第10話 上手く出来ている人というのは

「ご注文は以上でよろしいですかぁ?」


 はい、と告げると、いつもの間延びした声の女性店員はハンディのボタンを押しながらキッチンへと向かって行った。


 俺がボヌール・シュエットで働き始めた頃には既にいたから、少なくとももう5年以上は働いている。彼女はどんな思いで働いているんだろう。今さらになってそんな意識が首をもたげるようになってきた。



「なんか、久々ですね。ここ。」


 少し周りを見回しながら、杏里は懐かしそうに言った。その瞳は懐かしさよりももっと遠くを見つめていた。


 あの頃とは化粧っ気も全くなくなり、疲労からか目の下の隈が非道い。入社した頃の眩い瞳の輝きも、サントノーレで躍起になっていた頃の険しい眼差しもそこにはもうない。しかし、あの頃と較べて、何処か憑き物が落ちた穏やかな顔つきだった。



 失礼しまぁすお待たせしましたぁ、と間髪入れずにさっきの女性店員が、凍ったジョッキを運んできた。


 泡がちになった生ビールで、俺たちは乾杯をした。


 突き出しの金平ごぼうや板わさをつまみながら、久々の再会に対する感慨と戸惑いで綯交ぜになった頭の中を、一生懸命整理しようと試みた。



「…今、どうだ?」


 どうだ、って何がだよ。と自分の語彙力に辟易する。仕事のことも、体調のことも、今何して暮らしているのかさえも、俺の思っていることの何ひとつも的確に伝えられない。けれどなんだかその切り出し方が、自分の中での精一杯だった。



「先輩には、私のこと、どう見えてます?」



 俺の質問には答えず、ふた呼吸置いて、予想だにしない問いが返ってきた。躊躇いがちに言葉を選ぶ。


「どう、って……どうなんだろうな。まあ、元気そうには見えるぞ。」



「あのさあ、そういうことじゃなくて!」



 声を荒げた杏里に思わず面食らった。視線は完全に俺の瞳を貫いている。



「先輩、ちゃんと先輩がどう思っているのか、訊かせてくださいよ!いつだってそうだ、自分はこう思うって先輩は言ってくれない。先輩の世界には、楽器屋のオーナーさんしかいない。先輩がいないんですよ、そこには!」


「分かったようなこと言うなよ。…俺だってやれるだけのことやってんだよ。昔のバンドメンバーに会いに行ったり、大野さんの墓参りに行ったり、自分の中で決着付けようと思ってやってるところなんだよ。」


「でも、先輩は私には何もしてくれなかった。」


 理不尽だと思った。だから何度だって電話もかけたし、今日だってここに飲みに誘っただろう。


「先輩は過去しか見ようとしてない。過去の清算しかしてない。後ろ向きのまま前に進んで、それでちゃんと進めるんですか?」


「お前さあ、俺があのとき電話でずっと無言だったこと、まだ根に持ってる訳?」


「はあ……本当マジでやっぱり何も分かってないんですね、先輩。だから後ろ向きのままだって言ってるんですよ。そもそも根に持ってたらわざわざ来ないし、電話だってこっちからかけませんよ。」


 ぐうの音も出なかった。自分が言い訳じみた子どものようで恥ずかしくなってきた。



「先輩には失望しました、私帰りますね。」


 杏里は何も言えずにいる俺に業を煮やし、泡のすっかり消えたビールを一気に飲み干して、立ち上がり席を立った。


 あっ。


 と一瞬、何かを思い出したように少し考え込むと、やにわに踵を返して席へと戻ってきた。


「先輩、お店の皆さんに、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした、と伝えておいてください。お願いします。」



 もう二度と会えない気がした。



「……お前、なんで辞めたんだよ。」


「…気にします?もうそんな終わったことを?」


「お前、今もう、飲食やってないだろ?」


「ええ。金輪際やるつもりもないです。」


「何でだよ。あん時…働いていたとき、あんなに生き生きしていたじゃねえかよ。」


「そりゃあ、頑張らないと生活出来ませんから。」


「やっぱりお袋さんに言われたからか?お前が電話かけてくる前、聞こえてた。お前とお袋さん電話で喋っていたのを。頑張ったって無駄だって言われてたのを。」


「ああ、だってそれはもう、その通りだったんですから。」


 随分あっけらかんと言葉を放つ、その姿勢は俺が知っている杏里であるのに、今まで俺が知っていた杏里ではなかった。



「たかがそんなことで料理人やめちまうのかよ。」


「は?先輩だって、ひとのこと、言えるんですか?自分だってオーナー死んだからってだけで音楽やめたくせに。」


 思わず頭に血が上って睨みつけたが、杏里はそれ以上に冷たく鋭い視線を放っていた。




 乱暴に椅子を引き、席に着き直した杏里は、


「先輩、そういう自分に疚しい部分があるから、誰に対しても核心に触れたこと言えないんですよね?」


 と言い放つと、さもしくずぶ濡れに浸ったコースターの上で手付かずのままになっていた俺のビールを、奪い取って一気に飲み干した。


「私、本当は料理の道なんて進むはずなかった。小学生の時に両親が離婚して、それからは母が女手ひとつで育ててくれたって、前話したことありましたよね。料理の道よりも普通の仕事。母もそれを望んでいたし、私もそうするつもりだった。父のことは好きだったんです。だから両親には仲良くして欲しかったけど、離れ離れになってしまったのが切なくて。父は台湾の料理人で、今も現役です。名前を言えばきっと知ってると思います。父を身近に感じていたくて、だから料理の道に行こうと思ったんです。」


 酔いが回るのと同時に、つるりと杏里の口から言葉が滑り出す。それは俺が初めて聞く、これまでの彼女のルーツだった。



「料理なんてわたしのやりたいことではないんです。良いもの作ったって、写真撮ってSNSに上げるための道具にしか過ぎないんですよ。ちゃんちゃらおかしいですよね、そんな馬鹿みたいに頑張って仕事していて結局それって。でも、それもこれも全部、父のせいなんですよ。」


「親父さんのせい…?」


「私が小さいとき、まだ両親も仲が良かった頃、母と一緒にクッキーを作ったんです。一生懸命生地を捏ねて、手はベトベト。形は歪で、少し焦げたところもあるけど、それを仕事から帰ってきた父が、ずっと私父の帰りを待って遅くまで起きてたんです、それでクッキーを食べてくれたんです。そしたら、美味しい美味しいって言ってくれて、それがすごく嬉しくて。そしたら父が、


『杏ちゃんも、パパだけじゃなくて、こうやって誰かを幸せな気持ちにできる「魔法使い」になるんだよ。』


 って言ったんです。だから私は、パパも魔法使いなの?って訊いたんです。そしたら、そうだよパパもいろんな人に魔法をかけているんだよ、って言っていました。まあでも、離婚したことで魔法なんて半分消えちゃいましたけどね。」


 沈んだ瞳だが、以前ここで飲んだときのような虚ろな濁りはそこにはない。



「進路を決めかねていた高校3年生のときに、友だちからインディーズバンドのオムニバスのCDを借りたんです。このバンドのこの曲良いから聴いてみて、って言うんで。聴いてみたらすごく良くって。友だちにこのバンド何?って訊いたら、実はうちの高校のOBの先輩がやってるバンドらしいって話で、メジャーデビューする前に一回水戸までライブを観に行ったんです。その曲以外全く予備知識もないのに。そこでそのボーカルの人がライブ中、MCでこう言ってたんです。


『好きだけじゃ物事上手くやって行けないけど、好きなことがあることは良いことだと思う。尊敬する人からそう教わって今ここに立っています。皆さんも好きなことを大切にして行ってください。』


 って。だから、料理の道に進んだんです。」



 まさか。ずっと知っていたなんて。



「それがずっと原動力だったんです。父も、そのバンドも。でもいつしか、その目的と手段が違ってきてたんですよね。好きだからやってるんじゃなく、やらざるを得なくなって好きだと思い込んでいる状態だったんです。女のくせに、と言われることもしばしばありました。でも全部耳を塞いでた、嫌なことも、良いことでさえも。突っ走り続けていたら、父の教えてくれた『魔法』も、現実と直面する度に『呪い』になって行ったんです。」


 俺はそのとき、初めて、人ひとりの人生を変えてしまった責任の重みをひしと感じた。暖房が効いているとは言え、冬も盛りで冷たい空気が出入りするテーブル席なのに、額や背中に冷たい汗がじわりと滲んでくる。



「好きから始まった料理は、いつしか父に認めてもらいたいという理由に変わって行きました。私がこれだけ頑張ったってことを見てもらいたかった。お客さんとか、食べる人のことなんて、例え誰に喜んでもらったとしても、そんなのどうでも良かったんです。だから、テレビで取り上げられたときは本当チャンスだと思ったんです。また父に食べてもらいたい。サントノーレで頑張ったねって言われたい。ただその一心でしかなかったんです。」


 テーブルの上のか細い腕と握り拳が、小刻みに震えている。結局あの後、サントノーレフィーバーは、人員不足を理由に当面の提供を休止した。まさにあれは良くも悪くも胡蝶の夢だったのだ。



「でも、父は結局食べに来てくれなかった。それどころか、父が母のもとに連絡を寄越したんです。


『親子であることがバレたらいろいろまずい。もう新しい家族もいるんだ。悪いけどあの子が人前に出て来られると困るんだよ。』


 って。俄には信じられます?これ?もう褒めてもくれない。頑張ったねって言ってもくれない。それどころか、離婚の原因が父の浮気だったって、浮気相手と新しい家庭を築いてただなんて本当のことを知ったら、私、もう完全にシンデレラ状態ですよ。まだシンデレラのほうがよっぽどマシですよ、物語はいつだってハッピーエンドなんですから。惨めすぎて言葉も出ない。本当に。」



 あの時、杏里のお袋さんが電話で言っていた、


『頑張ったって結局無駄なのよ』


 というのはお袋さんの意志なのかと完全に曲解していた。点と点が線で繋がった時、大きな金槌が頭に振り下ろされたような衝撃を覚えた。



「でもね、感謝してますよ。父にも、先輩にも。結局誰の所為にもできないんですよ。自分の道だもの。私はきっと、ずっと他人の所為にしてきたんです。普通の仕事に就くのも母の所為。料理の道に進んだのも父の所為。好きなことに囚われていたのも先輩の所為。全部他人の所為。自分がなかったんですよ。だから、ごめんなさい、本来なら先輩のこといろいろ言えるような人間でも私はないんですよね。」


 申し訳なさそうに顔を上げた、その瞳には涙が溜まって溢れそうになっていた。感情の迸りを間近に受けて、思わずこちらまで泣きそうになる。



「先輩もきっと、誰も信じられないと思っていたように、私は逆に私のことすら信じられなかったんです。だから他人を信じて、何かあれば他人の所為にして生きてきたんです。先輩があの夜、私に何もしてくれなかったから、バックれたんです。理不尽だと思うでしょう?でもそれが私のデフォルトだった。」



 強ばった頬に一筋涙が流れた。



「でも、じゃあ私が私を信じてあげられることって何かって考えたんです。私が私を信じられる唯一のことは、私は誰かに必要としてもらえる存在でありたい、ってことだったんです。私がないなら、私を必要としてくれるひとがいれば、私の存在意義を見出せる。私がいいって言ってくれる人のための力になりたい。そんな仕事をしたい。そう思ったんです。呪いで人生台無しだって信じていたけど、魔法で人生が変わった私もいるんだから。」


 おしぼりで目元を拭うと、おもむろに立ち上がって、深々と頭を下げた。


「先輩、ありがとうございました。私の人生をめちゃくちゃにしてくれて。私の数年間を無駄にしてくれて。でも私は、先輩とは違います。先輩のおかげで、今呪いから踏ん切りをつけて、前に進むことができています。本当にありがとうございました。」


 凪いだ海のように、穏やかな顔をしていた。対する俺は大時化間近のように泣きそうな情けない顔をしている気がする。


杏里は少し微笑んで、財布から5千円出してテーブルに置き、足りなければ出しといてください、それじゃあ、と言って席を立った。



「あのさ!」



 咄嗟に声が出て、杏里の歩みが止まった。



「今、仕事は何やってんの?」


「……介護福祉の仕事です。飲食業よりもずっとハードですよ。」



「お前、今さ、すごく良い顔しているよ。」



 負け惜しみのような言葉だと自分でも思った。でも、自分の意志を伝えるのには、最も陳腐で、最も適切な言葉だった。



「先輩、私、高校の時、ライブ観た時から、仕事辞めるまで、ずっと先輩のこと大好きでした。先輩は絶対気付いてないと思うけど。」


 俺の方へ振り返って、潤んだ目で、震える声で、飲み屋の喧騒に混じって、言葉が紡がれる。


「今の先輩は、反吐が出るくらい大嫌いです。けど、先輩があの時言ってくれたように、好きなことをずっと大切にして行きたいです。だから、私の中ではずっと、これからも、先輩が大好きです。」


 にっこり笑った顔は昔よりは少しやつれていたけど、入社当時の満面の笑みと同じ爽やかさがあった。




 東北の地方都市の冬。海寄りの地域は東京より暖かいとは言えども、風が強い。


 だが季節はもう、新しい春を迎えようとしている。家鳴りを苛む突風はもうすぐ止みそうだ。



 長い長い冬眠から、もう目覚めなくてはいけない。そう思った。

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