH新聞は日米韓の連携など否定していたというのに」、そう確かに天狗騨は言い切った。

「待て待て待て! 否定などしておらんっ!」と言って左沢が天狗騨を全否定する。

「してましたよ。あなたは『六カ国協議』のことを覚えていないのですか?」

「ろっかこく?」

「『六カ国協議』の頃、『日米韓だけで圧力をかけても中ロの協力が無くば北朝鮮問題は解決しない』と、それこそ社説に何度か書いていたじゃないですか。それとも自社の社説も読んでないんですか?」


 〝社説を読め!〟と天狗騨に言った左沢は瞬間的に(意趣返しをしやがったな!)と頭頂部に火がついたようになった。

 ちなみに『六カ国協議』とは『北朝鮮に関する種々の問題を包括的に解決する』との大義を掲げ、北朝鮮の周辺国五カ国(アメリカ・日本・韓国・中国・ロシア)と北朝鮮自身を加えた計六カ国による多国間会議のことである。2003年から2007年まで断続的に都合6回開催されている。


「昔と今とじゃあ状況が違うんだ!」とつい考えずに乱暴に返答してしまった。しかし天狗騨がこの隙を見逃すはずは無い。

「状況は何一つ変わっていません。日本の立場でしか考えないからそういう間違った解を導き出してしまうんです。ここは北朝鮮目線で考えないと」

「きったちょうせん?」

「そうです。北朝鮮政府の人間になったつもりで考えるんです」

「どう考えたっていう?」

「北朝鮮にとってアメリカ合衆国とは何ですか?」


 改めて〝なに?〟と問われると途端に詰まってしまう左沢政治部長であった。


「敵です」天狗騨が端的に言った。「〝エネミー〟という意味です」、とさらに付け加える。

「そんなの解ってる!」と左沢。


「では北朝鮮にとって大韓民国とは何ですか?」


(普通に考えて〝同胞〟だろうが、まさかこれも〝敵〟だと言い出すのか……?)内心身構える左沢政治部長。


「敵です」明瞭に天狗騨は言い切った。


(そこ予想通りになるのか⁉)と左沢。


「では北朝鮮にとって日本とは何ですか?」

「敵だろう」今度は左沢は言われる前に答えた。

「その通りです。北朝鮮にとって日本は敵。つまり日米韓は北朝鮮にとって全て敵なわけです」

「もう終わりか?」

「次は、北朝鮮にとってロシア連邦とは何ですか? です」


(え。ロシア?)と狼狽する左沢。


「味方です」天狗騨は言った。そして、「次の質問は当然予想がつきますよね?」と続けて訊いた。

 さすがにここまで来れば左沢にも簡単に予想はついた。キーワードはさっき天狗騨記者が言っていた。『六カ国協議』である。


「『北朝鮮にとって中国とは何か?』と言いたいのか?」と左沢は言った。

「その通りです。それでその答えは何になります?」

「味方だろう」

「正確な理解です」天狗騨は一応誉めたようだった。しかし左沢としては身構え続けるほかない。

「敵が攻撃してくるのは当たり前です。敵なんですから。意外性も何も無い」天狗騨は言った。

「何が言いたい?」

「味方だと思っていた者が味方にならなかった方が効果が大きい。事態を動かせる、ということです」

「まさか中国に北朝鮮を裏切らせろと?」

「はい」

「バカ言うな!」

「バカじゃないっ。この六カ国協議が開催されていた頃の我がASH新聞の社論は『日米韓だけで北朝鮮に圧力をかけても中ロの協力が無くば核問題・拉致問題などの北朝鮮問題は解決しない』というものだったんですっ! ハッキリと『日米韓だけで圧力をかけてもダメだ』と言っていたんです! これはまったくその通り。正しく理屈に合っている! なのになぜ今ごろになって『北朝鮮があるから日米韓』などと『日米韓の連携』を絶対正義のように主張し始めるのか! これはアメリカの価値観をそのまま宣伝しているだけじゃあないですか!」


 確かに——かつてはそう主張していた。左沢は沈黙するしかない。


「私はね、社会正義実現のために社会部記者になったんですよ——」天狗騨の口が動く。


 左沢の背筋に悪寒が走る。


「普通に暮らしている人々がある日突然外国政府によって拉致され祖国に戻ってこられなくなる。これは社会正義に完全に反する——。左沢さん、あなたはどうですか?」


「おっ、おう。反するとも」、それしか言えない。

 天狗騨はうなづく。


「ところがです。北朝鮮はそうじゃない。六カ国協議が最初に開かれた時は拉致被害者や北朝鮮国民などの人権問題全般についても包括的に取り扱う趣旨もあったんです! だが北朝鮮はじきこの六カ国協議の席で『この会議は核問題を話し合う場で拉致問題を話し合う場ではない』と言い出し日本を名指しして攻撃し始めました。元より北朝鮮寄りの中国とロシアは北朝鮮を不利にしないようにという思惑からだんだんとこの主張に傾いていく。そして問題はこちら側、『日米韓』です。さきほど『北朝鮮にとって韓国は敵』と言いましたが、結局韓国にとって北朝鮮は敵ではなかったようです。韓国にも北朝鮮に拉致された国民が多数います。だから日本も読み誤った。韓国は『六カ国協議は核問題を解決する場だ』という北朝鮮の主張に同調しだしたんです。いつの間にか日本とアメリカの方が少数派になってしまった。じきにアメリカも『六カ国協議は核問題限定』という主張に同調し、最後にはお決まりのフレーズですよ。『日米韓の連携を乱すわけにはいかない』というこの価値観で日本政府は譲歩してしまったんです。これで『拉致問題は北朝鮮と日本との間の二国間問題』ということにされ、六カ国協議の議題から外されることになった。裏でアメリカと韓国からどれほどの圧力を受けたか、公文書が公開されるまでは解ることは無いでしょう。ですがこれだけは確実に言えます! 日本は拉致問題を六カ国協議の議題から外してまでも『日米韓の連携』を優先したが、北朝鮮核問題は解決するどころか益々悪化している! 『日米韓の連携』のために拉致被害者が放り出されたというのに! 北朝鮮から見ればこれらの結果は大成功でしょう。六カ国協議の場から拉致問題を葬り去る事にも成功しましたしね。この現実は『日米韓の連携は北朝鮮を利した』ということを意味していますっ。それでもバカの一つ覚えのように日米韓ですかっ⁉」




(その通りだよ天狗騨——)

 ノートパソコンの画面に向かいキーボードをカチャカチャやっている中道キャップはながら作業で天狗騨の大説を聞いていた。聞きたくなくとも聞こえてくる鬼気迫る大音声である。


(このASH新聞の社内七不思議の一つになぜこれほど好き放題やっている人間がこの会社にいられるのか、というものがあるが、案外心情シンパがいるのかもなあ——)


 カチャカチャと今も中道キャップのキーボードは鳴り続けている。

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