第3話 魔法にかけられていた遠き日

「先輩は、音楽やりたいって思ったきっかけって何だったんですか?」


杏里からの質問に、俺は黙々と食器を洗い続ける。その答えの代わりに、ガチャガチャと無造作に、洗い物の音を荒立てる。



そんなもう終わったことなんか訊いてどうすんだよ、俺に今更何しろって言うんだよ。



思っているけど口には出さない。所詮負け犬の遠吠えだなんてことは自分が一番自覚しているのだから。


けれどその一方で、あの時あの場面で何故自分がそうであったのか、どうにも説明のしようがない状況を、顧みたときに気付くことがある。


若気の至りや衝動などという言葉では収まらない。



もしかすると、きっと。



俺も「魔法」にかけられていたんだろうな。








杏里が入社してから半年が経ち、季節は秋になった。


入社当時の頃は厨房の中の仕事と並行して、龍馬とさとみを中心に教わりながら接客の業務を行う日々を送っていたが、入梅の頃からは調理の方に専念出来ることになった。


まずは厨房内の雑用から。そして藁谷料理長とユーゴの作る側で、野菜や肉類の下拵えをしたりブイヨンを取ったりといった補助作業が主ではあった。


しかしながら彼女の明るい人柄もさることながら、界隈では「鬼の藁谷」と評されるほど厳しい料理長の指導にもめげず、勤勉で実直な態度は、早くからスタッフ皆が一目を置く存在であった。


ともすると、俺はと言えば、「鬼の藁谷」からは、


「4〜5年ぼーっと働いてるだけで無駄に培ってきたお前の経験値だけ、そっくりそのままあの頑張り屋に移植出来たらなあ。無愛想でたーだなーんとなーく仕事しているだけのお前もすーぐ用済みになんだけどなあ?」


と嫌味を言われる始末である。


まあ、実際そう言われても仕方ない。大抵の批判は薄ら笑いで、すいません、と繰り返してやり過ごす。


仕事自体は長くやってきているので卒なく出来る。ただ、ここで働く動機は、生活のため。それ以上でもそれ以下でもなかった。



他に選択肢があれば良かった。


だが、俺が東京からこの街に逃げ帰ってきて、一番手っ取り早い選択肢はこれしかなかった。そして一番手っ取り早い選択肢を選び続けた結果、今こんなふうに一番手っ取り早い薄ら笑いで日々をやり過ごしている。


まあ、俺は何処で何をやっても、とどのつまりは「用済み」として扱われる人間なのだから。


ただ、あの頃に比べたら、今の方が全然マシだ。





ある日のランチ営業終了後のことだった。


この日の厨房はユーゴが非番だったため、料理長と俺と杏里の3人で厨房を回していた。


ディナー営業までの時間は休憩時間である。昼食は各々好きに賄いを作るなり他の飲食店に行って摂るなり自由だ。


料理長は事務室で仮眠休憩を取りに行き、この日ホール勤務だった蛭田とさとみはそれぞれ外へ食事に行ったため、俺たちふたりだけがここに残った。


ユーゴがいない日はいつも俺が賄いを作るのだが、その前の晩に深酒をしたせいか昼を過ぎてもあまり食欲がなく、考えあぐねていた。


「さあて、飯、どうすっかなあ。」


ふと呟いた俺に向かって、杏里が珍しく真顔になって言った。


「あの、先輩。今日…私が賄い作らせてもらっても構いませんか?賄いであれば、料理長からは作っていいと許可は戴いているんで。」


そういや、俺は一度も杏里の作った飯を食べていない。


「お、じゃあ頼むわ。今日二日酔いだからさ、悪いけど少なめでよろしく。」


俺がそう告げると、杏里はいつものにこやかな笑顔で、はい!と返事をするとすぐ作業に取り掛かった。


やおらバットにクスクスを広げ、蒸し器で蒸し始めた。手際良く野菜や香草を刻み、鶏肉の余った切れ端を茹でる。じんわりと脂の融ける匂いが漂ってくる。


あああれもいいな、こうしたら美味しそうだな。


微笑みながらひとりごちる姿は、顔立ちの幼さと相まって、失礼も承知だがさながらままごと遊びに興じる少女のようだ。


だが、その様はとても生き生きとしている。水を得た魚のように厨房をくるくると舞い、次々と食材を手にとっては調理をしていく。



こいつは本当に、料理が好きなんだなあ。



厨房の中が見えるカウンターの端っこの席で、蒸し器から絶えず噴出する湯気を見ながらそう思った。



(お前は本当に、音楽が好きなんだなあ。)



遠い昔、そんな似たようなことを誰かに言われた気がする、なんて思いながら。






そうして20分ほど経って出てきたのは、外の皮目を炙って中身をくり抜いたイエローパプリカの中に具がてんこ盛りに入ったタブレ[*クスクスを使ったサラダ感覚で食べられるフランスの惣菜料理]が4個だった。


パプリカの黄色、トマトの赤、鶏肉の白、クスクスのクリーム色。他にも彩り豊かな食材が沢山だ。


「少なくしろって言ったじゃねえかよ。」


「もし余ったら私食べるんで。じゃ、いただきまあす!」


俺の文句を適当にあしらって、杏里は我先にと食べ始めた。


「うん、我ながら美味しい!」


おいおい、俺まだ食ってねえ、早いよお前…。取り皿にひとつだけ取って、中身を一口食べた。



「……美味い…。」



「美味しいですか?よかった、ありがとうございます!」


カラフルな彩りの中に、見慣れない不思議な、爽やかな香りの緑色が存在感を放つ。


「タブレって、爽やかさを出したいときは大体ミント使ってるもんだけど…この緑の葉っぱ、なんかミントとは違うのが入ってる。何だこれ、…歯ざわりが良い。」


「アロマティカスです、これ。」


「え?アロマティカスって、あの、花屋とかでよく見る、多肉植物の?食えるんだ!?」


「そうです。モヒートとかジントニックに入れたりっていうのが一般的な使い方ですけど、こうしてサラダに入れても美味しいんです。」


杏里はやにわに立ち上がり、何処かに行ったかと思うと小さな陶器の鉢植えを手に戻ってきた。どうやら自宅で栽培したものを持ってきたらしい。


「へえ…食えるのか、知らなかった。あとこれ、レモン汁じゃなくてワインビネガー入れたのか?味に角がなくて、すごく合う。」


「そうなんです!パプリカの甘みとハーブ類の組み合わせには抜群だろうと思って、入れました。」



あれこれ、あの食材にはこれが合うだの、あそこのあれは美味いだのと、料理の味に言及しながら、杏里が作ったタブレはとうとう4個とも全て完食してしまった。満腹だ。


「美味しかった。ご馳走さま。多く見えて意外と食えるもんだな。」


「ありがとうございます。」


安堵の表情を浮かべながら言った杏里は、ねえ先輩、と後片付けに立ち上がった俺に向けて徐ろに呼びかけた後、一呼吸置いて語り始めた。




「『生活』って意味とか概念って、ただ単なる所謂ライフスタイルとか暮らしのことじゃない、もっと原点に立ち返った『生命維持活動』ってことじゃないですか。


その『生活』の中で、一番命をつなぐために必要なことって、私、衣食住の中でも食なんじゃないかって思うんです。


そして料理って、それに『魔法』をかけるようなものなんじゃないかって思うんです。


だって、食材だけならただの要素にしか過ぎないけれど、料理に変換することで五感を使って楽しめるでしょう?


それに、人のことを想いながら作れば、その想いが伝わる。こんなに素晴らしいものはこの世にないと思うんです。


私は、言わば、『魔法使い』になりたいんです。人にとってなくてはならないもの、ありふれたもので、沢山の人を幸せにしてあげたい。沢山の人の心を豊かにしてあげたい。


だから私は料理の道に進んだんです。


そして、それは、ある人がそう私に教えてくれたんです。」



凛とした瞳で訥々と語る杏里を見つめながら、俺は不意にあの頃のことを思い出していた。


今の杏里のような希望の光に満ち溢れて、俺は人前に立っていたんだった。"あの日"までは。




「…真面目かっ…。」




俺はただその一言だけを吐き捨てながら、食器を持って洗い場に向かった。


今、暗闇に潜むように生きている俺には眩いばかりで、目が潰れてしまいそうだ。


もうこれ以上は、杏里も、そしてその後ろにある輝かしいものも、かつてそうであった自分自身を投影してしまいそうで直視出来なかった。


食器を持つ手が少し震えた。メラミンの器とシルバーのスプーンが擦れる音が、何故か悲しく聞こえた。

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