第75話 シーズ・ソー・ビューティフル(16)

(1)


 断る間もなく、というよりも、断る隙を一切与えないジルによって、サスキアは半ば強引に舞台裏へ引き摺られていく。

 入り口を出て体育館を囲む雨よけ屋根の下を半周し、外壁に取り付けられた鉄扉の前にきた。早鐘を打つ心臓の痛みを無視しつつ、ノックをするべきか否か逡巡しているとドアノブにジルの手が伸びる。ノックもせずに開けるなんて、と唖然としていると、「こういう扉はノックの必要なんてない」と返され、容赦なく扉が開かれた。

 ステージを観終わったら黙って帰るつもりだったのに。どうしてこうなったのだろう。

 演奏者の身内だと、係員に名乗るジルに続いて舞台裏へ入った瞬間、異様に張り詰めた空気が肌に突き刺さってきた。自ずと高まる緊張感と共に先へ進むと、その理由を目の当たりにすることに。


 音響と照明卓が並ぶ舞台袖、卓の前で担当者と思しき人物二人が進行を確認し合っている。音響卓とは反対側の壁際(厳密に言うと緞帳の一部)に固めたパイプ椅子の上にはエイミーがぐったりと腰掛け、すぐ傍では険しい顔で楽譜の束を捲っているフレッドがいた。


「フレッド。これは……、一体どういうことなの。エイミー、具合悪そうじゃない」

「……あ??」

 ジルの問いにフレッドは不機嫌も露わに応える。楽譜から目線のみ向けると、端正な顔に益々険が増す。

「なんでサスキアもいるんだよ」


 明らかに迷惑そうなフレッドの後方に佇むシャーロットも、もの言いたげにサスキアを睨みつけてくる。予想通りの反応とはいえ二人に怯み、サスキアは二、三歩後ずさった。


「エイミーがこの子を誘ったのよ。観たらすぐ帰るつもりのところを、顔くらい見せてやればって私が無理矢理連れてきた訳」

「……ったく、余計なこと」

「私はあんたじゃなくてエイミーに会わせるつもりで連れてきたんだけど」

「ああ、そうかよ。悪いが、エイミーも俺もそれどころじゃないし、時間がない。母さんと悠長に話している場合じゃないんだ」

「フレッド、お前、カリカリしすぎ。ちょっと落ち着けって」


 見兼ねて宥めにかかるエドすら無視し、フレッドは再び楽譜の束をめくり出す。こいつはもう……、と呆れ返りながら、エドは似たような表情を浮かべるリュシアンに目配せする。


「ジルさん、実は……」


会話を拒否するフレッドに代わり、エドとリュシアンでジルへの説明を始めた。シャーロットはフレッドとジルの顔色を交互にチラチラ伺いつつ、サスキアの方は一切見ようとしなかった。

 粗方の説明を聞き終えると、ジルは床に片膝をつき、苦しげに小さく呻くエイミーからどのように調子悪いのか、そっと聞き出した。


「フレッド」

「なんだよ」

「エイミーは今すぐ私が病院連れて行くから」

「……いいのか??」

「聖××××病院なら遅くまで診察しているし、この学校からも割と近い。ライブ終わってすぐに駆けつけられるでしょ」

「……助かる、ありがとう」

「それと、エイミーの代打でキーボードをこの子に任せたら」

「……は??」


 間の抜けた声がサスキアの口から飛び出す。奇遇にもフレッドが発した声ときれいに重なった。


「エイミーから聞いたけど、知らない曲でも楽譜があればある程度弾けるんでしょ??」

「そう、だけど……」

「待てよ、何勝手に話進めてるんだ」

「そうだよ、お母さん!」

「フレッドとシャーロットは黙ってな。私はこの子に聞いてる」

「…………」


 薄青の双眸に挑むように見据えられ、サスキアは言葉を詰まらせる。

 一方で、先程のライブを観て、体感して、知りたいと思った答えを得るチャンスだとも思った。


「……楽譜があるのなら……、私が代わりに弾いてもいいけど……」


 目線の置き場に悩み、ジルからフレッド、フレッドからシャーロット、と、無為に彷徨わせながら答える。


「ほら、やってくれるってさ」

「あのな……」

「二曲中一曲はピアノの音が必要なんだって??」

「ピアノの音がないならないで、ギターで適当にアレンジするだけだ」

「でも、あるに越したことないし、弾いてくれるって言ったんだから素直に厚意に甘えておけばいいんじゃない。この際、個人的な感情抜きにして一番優先すべきなのは何なのかを考えな」

「…………」


 反論の余地を失ったフレッドは不貞腐れた顔でぷいっとジルから顔を背けた。酷く子供じみた反応にサスキアの目が点になる。 

 三十一歳児と化したフレッドにシャーロットとエドは派手に噴きだし、リュシアンも苦笑を禁じ得ない。周囲の生温い視線にフレッドの機嫌と口角の角度は傾く一方だったが、遂に観念したらしい。


「……失敗は絶対許さないからな」


 厳しい言葉を添えて、サスキアに楽譜を手渡したのだった。







(2)


 舞台からサスキアにも聞き覚えのあるクリスマスソングが流れてくる。反戦や人類愛の願いを込めた歌詞に合わせて客席からも大合唱が湧き起こった。

 あの輪に混ざって口ずさみたい。そう思いながらも、サスキアはパイプ椅子に座っていた。つい先程までエイミーが使っていたので座面にはまだ温かみが残っている。

 フレッドに借りたスマートフォン片手に課題曲の動画と楽譜を見比べながら、脳内で鍵盤を浮かべてイメージトレーニングする。細かい音も聞き落とさないよう、イヤホンの位置を微妙に調整し直す。

 イントロとアウトロはピアノが不可欠だが、途中でピアノが途切れる部分はどうしようか。歌や他の楽器の音との兼ね合いを考えて鳴らすには??

 限られた短い時間で、アレンジを考えるために頭を絞るのが少し楽しい、気がする。


「一曲目が終わったのね」


 サスキアは席を立つと、拍手喝さいが止まぬ舞台へと突き進む。 

 新たなバンドメンバーの登場、一斉に期待と好奇心の目がサスキアに集中した。地灯りの眩しさも相まって思わず目を細める。

 大勢の前での演奏はピアノのコンクールで何度となく経験しているし、値踏みするような視線にも慣れている。それでもサスキアの脚は、指先は、緊張に震えていた。


「なんて顔してるんだよ」

 フレッドの横を通りすぎ様、呆れと叱責混じりの声色が背中に届く。振り返って眼鏡越しに睨みつければ、フレッドはにやりと笑った。

「そこら辺のアマチュアや売れないプロなんかよりよっぽど弾けるんだろ」

 不意打ちの挑発。余裕綽々の態度にムッとしたが、負けじと鼻先で笑い飛ばしてやる。

「当然だわ」


 精一杯の強がりなどお見通し、と含みを持たせた笑みを張りつけたフレッドを無視し、キーボードセットの前へ辿り着く。リュシアンの指示に従って機材調整を行い、準備が整ったところで手を上げ、合図を送る。


 客電と共に沈黙が落ちる。薄暗い館内、サスキアが奏でる音のみが場内に響き渡る。イントロのみで何の曲か気付いた観客から歓声が上がる。続いてフレッドのギター、ドラムが入って歌が始まった。

 始まりの僅か数小節弾いただけでサスキアの肌が興奮でぞわぞわと粟立つ。さっきまでの緊張が嘘のようだ。

 まるでサスキア自身がピアノの音となり、曲の一部として溶け込んでいくようで。音の波間を漂う。浮遊する。飲み込まれる。サスキア一人だけじゃない。演奏者も観客も皆一緒に。

 満ち足りていく――、初めて得たと言っていい充足感。物心ついた時から巣食っていた深い孤独感は音もなくスーッと消えていく。


 求めていたものは舞台の上ここにあった。

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