37.分からないの。②

 西村さんが倒れた理由が意味不明すぎるが、店長にお願い事をされた。


 それが何故だか嬉しくて、休みがなくなったのにも関わらず私は上機嫌で館内に戻り、閲覧台の上に置きっぱなしだった本を片手にカウンターに向かった。


 たった一冊だけ借りるなんて初めてだ。


 私は無事借りられた本を鞄にいれ、家路へを急ぐ。

 帰って、お風呂に入って、きちんとしていかなくては、店長に顔向けができない。


 あれだけ傷ついて苦しんだのに、そう思ってしまう私はもうバカでしかない。

 そう思っていても、心は浮き立つ。


 帰宅するなり私はシャワーを浴び、髪の毛をセットし、またお腹が鳴ってしまわないように家にあったパンにかじりついた。


 夕勤は十五時から。

 時計を見ると、十四時を回った所だった。


 制服に着替えてもまだ時間があったので、私は借りてきた本を少し見てみることにした。


『花咲く君へ』と書かれている表紙には、何かの花のイラストが描かれていた。

 小さな花が集まっている、紫色の花。

 少し前なら何の花なのかなんて気にしなかっただろうけど、今は何となく気になる。

 私は表紙の写真を撮ってそれをアオに『この花って何?』と送った。


「さて……」


 直ぐに既読が付かないのを確認してから、本の方に向き直る。

 この子は、どういう物語を紡いでいるのだろう。


 私はうっかり遅刻してしまわないようにスマホでアラームをセットしてから本を開いた。


✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼


 それは、一人の男性の話だった。


 三十路を過ぎた彼は、恋愛なんてしないと思っていた。


 彼女も欲しいと思わなければ、結婚もしたいと思わない。

 ひとりで上等。ひとり万歳。


 そんな風に思って生きてきた彼の目の前に、一人の女性が現れた。


 十歳近くも年下の女性。


 元気だけが取り柄のその女性──花との出会いは、彼にとって厄介でしかないものだった。


 とにかく明るくて自由で、でも時々物事の確信をつくような事を言う花に、彼は振り回され始める──……。




✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼*✼



 ピピピピピピ!


「わぁ!」


 やはり、アラームを掛けておいたのは正解だったようだ。

 既に物語の世界に入り始めていた私はアラームの音に肩を上げ、本を閉じた。


 出勤前に小説を読むのは良くない。

 物語の続きが気になってしまって、出勤する気がなくなってしまうから。


 それでも、店長に頼まれたことだし、と思えば出勤する気にもなれてくるのだから、私は本当に単純だ。


 忘れ物チェックをしながら、私は小説に出てきた男性について少し考えた。


 ──彼、何か誰か似てるよな……。


 うーん、と頭をひねったけれどしかし、これ以上考え始めたらきっとまた時間を忘れて考えてしまうので、考えるのをやめた。


 ──ま、いつか思い出すでしょ。


 自分にしか関係のない、些細なことに関しては諦めが早い私は鞄を片手に家を出た。



 いつも帰るくらいの時間に出勤する道を歩くのは、何だか不思議な感じがする。

 少しだけ傾き始めた太陽が、少し違う世界を作り出しているみたいだ。

 ……なんて、大袈裟すぎるかもしれないけど。


 そんなことを思いながら歩いているうちに、あっという間に店に着いた。

 裏に回って事務所に入ろうとした時、店長の車がないことに気が付いた。


 ……どうやら、私の少し浮き立った気持ちは無駄だったらしい。


 少しがっかりしつつも「おはようございます」と挨拶をしながら事務所に入ると、堀田さんが既に出勤してきていた。


「あれ、城田さん、何で?」


 しかも店長は堀田さんに連絡すらしていなかったようで、突然やってきた私に堀田さんが目を丸くさせた。

 あの店長、こういうところはいい加減だ。


 私が事の成り行きを説明すると、堀田さんは小さな声で「ほんといい加減だな、あの人……」と呟いてから、

「そうだったんだ。ごめんね、今日は宜しく」

と少し頭を下げた。


「はい、こちらこそ、夜はあまりやったことないので足を引っ張ってしまうかもしれませんが……」

「大丈夫でしょ。昼と一緒の感じでやってくれていいよ。……ていうか」


 堀田さんは珍しく少し笑みを浮かべて、言った。


「夜は米倉さん、来ないからね。少し気楽だと思うよ」


 それに胸が少しだけツキンと痛んだ。


 確かに店長がいない分、絶対に気が楽だ。

 特に今は店長の機嫌が悪い……というか何故か避けられているようなので、会えたところでまた自分が苦しい思いをすることになるのは目に見えているし、会わない方がいいのは自分でも分かっている。


 だけど、それでも……会えないのは、少しだけ寂しい。


「……ま、気楽にやろうよ」


 そんな私の心中の葛藤を知ってか知らずか、堀田さんは私に微笑みかけてくれた。


「……ありがとうございます。頑張ります」


 小さな声で返事をしたのと同時に「ざいます」という声と共にドアが開いた。


「うぉ、城田さん……」


 出勤してきた北川くんも驚きの声を上げる。

 堀田さんに連絡してないくらいだから、北川くんが知るはずもないとは思っていたので、私は直ぐに北川くんに事情を説明して、「足引っ張るかもだけど……」と頭を下げた。


「ん」


 北川くんはただそれだけ言うと、荷物を置いてエプロンをつけ始めた。

 それに倣って私もエプロンと三角巾を鞄から取りだし、装着していく。


 そうこうしているうちに時計は十五時を差した。

 身だしなみチェックをして厨房に入ると、如月さんと三谷さんが堀田さんや北川くんのように驚きの声を上げたので、それに直ぐ様説明をした。


「そっか、大変だろうけど頑張って」


 三谷さんが優しく頭を撫でてくれる。


「……はいっ!」


 それに笑顔で答えてから、私の世にも珍しい夕勤の仕事が始まった。

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