E28 忍び寄る青いバラ
――青いバラ。
まただ。
ひなぎくには、日本に来てから、青いバラの声が聞こえる。
何故だか分からない。
緊張していた所へ、また、誰かのいたずらなのだろうか。
「ふふふふふ……。これ、青いバラ」
スローモーションにひなぎくは振り向いた。
誰か、誰かいたら、怖い。
怖い……!
気が付けば、黒樹にしがみついていた。
しっかりと目を瞑って。
「どうした? ひなぎくちゃん。ガタガタと震えて」
黒樹の腕にしがみつくひなぎくの手を包み込むように握る。
まるで、お化けの夢に飛び起きた虹花をあやすのに似ていると、黒樹は思った。
「しっかりしろ。俺がいる。困っていることを言ってみろ……! 普段から、困ってばかりだろ?」
ひなぎくの両肩をつかんで、こっちを向かせた。
「いやあ、だって……。だって、お化けが出るって言ったら信じてくれますか?」
黒樹は、ひなぎくが顔面蒼白なので、疲労で体調を崩したのではないかと思った。
しかし、じっとりと掻いた汗を感じ取ると、ただごとではないと察した。
「ひなぎくちゃんの言うことなら、何でも信じるさ。その俺を信じてくれ、な。だから、話してごらんなさい」
ひなぎくは、黒樹にすがる思いでかすかに瞳ににじませたものがあった。
その瞳に黒樹は、真摯な眼差しで返す。
見つめ合うと、どれ程お互いが愛おしいかが伝わって来る。
「青いバラと言うお化けです」
「バラ? 花のお化けなのか?」
ひなぎくは、ゆっくりと頷いた。
ひなぎくにとって、青いバラはお化けだったのか分からないが、そうとしか思えなかった。
いつでも、忍び寄るように、囁いて姿を見せない。
どこで、ひなぎくをとらえているのか、さっぱり分からない。
不安で仕方がなかったので、黒樹の胸に飛び込みたかった。
「あの……。もう、大丈夫です」
顔色が悪いまま俯いている。
「そんな訳ないだろう。どんなことでも相談してくれよ」
「……はい」
ひなぎくが小さな声を絞り出して、瞼を閉じると、つつっと涙が散った。
黒樹は、涙を見るなり、人目をはばからず、ぎゅっと抱き寄せた。
ひなぎくが、こんなに弱い姿を見せるなど、尋常ではない。
本当なら、ひなぎくにくちづけをしたかった。
あついくちづけをしたかった。
しかし、黒樹にも理性がある。
ざわついていた喫茶店の中がしんとする……。
ここは、黒樹のよく知る冬の二荒神だ。
今は、父も母もいない。
田畑も見えない程、けがれなき白きものが天から降り行く。
ぽっと、あたたかい女性が佇んでいた。
あれは、ひなぎく。
ひなぎくの手を取った。
冷たい、とても冷たくなった手だった。
二人して雪の中を歩んでいた。
周りは遥か彼方まで白い。
積もり行く雪の音さえも
――寒い……。
そう聞こえて、黒樹は、ひなぎくをよりきつく抱き寄せた。
誰もが、あたため合う二人の時の流れを素通りするように。
「うっ。う……」
ひなぎくがうめき出した。
雪の世界で、ひなぎくを胸にうずめた黒樹が、はっとした。
「あ、きつかったな。すまん……」
ゆっくりとひなぎくを黒樹の懐から離す。
ひなぎくは、俯いたままだ。
さっきまで感じていた黒樹を想っている。
あたたかい、とてもあたたかい胸のぬくもりを忘れられず、もし、黒樹に子ども達がいなかったのなら、今にもこのまま落ちて行きたいとも思う。
「あの……。ありがとうございます」
「礼なんか言うな。俺が困る」
黒樹は、ひなぎくの真意を知りたかった。
いつもこうだ。
真面目過ぎて、他人行儀が難点だなと残念に思う。
今朝もお味噌汁でアプローチしたのだが。
「今から、古民家の持ち主、飯森様がお見えになります。私がこれでは、要らぬ心配を掛けてしまいます」
「そうだな。しっかりできるのなら、それに越したことはない。だが、無理はするな」
黒樹は、約束の相手が遅いのを気にした。
黒樹が待つのは構わないが、ひなぎくのストレスになっていないかと。
「中々、来ないの。先方は道が混んでいるのかいな?」
「そうかも知れませんね」
そう言った時だった。
カランカランと喫茶店の古いベルが鳴る。
「あちらのお客様が黒樹様と仰っていました」
ウエイトレスに案内され、喫茶絵夢に二人の四十代位のスーツ姿とジャケットにセーター姿の男性が入って来た。
どうやら、待ち合わせの相手のようだった。
ひなぎくは、目頭をそっとひよこ柄のハンカチで押さえて、気持ちの切り替えをしていた。
「はじめまして、黒樹と申します」
先ず、黒樹が立ち上がり、挨拶をした。
「白咲ひなぎくです」
挨拶をしながらも、胸の中では、青いバラは、なかった、なかったと消そうとがんばっていた。
そして、黒樹の優しさをぎゅっと抱き締めている。
「私は、飯森健で、こちらが、事務的な手続きをお願いした、
スーツ姿が、飯森健で、ジャケットにセーター姿が飯森克喜だった。
「よろしくお願いいたします」
先方から名刺をいただいたので、こちらからもお渡しした。
「私も古くから飯森様の知り合いが多いですが、この所、飯森様以外にお会いしないですよ。本当に、飯森様が多いですなあ。ふはは」
黒樹の笑い声に、飯森健は、照れながら隣の克喜の肩をぽんと叩いた。
「実は、私の義弟なのですよ。克喜さんは」
「健さんの妹さんを嫁さんにいただいて。嫁さんは、巫女さんだったのですが」
克喜は、それがまだ今月で結婚一年目の紙婚式だからと照れ笑いをした。
「おめでとうございます。巫女さんと出会うのって大変そうですよね」
ひなぎくは、形ばかりでも笑顔を作った。
そんな軽い話題から、ひなぎくはくつろぎ始めた。
黒樹は、ひなぎくが緊張していないか見つめている。
「それが、職場内結婚でして。ふるさとななつ市のそのまあ、市の結婚式場があるのですよ。自分は、最初の部署はそこの衣装部でした。嫁さんは、神前結婚式で舞う巫女さんをしていたのですね。今は独立して不動産を扱っております。夫婦で飯森不動産で働いています」
世間話の一つか、飯森克喜が述べた。
「えーと、飯森様と飯森様がご結婚されたのですか? まあ、そんなご縁があるのですね」
ひなぎくの一言に、わはははと、声を上げて笑いが起こった。
暫し、話を詰める。
先方から、建物の外観や中の写真、現在の間取りを見せていただいた。
パンダ温泉楽々の向かいにある古民家は、黒樹家の自家用で、これからの住まいとすること。
水回りさえ直せばそのまま暮らせるから、大々的な工事は少なくて済み、リフォームの工期も短く済みそうで、部屋数も多いから人数が多くても住みやすいだろうと話し合った。
「では、この物件は、買う方向で行きたいと思います。中の見学をして、その後契約を交わしましょう」
黒樹にとって数々の情報はどれも満足が行くものだった。
「分かりました。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そのまま飯森克喜の車で、現場の古民家へ向かう。
黒樹の社交的なコミュニケーションで、談笑しながら行き、着く頃にはすっかり打ち解けていた。
ひなぎくは、黙って黒樹に任せている。
握手をし、黒樹が古民家を買うことが決まった。
「早速ですが、リフォーム案をまとめるのにも相談相手がいるといいと思うのですが。リフォーム会社をご紹介いたしましょうか? 古民家組とかですが」
「そうですね。有限会社古民家組なら、連絡先が分かっています。コンタクトを取りましょうか? プロフェッサー黒樹」
ひなぎくが、印伝の手帳を出して話した時だった。
バーっとおんせんたま号が去って行くと一人の知ったシルエットが向かって来た。
和だ。
「どうしたのかしら? 和くん」
ひなぎくは、また、不安になっていた。
「青いバラ、待ち焦がれた?」
執拗な青いバラの主は誰であろうか。
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