第4話 涙を拭い前へと歩いて行く
「龍馬さん、2番テーブルのお客様へ『アンチョビとバジルのニース風サラダ』お願いします!『じゃがいもとほうれん草のキッシュロレーヌ』はもう少しお時間かかりますんで、その旨お伝えしてください!」
桜の季節がまた巡り、杏里が入社して1年が経った。
「ボヌール・シュエット」のスタッフ事情も、この時期までには大きな変化があった。
年末に藁谷料理長が病気で倒れたのは一番大きい出来事だった。
脳梗塞だった。
幸い一命は取り止めたものの、顔面神経麻痺と味覚障害が残ってしまった。リハビリによって回復する見込みはあるらしいものの、長期化する治療を前に当面の復帰の目処はなかなか立たなかった。
料理長の不在の間、厨房はユーゴが一切を取り仕切ることになり、それに伴って杏里もより多くの仕事を任されるようになった。
しかしそれと比例して周囲からの評判やネットの口コミサイトなどでは、料理長が変わって味が落ちた、店の印象が変わった、などと露骨に言われることも増えた。だがその分、周囲の理解者や気にかけてくれる馴染みの常連客などにも多く支えられて、「ボヌール・シュエット」は何とか上手く立ち回っていた。
勿論俺も、周りとは温度差を感じさせないよう努めて振る舞った。でも内心では、舵取りがいなくなっても案外上手く船は進めて行けるんだな、と料理長にはとても失礼ではあるが、不謹慎にもそう思ってしまった。
けれどこの店の人間は、荒波の中操舵不能に陥った時でも、きっと生きて帰るんだと固く誓った財宝船サンミゲル号の水夫たちのような気概がある。あの頃、自分が降りかかった困難に屈していなかったら、今どんな自分になっていただろう。今でもまだ、音楽をやり続けていたんだろうか。……あれ、ちょっと待て。サンミゲル号って難破したし乗組員結構死んだよな…。例えとして間違ったな。縁起でもない。いや、ええと…。
「猪狩サン、ブイヤベース、イツマデ煮込ンデマスカ!?早ク、ブーケガルニ入レテ、サフランモ入レテ!ノンビリシテル暇アルンデスカ!?」
つい考えに耽っていたら、ユーゴに肘で小突かれた。
いけないいけない、荒波の中、俺は波風を立ててはいけないのだ。すみません、と小声で返事し、急いでブーケガルニの束とひとつまみのサフランを鍋にぶち込んだ。
香草の茎が凧糸で縛ったところから非道く湾曲しているのがまるで帆船のキールが折れているみたいで、それがだくだくと沸く血の海のように赤いスープの中へ、沈没して行った。
やっぱり、縁起でもないな。
時を同じくして、さとみは、外資系企業に勤める旦那の海外赴任が決まり、家族総出で引っ越すとのことで退職することになった。
料理長が療養中であることを慮って大仰な送別会を辞退したため、ならばさとみの最終出勤日の営業終了後に内々で軽い食事会を開いてはどうか、と龍馬の提案でそれに決まった。
「さとみさん、『最後の晩餐』何にする?」
調理場のドリンクカウンターで、お客さまの食後の紅茶を淹れながら、龍馬が悪戯に笑って尋ねる。
「あら、『最後の晩餐』なんだったら、いっそパンとワインだけでいいんじゃない?」
紅茶がカップに注がれる前に、既にシュガーポットとミルクピッチャーをサービストレイに載せ、待ち構えていたようにさとみが答える。
このホールのふたりは、まるで姉弟かと思われんばかりに息がぴったりだ。ふたりとも同じ時期に働き始めてからもう10年近い。そこらの芸人顔負けのユーモアたっぷりな掛け合いは、馴染みのお客さまからも笑いを誘うほどだ。
お互いニヤニヤしながら言葉の応酬を繰り広げていたが、踵を返して、すみませんお待たせしましたぁ、と食後の紅茶を運ぶさとみの姿を見つめている龍馬の横顔は、やはり少し寂しそうに見えた。
結局、食事会当日は、ユーゴと俺で春野菜のポトフとミロトン [*ポトフなどで余った牛肉をトマト煮にして作られるフランスの家庭料理で、ハヤシライスの原型とも言われる] を作ることになった。
春とは言え残寒が続く折に温かいポトフはもってこいだし、ポトフで使った牛肉と野菜の余りで作ったミロトンはさとみが賄いで一番好きだと言って憚らないので、メニューはすぐに決まった。あとはワインがあれば十分だろう。
ポトフの仕込みに取り掛かろうとしたとき、ユーゴが不意に口を開いた。
「アノ、猪狩サン、杏里サンノ邪魔、シナイデクダサイネ。」
「……へ?それ、どういう意味っすか?」困惑して聞き返す。
「猪狩サンノ仕事、杏里サンノ仕事ノ負担ニナラナイヨウニシテクダサイ、ノ意味デス。分カルデショウ?杏里サン、困ッテイマスヨ。」
「そうですか、知らなかった、すいません。」
「アナタノ仕事ノ態度、他ノ皆サンハ分カラナイダケド、少ナクトモシェフノ私ハ困リマス。杏里サン、チャント仕事シタイ、ダケド猪狩サン、タダ仕事シテルダケ、杏里サンモトテモ困ルハズジャナイデスカ?」
「そうかも知れません、気を付けます。」
「気ヲ付ケマスデモ、自覚持ッテモラワナイト困リマス。ソンナコトジャ、猪狩サン、杏里サンノタメニナリマセン。」
二言目には、杏里、杏里、ってうるせえな、と思いつつ思わず口に出してしまった。
「ユーゴさんって……杏里のこと好きなんすか?」
不意な質問に目が泳いだと思った瞬間、ユーゴはいきなり声を荒げた。
「……ッッ、真面目ニ聞イテルンデスカ!?ソウ言ウコトジャナインデスヨ!!」
俺の胸倉を掴み掛からんばかりの勢いで迫ってきた、そんなところに、おずおずと杏里が顔を出した。
「あのう、ちょっとご相談したいことがあるんですが…、って、あ…何かお話し中でしたかね?お邪魔でしたらすみません…。」
「ア……イエ…何デモナイデスヨ!ドウシマシタ杏里サン?」
さっと間合いを取ると、何事もなかったかのように取り繕うユーゴに向かって、杏里の後ろから冷ややかな声がした。
「…お前ら、喧嘩すんなよ…。」
龍馬は全てお見通しのようだった。
「ん〜!さすがユーゴ・メッソン料理長代理だわ!フランスはリヨンの期待の新星!ボナペティ、ボナペティ!有名シェフになる前にサインもらっちゃおうかなあ!ねえ、ちょっと私だけ喋ってる。みんな、箸が止まってなあい?ってフレンチだから箸じゃないわ、フォークだね。」
退職祝いで開けたソーヴィニヨンブランによって、店のホールで行われた食事会はさとみの独壇場と化した。
食べ、飲み、そして喋る。さとみの朗らかさに一層拍車が掛かる。これ、軽い食事会のはずだったのだが、そうじゃなかったのか…?寂しくなるね、も、元気でね、も一切必要がなさそうだ。
しかし、別れというのはこんなにも笑顔で行うものだったろうか。ほろ酔いで笑い合っている皆に話を合わせながら、俺は"あの日"をふと思い出していた。
(俺はもう、誰を何を信じたらいいのか、分かんねえよ!)
あの言葉を吐き捨てて逃げ出した"あの日"から、俺は誰も、自分自身さえも信じられなくなった。他人にも、そして自分自身にも、優しくなれなくなった。
自分に起きる全ての出来事はいつも何処か絵空事のようで、現実なんて現実じゃないみたいに思えた。
辛いことや苦しいこと、悲しいことや寂しいことでさえ、喜怒哀楽の然るべき感情が麻痺してもう涙の流し方すら忘れてしまった。他人に向ける感情もそう。その場しのぎで取り繕う言動と本心は一致しない。
心はとうの昔に失くしてしまった。
ソーヴィニヨンブランはとうの前に、ピノノワールが4本ほど空いたところで、俺はやおら席を離れ、トイレに立った。
ホールの奥、調理場の脇の通路を通って突き当たりのドアを開けると、換気扇の音しか聞こえない、その束の間の静音がやけに心地よく思える。
そういや明日は休みだったな。少し飲みすぎた気もしないでもないが、もし二日酔いじゃなけりゃ気晴らしにパチンコでも打ちに行くか。どのみち有意義な時間の使い方ができるほど、やりたいこともやるべきこともないしな。
心の中で独りごちながら用を足し終え、席に戻ろうとトイレのドアを開けると、杏里がこちらに向かって歩いてきた。
「ああ、お前もションベンか?」
「……先輩、デリカシーって言葉知ってます…?」むくれた顔の瞳には、少し侮蔑の色が混じっていた。
「おっと…悪かったよ、すみませんでした。…んで、アレだろ?そろそろ出すのか?」調理場の方へ曲がって行った杏里を追って声を掛ける。
「そうですね、そろそろ宴も酣なので。」返事をしながら棚から一枚大皿を手に取る。
「しっかし、こんな手間のかかるやつ、よく作ったなあ…すげえよ。」冷蔵庫を開けて思わずため息をつく。
「そりゃあ、一応送別会?ですし。」冷蔵庫の中のそれを慎重に取り出して調理台の上に乗せる。
「やっぱりそこ、?になるよなあ。」
「だって、送別会の雰囲気じゃあないですよねえ。あ、先輩、ちゃんと手、洗いましたよね?」
「馬鹿、洗ったに決まってんだろ!」
顔を見合わせてお互い笑い合った。
それを大皿に移しホールへ運ぼうとする俺に、ねえ先輩、と杏里が声を掛けてきたので返事をしようとしたが、その一言を遮るように間髪入れずに言葉が飛び込んできた。
「明日お休みですよね、明日の夜時間空けてもらえませんか、話したいことがあるんです。」
決して倒して崩したりしないように。それを乗せた大皿をがっちりと掴み、最新の注意を払いながらゆっくりと歩を進める。
「お、あれ、何だ?」何も知らない蛭田が俺を指差す。しこたま飲んだと見えて指先まで紅潮している。
蛭田の指差す方を見て、さとみは思わず二度見し、口を手で押さえる。それを龍馬が不安そうに見つめる。
ユーゴは俺を一瞥し、一瞬気に食わなさそうな表情を浮かべるも、すっと席を立ってテーブルの上を整理し始める。
ゴトリ。
それは無事さとみの眼前へと着地した。
パイ生地の周りを、カラメルで艶めかしくコーティングされたミニシュークリームが縁取られ、ホイップクリームやシブーストクリームで織り成した帯の上にたくさんのミニシュークリームとダイス状に砕いたピスタチオ、瑞々しいフランボワーズが積み重なってタワーを形成している。
「サントノーレです。無理を言って休憩時間中に私が作らせて戴きました。」
杏里の言葉に、さとみは驚いて口を覆ったままだ。
「そしてこれは、さとみさん、私からのものではないんです。『これまで大変なことも沢山あったけど、仕事を楽しく有意義に続けて来れたのは、さとみさんと仕事のパートナーを組んでやってきたおかげです、本当にありがとう』と。……そうですよね、龍馬さん?」
杏里が言い終わるか終わらないかのうちに、さとみは小さく震え、小さく声を上げて泣き出した。
龍馬の瞳からは堪えきれず一筋の涙を流れた。それを手で拭いながら、龍馬は告げた。
「…向こうでも……元気でやれよ、今までありがとう、さとみさん…!」
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