42.答え①
店長が、神妙な顔をして事務所に立っていた。
ずっと逸らされていたその目は今はしっかりと、私の姿を映している。
「店長……」
遠慮がちに声を掛けると、店長は静かに口を開いた。
「……俺、仕事辞めることになったんだ」
──耳を疑った。
信じられなくて、「何でですか!?」と店長に詰め寄った。
「何で、そんな、急に……っ!?」
慌てる私を、店長は感情のない瞳で見つめ、そして
「ケッコンするから」
と言った。
「え……」
鈍器で殴られたような強い衝撃が脳を揺さぶり、目の前が真っ暗になる。
ぐわんぐわんと耳鳴りが響く中、どういうことなのか理解しようと、必死で頭を回す。
──ケッコンする、って言った?
私が聞き間違えていなければ店長は「ケッコンするから」と言った。
──ケッコン?
──店長が、ケッコン、する?
「結婚」という言葉が脳内でカタカナに変換される。
それくらい、私にとっては現実味のないことで、信じたくない事だった。
「嘘……」
思わず呟いた言葉に、店長はすかさず
「本当だよ」と言った。
「ケッコンするんだ」
店長は静かに繰り返した。
「ケッコンするから、退職するんだよ」
──嫌だ。そんなこと、聞きたくないのに。
目から涙が溢れる。
泣いている顔を見られたくなくて、私は俯いた。
その拍子に視界の角に見えてしまった店長の左手の薬指に付いた真新しい指輪に、胸がはち切れそうになる。
──めでたいこと、なんだから。
私は自分に言い聞かせた。
──めでたいことなんだから、お祝いしなきゃいけないのに。
北川くんが言ってた。
男性にとっての幸せは「好きな人の幸せ」なんだって。
でもそれはきっと、男女関係ない。
好きな人が幸せであることは、嬉しいことに違いないんだから。
だから心から「おめでとうございます」って言わなくては。
大好きな人が、ケッコンするんだから。
そう思うのに、涙は一向に止まってくれない。
せめて泣きながらでも「ケッコンおめでとうございます」って言いたいのに、喉の奥が何かが詰まっているみたいに苦しくて、声がうまく出てくれない。
「てん……ちょ……」
それでも何とか絞り出した涙に濡れた声は、
「だから、さようなら」
という店長の声に阻まれてしまった。
──あぁ、もう、私は。
好きな人の幸せも祝えない。
店長が私に背を向け、歩きだしたのが分かった。
だけど私は、その背中を見送ることさえも、出来なかった。
✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼
ピピピピ……。
目覚ましの音に誘われて目を覚ますと、私は泣いていた。
──夢……?
体を起こし、枕元を見ると本が開かれたままになっていた。
読みながらうっかり眠ってしまったようだ。
本を閉じて、ベッドを降りる。その足で洗面所に行って鏡を見てみると、泣いていたからか我ながら酷い顔をしていた。
──いけない。こんな顔、店長に見せられない。
そう思って顔を洗おうとしたところで、動きを止めた。
──あれは、本当に夢だったのだろうか。
夢にしてはリアルすぎて何だか現実みたいだった。
もしかしたら自分が信じたくないあまりに、現実に起きたことを夢だと思い込んでいるのではないかと思ってしまうくらいに。
──大丈夫、だよね……?
顔を冷めたい水で洗い、変な考えを頭から追い出そうとする。
しかし、あれが現実だったのではないかという思いは排水溝に吸い込まれていく泡のようには消えてくれない。
──もし、あれが現実だったとしたなら。
その時、私はどうするのだろう。
今日、店長の顔を見て堪えられる? 泣かずにいられる?
店長の左手の薬指に指輪が嵌まっていたとしても、平常心でいられる?
「……」
考えていても仕方がないし、仕事に行かないわけにもいかない。
私はさっさと髪の毛のセットをし、着替えて家を出た。
外に出ると、黒っぽい雲が空を覆っていて、どんよりとしていた。
まるで私の心を表してるみたいな空に、気分が重たくなる。
「はぁ……」
ため息を吐きながらも出勤の途を急いだ。
店に着いて事務所の扉を開けると、そこにはいつも先に出勤している店長がいなかった。
──あれ?
少し緊張しながら来ただけに、肩透かしを受けた気分だ。
実は私が勘違いをしていただけで、今日休みだったりして……と思いながらシフトを見てみると、確かに今日、店長は出勤の予定になっていた。
──まぁ、遅刻するとかあるあるだしな……。
そう思っていたけれど、しかし店長は来ないまま始業時間になってしまった。
「米倉さん、どうしたのかしらね」
店長の代わりに金庫から出したお金をレジに入れながら、如月さんは厨房でお米の準備をしている私に話しかけてきた。
それに私は答える気になれなかった。
あの今朝見た夢が脳にこびりついて、離れてくれない。
──店長に会って、あれが夢だったっていうことを確認したかったのに……。
……もしかしたらあれは、正夢だったのかもしれない。
だから、店長は来ないのかもしれない。
そんな考えが頭をグルグルと駆け巡る。
「……しろちゃん? どうしたの?」
ふと気が付けば、如月さんが厨房に入ってきて、私の顔を覗き込んでいた。
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