第11話 魔王を覚醒させないために

 先に家に戻ったイサギは、エドヴァルドがくれたカフスボタンの入った巾着袋を握り締めて、ベッドに倒れ込んでいた。

 怒らせてしまった。

 あんなに穏やかで優しく大らかなひとを、イサギは傷付けて怒らせてしまった。エドヴァルドのためといってしたことは全て、結局はイサギの独り相撲で、気持ちも何も通じなかった。

 目の奥が熱くなって、涙が滲んでくる。

 幼い頃は泣くことも知らなかった。痛みや目に何か入って生理的に涙が出ることはあったが、泣いても状況は何一つ変わらないというのを、叩き込まれていたのだ。泣かない代わりに、魔術学校時代はへらへらと笑うことを覚えた。


「お前には魔術の才能があるのに」


 劇団に入るために魔術学校を辞めると決めた14歳のツムギに、イサギも魔術学校を続ける意味もなくなって辞めると告げたときに、サナはそんなことを言っていた気がする。


「俺は誰とも戦いたくないんや。戦うのは怖い」

「魔術は戦うためだけにあるんやない。それに、大事なひとをいざというときに守れへんでも、お前は平気なんか?」


 生まれたときから次代の領主になることが決まっていたような、才能あふれる魔術師のサナにはきっと分からない。サナを殺すためだけに魔術と剣術の腕を磨かれて、失敗した後に普通に生きろと言われても、染みついた恐怖は消えなかった。

 7歳のイサギとツムギが隠れていたベッドを放り投げて助けてくれるような、強くて暖かくて優しいひと、エドヴァルド。彼とずっと一緒にいたいと願ったのに、それも叶わず、それからのイサギの人生は魂が抜けきったやる気のないものだった。

 見かねたサナに、劇団だけでは食べていけないツムギと一緒に領主の屋敷の薬草畑を任されたが、地味で地道な仕事は、イサギから思考力を奪った。

 再会してエドヴァルドと暮らすまで、イサギの心は死んだようなものだったのだ。

 それなのに、イサギはエドヴァルドを怒らせてしまった。


「どうすればええんやろ……また脚にしがみ付いて泣いても、エドさんは行ってしまう」


 ベッドに突っ伏して唸っているイサギに、部屋のドアを勢いよく開けてツムギが入ってきた。普段から動作の大きなツムギだが、いつも以上に焦っている。


「エドさん、帰ってしまうって……」

「俺が怒らせたから!?」


 絶望的になって震える両手で頬を押さえたイサギに、ツムギがふるふると首を左右に振った。


「ファースト姫さんが、戻って来たのよ」

「え……!? てことは、レンさんも?」

「エドさんと一緒に王都に飛んだわ」


 『魔王』とまで呼ばれたサナが、執着した男が王都に帰ってしまう。自分の想っているエドヴァルドが王都に帰るのもつらいが、それ以上に、レンが王都に帰ってしまうという事態に、イサギとツムギは危機感を覚えていた。

 恋はひとを狂わせるという。

 見事に狂って暴走してしまったイサギはひとのことを言えないのだが、サナも狂わないとは限らない。

 もしも、セカンド王女がレンを手放す気がなくて、サナがレンを手に入れられなかったら、本当に『魔王』が覚醒してしまうかもしれない。


「あっかーん!? 王都にサナちゃんが攻め込んだら、俺もツムギも、エドさんの敵になってまう!」

「エドさんのご飯美味しかった……私は、エドさんがイサギを好きなら、結婚してくれたらいいのにと思う」

「ツムギ……」

「エドさんいなかったら、イサギ、生きてるか死んでるか分かんないもん」


 行かなければならない。

 荷物に胡蝶刀とサナを狙う刺客から追いはぎをして稼いだ金を詰めて、少しの衣服も詰めて、イサギは立ち上がった。


「サナちゃんは?」

「完全に拗ねてる」


 「お世話になりました」と頭を下げて立ち去るレンに、「ファースト姫さんが後はなんとでもしてくれはるやろ」とサナは完全に臍を曲げて、王都に出向く気がないようなのだ。

 セカンド王女の呪いを解いた後に、魔女の後妻を糾弾して、操られているかもしれない国王を正気に戻すのが、これから大変なのに、手伝おうという気はないのだ。ファースト王女、セカンド王女、レン、エドヴァルドがいたとしても、王宮の魔術騎士全員を相手にするのは厳しいだろうに。

 助けに行かなければいけない。

 例え、エドヴァルドに許されることがなくても、イサギは彼が傷付くことを望んでいなかった。


「行って来る、ツムギ」

「エドさんのこと、口説き落とせたらいいね」

「……下心は、持たへんように、するわ」


 できることならばエドヴァルドに縋り付いて、泣いて、許しを請いたい。愛を乞いたい。けれど、それよりも国を担う一人として、エドヴァルドが立派に役目を果たせるように手を貸さなければいけない。

 そして、できればレンをサナの元に。

 死ぬのは怖い、魔術の才能も強さもない、戦うのが怖い、こんなイサギに何ができるのか。思い付いたのは薬草保管庫のことで、その中の幾つかの瓶を手に取って、イサギは荷物に詰め込んだ。


「俺は、エドさんの勇者や」


 握り締めるのはあの思い出のカフスが入ったビロードの紺色の巾着。


「ヘッポコでも、ヘタレでも、ビビりでも、俺は、エドさんの勇者なんや。他の誰かなんか関係ない。エドさんの所に行かなあかん」


 勇気を振り絞って、イサギは転移の魔術の術式を編んだ。

 入り込んだ王都の外れは、厳重に結界が張られて、見回りの警備兵たちがうろついてぴりぴりとした緊張感に包まれている。結界とは細い見えない魔術の糸を、緻密に編み上げたもの。

 一本一本千切らないように解して行って、イサギは自分が通れるだけのぎりぎりの隙間を作った。結界を抜けてしまえば、セイリュウ領、テンロウ領、コウエン領、モウコ領から、王都へはひとが集まってきているので、イサギ一人紛れ込んだところで分かるはずがない。

 露店が立ち並び、市の賑やかなセイリュウ領と違い、王都は異様な雰囲気に包まれていた。人々の顔には生気がなく、店に並ぶ品物の数も少ない。

 国政を疎かにしたツケが回ってきているのだろう。


「ファースト王女様がお帰りになったみたいね」

「しっ! それを口にしたら……」


 誰もがこの異様な気配に気づいているのに、それを口に出すのを許されない空気。旅用にと養父に買ってもらったが、セイリュウ領を出る気がなかったので一度も使ったことのなかったマントを目深に被って、イサギは王宮への道を急いだ。



 坑道で危険を知らせるように金糸雀の籠を吊るすという。それほどこの小さな鳥は毒に弱く繊細だった。

 王都に戻って来たファースト王女が一番に向かったのは、毒を吐く醜いドラゴンとなった妹のセカンド王女の立て籠もる地下牢である。かつては大罪人を捕えていたそこは、城の下水が通る道となっていて、排せつ物や腐った臭いに毒が混じって、手の平に乗せた金糸雀は、それだけで弱っていくようだった。


「リュリュ、やはり、命の危険が」


 自分の命など構わないから、ファースト王女の大事な方を助けたい。

 そう言ってくれた勇敢な少年、リュリュは、金糸雀の姿になってからは話すことはできないが、小さな羽根を膨らませて、凛としてファースト王女の白い手袋をつけた指に留まっていた。

 せめてリュリュが毒に侵されないようにと、ファースト王女は首に下げていたムーンストーンのネックレスをリュリュの身体に巻き付ける。守護の魔術がかけられているそれは、奥に進むにつれて淡い月光のような色のムーンストーンが黒く濁ってきて、毒がリュリュを襲っているのが分かる。

 ネックレスを外してしまったファースト王女を心配するように小さな顔をファースト王女の顔の方に向け、黒い瞳をくりくりと動かすリュリュに、ファースト王女は微笑む。


「私は生来、魔術が非常に効きにくい体質なのだ。だから、安心してくれ」


 生まれながらに魔術の利きにくい体質と、解呪の能力を持ったファースト王女は、後妻の魔女からしてみれば襲いにくい相手だったのだろう。それゆえに、セカンド王女が狙われて、ファースト王女は嫌疑をかけられて国を追われた。

 本来ならばセカンド王女の立て籠もっているこの地下牢にも護衛の兵士がいるのだろうが、毒を恐れてか、近寄ってこないのがファースト王女にとっては都合が良かった。


「セカンド! 私の妹!」


 異臭を放つ下水に塗れた地下牢の奥で、醜いドラゴンの姿になったセカンド王女が毒を放ちながら静かに牢の柵に尻尾を絡めて背中を向けている。

 柵に縋るファースト王女の耳で、澄んだ色のムーンストーンのイヤリングがしゃらりと揺れた。


「どうか私を許して欲しい。許してくれるなら私の方を向いて欲しい」

『醜い姿を、どうして見せられましょうか』

「私にとってはかけがえのない、ただ一人の妹だ」


 ドラゴンになったときに怯んでしまい、失った信頼関係を取り戻したい。振り向いたセカンド王女の醜く爛れ、乱食いの牙の生えたドラゴンの顔を見ても躊躇わず、真っすぐにファースト王女はその体に抱き付いた。

 肩の上で金糸雀のリュリュが高い声で歌い始める。


『お姉様、どれほどのご苦労をおかけしたのでしょう』

「それも、私がお前を疑ってしまったがため」


 抱き締めた腕の中で、周囲に立ち込める毒の息が消えて、セカンド王女は若草色のドレスを纏った、ファースト王女そっくりの美しい姿に戻る。

 その喜びを口にするよりも早く、ぱきんっと乾いた音をたててリュリュの身体に巻き付けたムーンストーンのネックレスが砕け、肩に乗っていた金糸雀の姿のリュリュは血を吐いて下水の中に落ちて行った。


「リュリュ!?」


 慌てて拾い上げたファースト王女の手の上で、金糸雀は虫の息だった。

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