第7話 正解も不正解も決め付けないでやり続けていれば良かったのに
「ええと、金成さん、無断欠勤これで1週間目だけど、誰か……知らないよな。」
無神経の権化と評される蛭田でさえ空気を察し、言い澱んで踵を返すほど、ここ1週間の間の厨房の雰囲気は最悪だった。まさに汗を拭う暇もないほど、厨房は忙しかった。
「おい、またサントノーレ、オーダー!それと明日5セット予約だ!」
息をせっつかせて龍馬がオーダーに駆け込んで来る。
「ダメだ、サントノーレ追いつかない。龍馬、悪いけど今日はもうストップして欲しい。」
「ええ!?また今日もかよ!問い合わせ対応で連日謝り通しのこっちの身にもなれよマジで!」
普段仕事では冷静沈着な龍馬だが、この日ばかりは苛立ちを露わにした。吐き捨ててホールへと戻って行く。
杏里の思惑は、その読み通り、とんとん拍子に事が運んだ。
「サントノーレをプッシュしたいと思います。」
洋菓子やスイーツ界隈のトレンドは大体、焼き菓子と生菓子とが交互に流行るのだが、近年はその両方の良い所取りをした商品が人気を呼ぶ傾向にある。
俺は事前に聞かされていたが、唐突の提案に皆は面食らった。しかし、オペレーションはこう、このタイミングのときはこう、最終的に原価率と概算はこう、と用意周到に固めたプレゼンと熱意に押し切られた形で、その3日後には提供を開始することとなった。
結論から言って、このプロジェクトは大当たりだった。
まずは常連のお客さんから口コミで広まり、販売開始から1週間で、アラカルトでの注文率はほぼ二人に一人という圧倒的な支持を受けた。
そしてほどなくして、それを何処から聞きつけたのか、全国放送の昼間の情報番組が、是非取材させて欲しい、とオファーを出してきた。地方都市の一介のレストランにとっては千載一遇のチャンスであり、二つ返事でOKした。
杏里は、自分の仕事に手応えを感じていたと思う。それは本人の実感としても、周りから見ても、殊更生き生きと輝いていた。
だがしかし、その急速な成功は、これから始まるバベルの塔の崩壊をも招くことは、誰も疑っていなかったと思う。特に杏里自身は。
遠くで年配と思しき婦人ふたりの声が聞こえる。
「あら嫌だ、私たちわざわざこのために仙台から来たのよ!」
「お客様、大変申し訳ございません、もう既に本日の分は終了してしまいまして…。」
「確かに予約して来なかった私たちも悪いけど、さすがにまだランチタイムじゃない!この時間にもう売り切れってあり得ない!」
それも無理はないことだった。
一日の作業内容の中でサントノーレを作るには、厨房が二人だけではやはりどうしても限度がある。焼いたシュー生地も、クレームシブースト[*メレンゲを泡立てた際、仕上げに煮詰めた砂糖水を混ぜながら熱凝固させ、そこにカスタードクリームとゼラチンを混ぜて作るクリーム。製菓によく使用される]も、前日の作り置きが出来ない。
そして何より作業工程が多く、時間がかかる。プチシューを焼くにしても、あまりにも個数が多すぎる。
調理用のオーブンで焼き上げるには一度に3セット分が限度だが、この仕事量の多さではオーブン焼成の回転率も悪くなる。
テレビ局の連絡からほどなくして、閉店後に撮影が行われた。
若い世代に有名な人気タレントとお笑い芸人の二人が、作りたてのサントノーレを、作りものの笑顔を崩さずに、頬張っていたのがいやに印象的だった。
それから2〜3週間後、そのテレビ番組では、
『新進気鋭の女性パティシエが作る!今話題の絶品スイーツ♪』
と紹介されるやいなや、問い合わせの電話が殺到した。
需要と供給のバランスが追いつかない。店にとっては嬉しい悲鳴だ。予約は1ヶ月先まで埋まったが、それは全てサントノーレ目当てのお客さんだった。
しかし、その状態が1ヶ月ほど続いた頃、俺はある違和感に気付いた。
ユーゴと杏里の間に会話が一切なくなった。
それは単に多忙だからということでもなく、あれほど常に親密に接しようと近づいてきたユーゴが、どことなく杏里に対してよそよそしい。
語弊があるかも知れないが、彼の料理人としての面子を、たかだかテレビ番組一本によって格好を崩された形となってしまっては、あからさまに態度に出るのもやむなしだろう。
サントノーレが売れれば売れるほど、ふたりの間の距離感は微妙に背きながら開いて行くのを感じた。
だが、さらに憂慮すべき事態がもうひとつあることに気が付いた。
手付かず、または一口食べただけのサントノーレが下げられてくることが増えたのだ。
「こういうのって、SNSに上げたらもうそれだけで満足なんだろうな。」
思わず呟くと、なんだか呆れを通り越して笑えてくる。しかし、その俺の後ろで杏里は、そのズタズタにされた残骸を、唇を噛みながら見つめていた。
需要と供給のバランスが追いつかない。店にとっては嬉しい悲鳴だ。
だが、俺たちにとっては、今は、それは全く意味を成さない。
あの真夜中の電話の翌日から、杏里は姿を現さなくなった。携帯電話も一切繋がらないし、龍馬が家まで行ったが留守のようだ。郵便受けには雨ざらしのダイレクトメールが吐き出さんばかりに詰め込まれていたと言う。
「こりゃもうしゃあないけどクビだなあ。」
ため息混じりにカウンターの前で蛭田がひとりごちる。ユーゴはそれを睨みつけるように一瞥した後、また黙々と作業に取り掛かる。申し訳ありません、と向こうで龍馬の声が聞こえる。
「お母さんだってあんなに喜んでたのになあ。」
その阿鼻叫喚地獄絵図の最中、その蛭田の一言で俺は、先週のあの時のことを思い出していた。
「夜、母が来るんです。ここに。」
昼休憩中、杏里からそう聞いた俺は、ふと先日の居酒屋でのことを思い出した。
「すみません、母からで…。」
あのとき、電話から戻ってきた杏里は、申し訳なさそうな顔をしながら、瞳の奥は澱みを隠しきれずにいた。
「母は女手ひとつで苦労しながら私を育ててくれたんですけど、それもあって苦労しない安定した、所謂ふつうの仕事に就いて欲しいみたいなんです。」
その杏里の母が、今夜、ここに来る。娘の作ったサントノーレを食べに。
その澱んだ瞳が物語る母親像を勝手に想像していたら、実際に来たのはその想像とは真逆の、小柄で笑顔の愛らしい杏里にそっくりの初老の女性だった。
「今は水戸に住んでるんですけどね、どんなもんかなと思って、折角だしってことで来てみたんですよ。」
龍馬に話し掛けている母を横目で見つつ、杏里はサントノーレのシューを焼く準備をしていたが、その瞳は更に澱みを増していた。
杏里の母は、娘の作ったサントノーレを美味い美味いと言って完食し、スタッフにも丁寧にお礼を言って帰って行った。だが、見送る娘の眼差しは変わらず、仄暗い悲しみを湛えていた。
営業が終わり、外にあるバックヤード倉庫に、使用済みのおしぼりを仕舞いに入った。
面倒なので電気は点けずに、おしぼりの入ったカーゴをそのまま隅に押しやった。梅雨も明け、コンテナ倉庫の中は蒸れた空気と食べかすの臭いが充満する。
早く出よう。そう思った矢先、外から電話をする声が聞こえた。
杏里の声。
外には車も通らず、受話音量も大きいせいか誰と話しているかさえもよく分かった。彼女の母と電話をしている。
ここで出て行ってはいけない気がする。そう直感が脳内で告げた。だが、このまま話の流れを聞き続けるのも気が引けた。
「でも……。」
( でも、じゃないでしょう。 )
「……。」
( もう十分でしょう? )
「……。」
( 杏里が頑張ったって結局無駄なのよ。 )
聞き捨てならない言葉だ、と思った。けれど同時にそれは真理だ、とも思った。
でも、杏里は俺と違う。
そう思えている自分の変化に、なんだか吐き気がした。でも俺の中に芽生えた意識は、抗いようもないこれもまた真理だ、とも思った。
黒い虫が足元をすり抜けて行った。
じんわりと湧き上がる汗を袖で拭いながら、声が途切れるのをただじっと待った。
その真夜中、俺のスマートフォンが鳴った。
着信表示が「杏里」と出たのを見た瞬間、無機質な着信音が何処となく悲しく聞こえたのは、気のせいではなかった。
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