32.奈落の底へ②

「……アキちゃん」

「店長はこの一週間、私の名前一回も呼んでないんですよ」


 私は思わずまた小さくため息を溢した。


「北川くんにも、堀田さんにも、西村さんにも、如月さんにも、三谷さんにも、普通なんです」

「……」

「私にだけ何です……」


 これは、精神的に、かなりキツい話だった。


「でもさ、しろちゃんが何かするわけないじゃん」

「分かりません。だって、私は……」


 この一週間で私の精神はかなり落ちていた。


「私は、最低な奴ですから……」


 私は手をぎゅっと握った。

 痛い。

 でも、心が痛いよりマシだ。


 泣いてしまうよりは、マシだ。


「アキちゃ……」

「……すみません。変なこと言って」


 私はそう言って黙々と作業を続けた。

 三谷さんは、もう何も言わなかった。


***


 帰宅した私は着替える事もせずに机の上で組んだ腕に突っ伏していた。

 落ち込んでいる気持ちが鉛となって全身に行き渡っているように身体が重たい。

 それでも頭の動きだけは鈍くならず、正常通りに──いや、寧ろいつも以上に思考は働く。


 そんな私の脳内を支配するのは、やはり店長の事だった。


 ──何で、どうして。


 ふと、店長の目が頭に浮んだ。


 最近、店長は私の顔も見ようとしない。

 でも同じ職場で働いていれば嫌でも目に入るときがある。

 そんな時、店長はとても冷たい目をしている。

 まるで、嫌いなものを見るかのように。


「──っ、」


 私は唇を強く噛んだ。

 血の味が口の中に広がる。


 ──私は、店長に嫌われてしまったのだろうか。


 そうだとしたら、何故だろう?

 何が原因だった?


 私は、店長とまともに喋ったのはいつが最後だったろうかと記憶を辿った。


 ──そうだ。私と北川くんで、好きなキャラについて揉めてたときだ……。


 店長が同じキャラが好きだと知ったあの時は、共通の話題が出来たと舞い上がったものだった。


 それなのに、今は遠い。

 たった一週間前の出来事が昔の出来事に思える。


 ──同じキャラが好きなのが気に入らなかった? それとも、私の言葉がいけなかった?


 考えても、考えても、原因はわからない。


 何で。

 どうして。

 私は、嫌われてしまったのか。


 そんな疑問ばかりが頭をぐるぐると回る。


 だけど、そんなもの考える必要がない事に気が付いた。


 だって──……。


「私なんて、嫌われて当然だもんな……」



 だって、私はきっと人に不快な思いをさせることしか出来ない。


 顔も、性格も、癖も、喋り方も、その声も、言動も、仕事の仕方も、何もかも。


 鬱陶しいに決まっている。


 逆によく今までああいう態度を取られず、食事まで連れていってくれたものだと感心するくらいだ。

 もしかしたら私のことが嫌いなのに我慢してやってくれていただけなのかもしれない。

 店長はそういうことが出来る、優しい人だ。


 ──そうだよ。今までがおかしかったんじゃん。


 きっと今に店長だけじゃなく、如月さんも、三谷さんも、堀田さんも、西村さんも、北川くんも……そしてアオも。


 いつか私に嫌気が差して、そして離れていくのだろう。


 今までもずっとそうだったから。


『あんたみたいな出来損ない、私たちの子供じゃない』


 頭の中で、声が響く。


 友達も、実の親ですらも離れていった。


 私は結局は一人になる運命なのかもしれない。



 ──もし、本当にそうなら。



 死にたい。

 死んでしまいたい。



 寂しい思いをするくらいなら、苦しい思いをするくらいなら、また傷付くくらいなら、裏切られるくらいなら、また人に不快な思いをさせてしまうくらいなら、人の平穏な日々を妨害してしまうくらいなら、人に気を遣わせてしまうくらいなら。


 いっそ自分からいなくなってしまいたい。


『死ねよ、ブス!』

『死ーね! 死ーね!』

『あんたなんかいらない』

『どっか行け!』


『あんたなんて、生むんじゃなかった』


 そんな記憶の中の言葉に導かれるように、私はフラフラと台所に向かった。


 一番下の引き出しを開け、包丁を取り出した。


 包丁を手首に当てると、心臓が「やめろ」と言うように激しく脈打ち、耳鳴りが脳内を揺さぶる。


 部屋には私一人。誰かが来ることもない。


 だから包丁を思いきり押し当てて引けば死ねると分かっているのに、手が震えて私の手は思うように動かない。



 ──私、は……。



 私は、なんて、弱虫なのだろう。



 包丁を握る手から自然と力が抜ける。


 カラン、という音を立てて包丁が床に落ちた。



 それを拾う気力は、なかった。




 ──結局私は何もかも中途半端なのだ。



 あの時だってそうだった。

 皆に死ぬことを求められても死ねなかった。

 屋上の柵の外に出ても、そこから一歩を踏み出すことが出来なかった。



 死にたいのに、死が怖かった。



 本当に、弱くて、中途半端で、自分勝手な自分に腹が立つ。


 この先、生きていても皆に嫌な思いをさせるだけだと分かっているはずなのに、生きている意味なんてないと分かっているのに、

まだ、だらしなく生にしがみついている。



 そんな自分の事が──……。




「……あんたなんて、大っ嫌い」



 ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かずに、消えた。


 


 

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