インビジブルスーツ


「ものすごいのを開発したぞ」


 博士に呼ばれ研究所に着くや否や、彼は興奮のあまり子供みたく騒いでいた。


「何を開発したんですか」


 博士の助手である若者は冷静に訊いた。


「聞いて驚くな。透明人間になれるぞ」


「透明人間?」


 漫画やアニメでしか耳にしない単語なだけに、若者の声は上ずってしまった。


「そうさ。これを見たまえ」


 博士は散らばった机に置かれた紺色のものを手に取った。


「なんですかそれは」


「透明人間になれるスーツ。名付けて、インビジブルスーツさ」


 確かにそれは無地で紺色のウエットスーツのようだったが、少し違うのが手袋とブーツ、さらにはマスクまで備わっていることだった。それを着用して真ん中に蜘蛛でも描けばスパイダーマンになれそうだな、と若者は思った。


「本当に透明になれるんですか?」


 若者は疑った。なんせこの博士、失敗作が大半だ。


「疑うなら着てみなさい」


 博士はニヤニヤと笑いながら、そのインビジブルスーツとやらを若者に渡した。


「着た瞬間、電流が流れるなんてことはありませんよね」


「安心したまえ。私もさっき着てみたが、異常はなかった」


 ふうん、と声に出しながら若者はスーツの背の部分にファスナーがあるのを見つけた。そこから着るようだ。


 若者はパンツ一丁になり、半ば警戒しながらインビジブルスーツを身にまとっていく。


「わしが後ろのチャックを閉めてやろう。そのタイミングで、君は完全に透明人間になれる」


「もし本当にそうなら大発明ですよ博士」


「ふふふ。これが本当なんだな」


 博士がファスナーを上まであげると、姿見を運んできた。それを若者の前に置く。


「うわっ」


 思わず声を上げた。目の前の姿見に映るはずの若者がそこにいなかったからだ。代わりに彼の体を透かして後ろの実験道具が映っている。


「どうだ。驚いたろ」


「はぁぁぁ」


 若者は感嘆の声を漏らした。どう動いても鏡の中は何も変わらない。


「僕の声は聞こえるんですか」


「ああ。声帯までは消すことはできなかった。次期研究するつもりだがね」


「これ、どのタイミングで透明じゃなくなるんですか」


「ファスナーを一番下までさげたら解除される仕組みになってる」


「へ〜」


「どうかねこのスーツ。革命的だろう。わしはこれでノーベル化学賞を取れると思うんだが、君はどう思う?」


 しかし、しばらくしても返事はなかった。何度助手に呼びかけても答えは返ってこない。研究所は首を傾げる博士を残して沈黙に包まれたのである。



 一方、若者は街に出ていた。もちろんインビジブルスーツを纏ってだ。透明になれると分かった時、真っ先に彼の中で芽生えたのが悪戯心だった。


 歩いていて、やはり誰も若者の姿は見えていないと改めて確認した。それから彼は早くもターゲットを見つけ近づく。


「きゃっ!」


 女は振り向く。


「ちょっとあなた、私のお尻触ったでしょ」


「え、え? いや触ってないですよ。何かの間違いでしょ」


「あなたしかいないじゃない。この変態」


 女は男を平手打ちした。若者は傍で笑いを耐えるのに必死だった。こんな面白いことったらありゃしない、と若者は完全に味を占めてしまった。


 それからも若者は次々と人を困らせ、挙句の果てには万引きという犯罪まで犯してしまった。奪ったものを少し開けたファスナーから入れさせすれば、防犯カメラや誰の目にも若者は映らないので、ばれる心配はなかった。それが余計に若者の犯行に拍車をかけた。


 宝石を背中に、若者は爛々と夜の街を歩いた。悪さを初めてから三時間が経ち、彼は満悦だった。すれ違う人に悪戯を仕掛けるのも飽きてきて、そろそろ研究所に戻ろうかと若者は思った。


 横断歩道が見えてきて、信号は赤色だったが、今の感覚に慣れてしまい、若者はそれを無視して左右を確認もせずに渡った。


 それが人生最大のミスといっても過言ではなかった。


 横から車が来てることに気づいたのは、横断歩道を渡る途中だった。


 若者が透明でなければ車のスピードは落ちて停止しただろうが、運転手が彼の姿を捉えるはずもない。車は時速六十キロを保ったまま進み、信号機手前で大きな衝撃に襲われた。


 運転手の男は反射的に急ブレーキをし、慣性の法則で体の自由は一瞬奪われた。車が完全に止まった時、運転手は激しい動悸で息を切らしていた。


 気づかなかった、暗くて見えなかったのか、どうしよう、人を轢いてしまった。


 様々な思考が男の脳裏を過ぎったが、数秒後すぐに車から飛び出していた。被害者の安全を確かめるためだ。


 だが、男は首を捻ることになる。どこを見渡しても倒れて苦しんでるような人はいないのだ。いるのは男の様子を怪訝そうに見つめる歩行者たちのみ。猫かと思い、車の下を覗いてみるが違う。


 どういうことだ、気のせいなのか、そう思った時、男は車のフロントが大きく凹んでいることに気づいた。男はそこを触れながら、俺は何にぶつかったのだろうと心底不思議で奇妙な出来事に怖くなってきた。


 クラクションが鳴り、男は道路を渋滞させてしまっていることを思い出し、慌てて運転席に戻った。


 腑に落ちないまま車を発信させ、また世界は平和に回り続けるのであった。

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