せんせいあのね


 生徒たちを帰宅させ、山代多恵は一息ついた。教室に備わる事務机とセットになった椅子に凭れかけ、一人、静かな空間に飲み込まれそうになっていた。


 山代は教師になって僅か二年目で小学一年生のクラスを担当することになり、最初は苦労も多かったが、半年たった現在は徐々に慣れてきていた。


 しかし、あんなことがあれば精神的に病んでしまってもおかしくはなかった。


 教室に並べられた机、そのうち一つだけ花瓶が置かれてあるのが自然と目につく。それは中央の席だった。


 一か月前、山代が受け持つクラスの橋野麻美はしのあさみという女の子の生徒が何者かによって刺し殺された。現場は生徒の自宅近くの小さな公園。一緒に遊んでいた友達の浅原夢乃がコンビニのトイレから帰ってくると、既に血だらけで死んでいたという。犯人は未だ捕まっていなく、また正体も不明な状態だった。


 ここ一ヶ月間、山代は葬式、保護者への謝罪、刑事の調査協力などで疲労困憊になっていた。やっとここ最近になって落ち着いてきたが、それでも溜まった疲れは山代の心を徐々に蝕んでいた。


 数分して休憩を終えると、山代は今朝回収した自由作文の宿題の確認に取り掛かった。積み重なったノートの一番上を手に取り、名前欄を見る。『あさはらゆめの』と不慣れな字で書かれていた。


 事件から初めての自由作文だが、橋野麻美の第一発見者であり、仲の良い友達だった浅原夢乃は一体どんな内容を綴ったのだろう。無残な友人の遺体を目にしたショックは、幼い少女からして多大なるものだったに違いない。生徒の心情を察すると、山代も心が苦しくなった。


 山代は不安を胸に抱きながら、ノートのページを捲った。




 浅原夢乃は子供ながら不眠症に悩まされていた。それは友達の橋野麻美が殺され、夢乃が死体を見てしまったことによる精神的要因なのだが、もう一つ単純な理由があった。


 夜な夜な、父親の部屋から声がするのだ。隣の部屋ということもあって、それは夢乃の部屋まで届いた。だが、はっきりと内容は聞き取れない。事件が起きてからというものの、毎夜毎夜父親は何か独り言を呟いているのだ。


 その日、夢乃は父親が何をしているのか気になり、とうとう彼の部屋に繋がる扉をゆっくり少しだけ開け、中の様子を僅かな隙間から窺った。


 そこで見たのは、夢乃の心にトラウマを植え付けてもおかしくないものだった。


 後々、どうして父親があんなことをしていたのかという疑問が強く残り、目に焼き付いてしまったあの光景の意味を作文の宿題で先生に問うことにした。


 父親が全裸になっていて、夢乃が幼稚園の時によく遊んでいたリカちゃん人形の服を脱がし、「あさみ、あさみ……ああっ……」と声を漏らしながら生殖器をリカちゃんに押し付けていたことを、『せんせいあのね……』という冒頭に鉛筆を走らせた。

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