最終話 最後に手を振ったあの日のことをきっといつまでも忘れはしない

「好きなことをやることが、自分の生き方だと思って生きてきました。」


 真上からピンスポットライトが俺を煌々と照らす。光の反射と、真っ暗闇のテーブルの上に置かれた何本もの吸い差しの煙草から燻る煙が、まるでスモークを焚いたみたいに目の前を覆っているせいで、ろくに目の前の暗闇にも目を凝らせない。








「それでいいんだな?」


 店を辞めるとき、開口一番龍馬が放ったのはその一言だった。



 鈍色の眼差しを見つめ返し、無言で縦に首を振ると、ふっとため息を吐きながら、


「親父がきっと生きてたら、ミツ坊そんなこと言うなよ、って引き止めただろうな。でも、俺は、店が第一じゃない人間は店にとって必要ない。そう思ってる。」


 きっぱりとした口調で告げた。


 毅然とした態度の前に思わず口ごもりつつ、世話になったな、と言いかけるが先に凍りついた空気を砕氷したのは龍馬だった。


「でも、俺、お前がまたお前を取り戻してくれて、良かったと思う。今までのお前は、なんつうか、可哀想で、情けなくて、心底ムカつく。俺、親父が死んだときだって、あんな風じゃいれなかったからさ。でも、それがお前の全てだったこと、ずっと分かってたから。」


 龍馬の鈍色の瞳の奥に、これまでの想いを全て濃縮したような、感情のうねりを見つけた。


「なあ、ミツ。好きなことがない人生って、どう思う?お前みたいにやりたいことがあって、それに振り回されて一喜一憂している人生と、俺みたいに親父が遺してくれたこの店が全てで、特に好きなことも趣味も何もなくて、それでも疑いもなく特に満更でもない人生と。どっちが幸せなんだろうな?」



 逃げるなよ、お前の選択から。そう突きつけられている気がした。いや、正しく突きつけられている。



「……俺は、」



 覚悟を決めて、口を開いた。








「でも、好きなことが一体何だったのか、途中で分からなくなって、そこからずっと、死んだように生きてきました。死ぬ勇気もなくて、ただただ、ゾンビみたいにウワァーって。」


 肩を脱力させて首を傾げ、ベロを出しながらゾンビの真似をしてみせると、前方にいた2人の若い女の子が吹き出し、お互い顔を見合わせた。


「ハハ…でも、本当そんな感じだったと思います。周りから見たら。でもそれだけ僕は、好きって何だろう、ってことに囚われてたんだと、今なら思います。好きだからやらなきゃいけない、好きだから後戻りしちゃいけない、って。……そういうことって、皆さんもありませんか?」


 何の気無しに問いかけてみたら、客席後方から、あるぞぉ!と酔っ払った声が聞こえてきた。


「じゃあお兄さん、好きなことって、何ですか?」


「あぁ?俺?そうだなあ、カミさんに隠れてAV観ることだな!ガッハッハッハ!」


 豪傑な回答と笑い声に、周りからもどっと爆笑が起こる。


「でも、いくら好きだからって、AV観なきゃ、って強迫観念にはならないですよね。」


「そりゃそうだろお前、たまにはカミさん抱きたいときだってあらぁ!」


 やだ〜!、と前の女の子2人組は苦笑いをしながら囁き合っている。


「そうですよね。そういうスタンスでいれば良かったんです、僕も。ずっと音楽が好きで、向き合いすぎて、嫌なことが増えて、自分が空っぽになって、僕は逃げました。音楽から。そして、自分から。」








「あ……もしもし?俺。あのさ、俺…仕事辞めて、また東京に出ることにしたんだ。


 …えっと……そう、昔バンド一緒にやってた奴がさ、仕事手伝ってくれって、さ。


 そんで……うん、何て言うか…………こないだはありがとう。なんかあれで気付けた気がするわ、俺。


 あん時お前さ、俺のこと『反吐が出るくらい大嫌い』ってさ……でも『私の中ではずっと大好きです』って言ってくれただろ?お前の仕事についてもそうだったけど。


 それって、好きも嫌いもひっくるめて、自分の中で受け入れて『後悔しない』っていう『選択』だった訳でさ。


 例え誰かからお膳立てされた道筋でも、誰かのせいで滅茶苦茶にされた道のりだったとしても、結局自分自身の人生なんだから、自分でケツ持ちしなきゃな、って。やっと気付いたよ。


 だから俺……東京行く前に、決着つけてから出て行こうと思うんだ。


 駅前のアコースティックライブバー、あんだろ?俺、あそこで一回ライブやることにしたわ。もう8年振りだぜ、歌うのも、ピアノ触るのも。


 コンサートホールの隣に音楽練習館、あんだろ?あそこ利用料、めっちゃ安いんだな。あそこのアップライトピアノ弾いてずっと練習してたんだぜ?もうずっと弾いてなかったからさ、半分くらい忘れてたよ、すんげえ下手くそになっててさ、笑っちゃうよな。でも…楽しかったよ、久々に。


 ……来月の1日の土曜日、ライブやるから。この留守電聞いて、もしよかったら……時間あったら、来てよ。待ってるから。……じゃあ。」








「昔、お世話になった音楽の師匠が言ってたことがあって。『好きだけじゃ物事上手くやって行けない、だけど、好きなことがあることは良いことだ』って。僕はその時、彼が自分の音楽の世界の全てだったし、彼が言うことは必ず正しいと思って疑わなかったんです。」


 こんなに神妙に話すつもりではなかった。さっきのしどけない雰囲気は鳴りを潜めてしまった。


「でも、それは彼なりの流儀があって成り立つことであって、それをただ僕は真似ているだけでした。自分ってものがない中で、好きとか嫌いとかまだ何も明確じゃないひとにとって、それって本当に好きって言えるのかな、って。きっと、それは『好きなものを見つけなきゃいけない』『好きなものを手放しちゃいけない』っていう呪縛につながるんじゃないか、って。思ったんです。」


 それでも、ここまで喋ってしまったら続けるしかない。あんなにやいやい言っていた女の子2人組も酔っ払いの兄ちゃんもみんな、静かに俺が喋っているのを見つめている。


「僕は、その呪縛から解放されたかった、だから逃げたんです。音楽から。何年も何年も。でも、逃げても逃げても苦しかった。好きなのか、嫌いなのか、もう最早分かりませんでした。」



 ひと呼吸置いて、水を一口飲んだ。


 熱を孕んだ喉に「落ち着け」と諭すように、冷たいものが流れ落ちる。



「今、やっと気付けたんです。それは好きとか嫌いとかじゃないことに。後悔するか、しないか、だと。」



 バンドを解散した後悔。


 大切な人を亡くした後悔。


 その後もずっと顔向け出来なかった後悔。


 身近な人を蔑ろにした後悔。


 頓挫したまま動かなかった後悔。


 燻って他人に迷惑をかけた後悔。


 音楽を辞めた後悔。



 これは俺なりの流儀だ。大野さんがやったことと同じ。


 この答えは、間違っているかも知れない。でも伝えずにはいられない。


 この気持ちを伝えなければ、間違いなく、新たな後悔の芽が生まれる。








 引っ越し業者が去ったあとの空っぽの部屋は、8帖の1Kでも非道く広く感じた。


 残ったものは寝袋と備え付けのエアコンだけ。カーテンも取り払ってしまったので、西向きのバルコニーから一面に夕陽が差す。オレンジ色に染まるフローリングと天井の影のコントラストに、端なくも胸の内に感傷が込み上げてくる。


 失意のうちに戻ってきた地元だが、恥ずかしさと、何より先の地震で不安定だった最中、おめおめ実家へと戻れる訳もなく、見かねた真樹夫さんが、この部屋はどうだ、と賃貸を探して紹介してくれた。


 あれからもう8年になるのか。


 8年もずっと深海の底で息を潜めていたんだと思うと、なんだか、今はやっと深く呼吸が出来ているような気がする。



 しかし、店と家の往復、ほぼただ寝に帰るようなだけの場所だったけれど、それでも8年住めば無意識のうちに愛着が湧いていたようだ。名残惜しさが今、心の奥に泉が湧くように溢れてくる。


 エレベーターなしの3階、西陽はしっかり入って眩しいくせに南側に建物が隣接しているせいで日中は薄暗いし、そもそも窓サッシの立て付けが悪く、上手くスムーズに開いたためしがない。


 近隣に本部があるせいか、週に一度は宗教勧誘が何かの紙を持って訪ねて来るし、俺より後に入居した隣の部屋のカップルは、真夜中のセックスのときの喘ぎ声と喧嘩の修羅場の怒号が凄まじいせいで何度も眠りを妨げられた。何度警察を呼ぼうと思ったか分からない。斜向かいの家のジジイが飼ってた犬は、毎朝5時になるとニワトリが高らかに鳴くように激しく吠えだして、それもそれで堪えた。あれはもう2年前に鳴き声が止んだからきっと死んだんだろうけども。


 そんな部屋でも、家賃の安さと、4年前に隣にコンビニが出来たこと、そして何より、この部屋からは星空が綺麗に見えたことが、とても気に入っていた。



 物思いに耽っていると、いよいよ日は暮れて、オレンジは次第に濃い紫に表情を変え始めた。真っ白だった半月は既に銀河に向けて澄ました顔をしている。


 星が見えた。放射冷却で、夜空ははっきりと美しく輝いている。


 煙草は残り1本だ。もういいか、吸い納めだな。


 最後の煙草を口に咥えて、窓サッシに手を掛けていつものように思い切り強くスライドさせると、ゴトッ、と重い音とともに、何故かこの時ばかりは拍子抜けのようにスムーズに開いた。


 最後の最後で、今までつかえていたしこりが取れたような、仲違いしていた友人とやっと仲直りできたような、そんな気がした。



 明日は決着の日、明後日は管理会社との立ち会いがあって、いよいよ俺はここから出て行く。悲喜交々の悲の割合が多い日々とも、TVラックの奥の隅っこで干からびていたゴキブリの死骸とも、朝9時の変な鳴き声のカラスとも、もうおさらばだ。


 ふと宇宙を見上げるとその刹那、流星がはっきりと一筋走った。


 願いが叶ったら苦労なんてしないけど、迷信は信じてみたくなる。でも、ふと我に帰った時にはもう既に、いつもの美しい夜空だった。








「僕は、自分自身だけは、信じてあげて欲しいと思います。迷ってもいい。選び取っても、捨てても。それでも、自分がしたことは『正しかった』と信じてあげて欲しいです。」


 煙草の煙で暗闇は依然奥まで見通せない。それでも、暗闇の奥まで届くように、語りかけたい。




「だから、皆さんも、後悔しない人生を大切にして行ってください。」




 これが自分で出した答えだ。



 言い終わるやいなや、拍手が聞こえてきた。よおっ良いこと言うねえ!と野次を飛ばした酔っ払いの兄ちゃんが一番盛大に拍手を送っている。


 張り詰めた空気が次第にやわらかくなると、あちらこちらから、そうだそうだ!、とグラスの音とともに新たな野次が生まれた。



「僕は今日、ここに、音楽と決着をつけるために来ました。次で最後の曲になるんですが。」


 と言うとお約束のように、ええ〜!?、と声が掛かる。


「昔、音楽をやっていた頃に作りかけて、ずっと完成しなかった曲がありました。このライブに出るために久々にピアノに触れて、昔作った曲を弾いて、唄を歌って練習して、そうしたらこの曲を完成させたくなって。なので、今日ここで初めて、やりたいと思います。今日は本当にありがとうございました。」


 お誂え向きでは決してないにせよ、言い終わるやいなや降り注いだ、思いがけない音圧の拍手に思わず面食らった。


 きっと暗闇の奥の奥まで届いていると良い。客席からピアノに向き直り、ひと呼吸置いて、最後の一言を放つ。



「これが自分の、今日、最後の曲です。聴いてください、『Lost in Time』。」








「あのっ!」


 ライブが終わって、バーカウンターで店長と挨拶をしていると、突然後ろから声が掛かった。


 思わず吃驚して振り向くと、さっき前方にいた女の子2人組がニコニコしながら立っていた。


「あ、さっき前の方にいた子…観てくれてありがとう。」


「あの、ユカがすごくさっきの、あの最後の曲、好きだったって、あたしもめっちゃ感動しました!」


「ミホ、さっきちょっと泣いてなかった?」


「え〜やめてよ!恥ずかしいじゃん!いやあ、でもすっごい良かったです!」


「あたしたち、お兄さんの前に出てたTAKESHIさん観にきたんですけど、最後まで残ってて良かったです。」


「あ…ありがとう。」


 彼女たちのぐいぐいと詰めて行く距離に、反射的に尻込みする。


「お兄さん、YouTubeとかやってないんですか?曲上げたりとかってしてないんですか?」


「いや、YouTubeはやってないけど。前やってたThe Heartbeatってバンドの音源ならCD出したりとかはしてたけど…。」


「じゃあ、そのバンドの音源、YouTubeで探して聴きますね!またライブ行きます!」


 そう言ってミホとユカは小さく手を振って、小走りで他の演者の元へ向かって行った。



「おい、アーティストに向かって、アレはねえよなあ。好きだって言うんなら金払ってCD買って行けよ、ってなあ?」


 ため息をつきながら店長が渋い顔をする。


「ん、まあ…いいんじゃないすかね…?」


「好き」ということよりも、「『好き』ということを伝える」ということに、彼女たちは後悔したくなかったんだろう。


 稚拙で、無配慮で、利己的で。


 でも、「好き」という選択肢に対して寸分の気の迷いもなく、確かに判断を下して行く。俺は逆に、それが清々しかった。




 精算を終えて外に出ると、真夜中の冷えた空気に混じって微かに沈丁花の香りがした。


 明日でこの街を離れて東京に出て行くんです、と言うと店長も客たちもこぞって、今日は夜通し飲んで行け、と嬉しそうに揃って乾杯を交わしたが、ありがたくも丁重に断って帰途についた。



 結局留守電のメッセージには返答はなかった。来ていたかどうかも分からない。


 でも、俺にはもうやり残したことはなかった。



 さっぱりとした気持ちのまま大きく息を吸い込むと、甘い香りが鼻腔をくすぐったので、途端にむず痒くなって大きなくしゃみをふたつした。思わず覆ったジャケットの袖口に、盛大に鼻水が付いてしまって、漫画みたいに滑稽で思わず笑ってしまった。



 なんか、良い夜だったな。



 良いライブをした後の夜は、大体いつもこんな感じだった。満ち足りた気持ちはそれがたとえ1%の瞬間的なものだったとしても、99%砂を噛むように過ごす満ち足りない日々に対する、ご褒美のようなものだった。


 久しく感じたことのなかった1%の気持ちに、不意に音楽を始めた頃のことを思い出した。


 好きとか嫌いとか、そういう次元ではないところから音楽を始めたあの頃。



 正しくあれは衝動であり、リビドーであった。


 あれが俺の全てであり、音楽の全てであった。



 それには理由なんていらない。空気を吸い込んだら自然と吐き出すように、マグマのように噴出し、放熱していた。




 龍馬にあの時答えたこと。


「俺は、それが自分らしい生き方かどうか、そう思える方を、選ぶ。」




 ふと目の前に、丁度良い大きさの小石が転がっていた。



 蹴り続けたら何処まで行けるか。



 でもそう思った時には既に小石を踏みつけていた。


 あの小石は、あそこにしか転がっていない。でも、小石なんて、この先いくらでも転がってるだろう。


 そう言わんばかりに、足は急かすように薄暗い裏路地を進み続ける。後ろ髪を引く暇も与えないくらいに、前へ前へ、と。




 だから俺は、今日で、音楽を辞めようと決めた。

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