第74話 シーズ・ソー・ビューティフル(15)

(2)


 鉄柵に囲まれた校庭に一歩、足を踏み入れる。闇に白く浮かぶサッカーコート、複数の遊具を横目に、二歩、三歩と歩みを進める。正面に建つ赤煉瓦造りの平屋建て校舎ではなく、校舎と隣接する体育館に向かって。

 火が消えたように暗く静まり返った校舎に対し、体育館からは煌々と暖かそうな光が各窓から漏れている。近づくにつれ、外壁に飾り付けられたクリスマスリーフやオーナメントまで見えてくる。入り口のクリスマスツリーは電飾でピカピカチカチカ輝き、集まった人々の賑やかな雰囲気までもが伝わってきた。

 クリスマス会の参加者は小学校の関係者かつ家族連れがほとんどという状況、若い女が一人で参加するのは浮いている気がしてならない。それでも、あのまま屋敷で過ごすよりはここにいる方が比べ物にならないくらいマシだった。


 フレッド達の家に押しかけ、外泊した日以来、父とあの女ナンシーと、サスキアの関係は更に悪化していた。

 ナンシーが仕事の合間を縫ってはこれまで以上に屋敷に入り浸り、屋敷の女主人同然に振る舞い始めたのだ。当然ながら、サスキアは彼女と顔を合わせないよう、徹底して避けていたのだが。


『また日を改めて三人でお茶でもしましょう』

 性懲りもなくナンシーは再び誘ってきたのだ。日時は十二月十九日、今日。だから、言ってやった。

『兄達が母校の小学校でコンサート行うらしくて。観に行くつもりなの』と――


 その時のナンシーの顔ときたら!常に余裕ぶった、鼻持ちならない笑顔が凍り付いた瞬間、胸のすく想いがした。同時に加虐心が湧き起こり、更なる追い打ちをかけてやる。


『そう言えば、貴女もお兄様の元に訪ねたそうね。学年や学部は違えど同じ大学出身みたいだし、お兄様はお父様そっくりだし、もしかして』

『サスキアさん、何を言っているの……』

『その反応だとお兄様と何かしらの関係があったのかしら。まぁ、私にはどうでもいいけれど。私はお父様と貴女の結婚は絶対に認めないし許さない。結婚を強行するつもりなら……、お父様との長年の不倫関係を各報道機関に流すわ』


 ナンシーとフレッドの関係はあくまでサスキアの邪推でしかないし、マスコミ云々について勿論、本気でするつもりは毛頭ない。そんなことをすれば、母も、母だけじゃなくて兄を始めとするオールドマン家の人々まで巻き添えを食ってしまう。この女が世間から叩かれる分には一向に構わないが、如何せん、それ以外に傷付く者達が余りに多すぎる。

 とりあえずナンシーを黙らせることに成功したし、と、屋敷を抜け出し今に至る。


 入り口からリノリウムの床を踏み出し、子供から大人まで大勢が密集した館内へ。檀上では、低学年の子供達による生誕祭の劇が行われ、聖母役の女子生徒が赤ん坊の人形をゆりかごから抱きあげている。

 予定より時間が押しているのか、と腕時計で時間を確認しながら人だかりを掻き分けていると、誰かの腕に肩がぶつかってしまった。


「あぁ、すみません」

「いえ、こちらこそ……」


 頭上から振ってきた声に今度はサスキアが凍り付いた。

 瞬時に固まったサスキアに気付くと、デジタルカメラを右手に、三脚を左手に持ったチェスターは困ったように眉を寄せた。

 気まずさで顔を伏せたサスキアはチェスターの表情は見ていない。見ていないけれど、彼の困惑は嫌と言うほど伝わってきた。考えてみれば、コンサートの主役は兄夫妻ではなく、あくまで兄の義妹なのだ。その両親がこの場にいることをなぜ想定できなかったのだろう。やはり、自分はここに来るべきではなかった。


「ちょっと待ちなよ」


 声にならない謝罪と共に、さっき潜ったばかりの入り口に戻ろうとしたところでやんわりと手首を掴まれた。恐る恐る振り返ると、やけにスタイル抜群かつ顔立ちのきつい美人がサスキアを睨みながら鋭く告げる。


「あんたにちょっと話あるから。一旦外に出てよ」


 ちょ、ジルさん?!と慌てるチェスターに、「悪いけど、チェスターはここで待っててくれない??シャーロット達の出番までには戻るから」と言い置いたジルによって、サスキアは入り口の外へと、引き摺られるようにして連れ出されていった。







(3)


 蛇に睨まれた蛙、猫に追いつめられた鼠とは、まさにこんな状況かもしれない。

 開放された入り口の端、ちょうど雨よけ屋根の柱と重なる物陰で、腕組みしながら壁に凭れるジルにサスキアはすっかり萎縮していた。

 普段であれば、不遜な態度の相手にはわざと神経逆撫でする発言や態度を返すというのに。今のサスキアは聞かれてもいないのに、エイミーに誘われてコンサートを観に来ただけで他意はないと必死に弁解し、更には以前マシューの元へ押しかけた非礼を丁重に謝っていた。

 他人への弁明や謝罪など弱みを曝けだすようで、これまでのサスキアならば容易にできることではなかったのに。エイミーといいジルといい、彼女達に対する時は鎧のような意固地さ、頑なさは不思議と顔を見せない。


「あんたの母親に会ってほしいとか言いにきた訳じゃないなら、別にいいよ」

 サスキアの弁明を一通り聞くと、ジルはふっと表情を緩めた。口調は変わらず蓮っ葉だが、声色も先程より穏やかに。

「……じゃあ、私、コンサートを観てもいいの、かしら……」

「いいも何も。誰にも迷惑かけてないことで、あんた個人の行動を制限する権利は誰にもないと思うけど。話は分かったから、中へ戻るよ」

 ジルは呆れた顔でサスキアを一瞥すると、壁から背を離す。先を歩き出したジルの背中を呆然と眺めていると、「早くしなよ」と手招きされる。

 後をついていってもいいのか戸惑い、立ち竦むサスキアにジルの呆れは益々色濃くなった。

「実はエイミーから事前に話は聞いていて、もしもあんたを見掛けたら頼むって。それに……」

「それに??」

「何となくだけど、あんたを一人にさせない方がいい、って思った」

「…………」

「なに笑ってるのよ」

「……別に、随分とお節介だな、と思っただけ」


 お節介、と笑いながら言ってしまったが、決して馬鹿にした訳ではなかった。

 ジルにも伝わったのか一瞬だけ眉を顰めた後、「否定はできないね」と苦笑した。


(1)

 

 館内に戻ったタイミングで下りていた緞帳がゆるゆると上がっていく。

 場を離れている間に生誕祭の劇は終わり、次の演目であるクリスマスコンサートの準備が整ったようだ。程なくして演奏が始まった。

 急いでチェスターの元へ向かうジルの後ろ姿を横目に、サスキアはその場に立ち尽くし、檀上を食い入るように見つめていた。自分はチェスターの傍には行かない方がいいと判断したのもある。それ以上に、演奏と観客の興奮が一体化する空気に、乾いた胸の奥が静かに熱を帯び始めたのだ。


 天井から光の結晶がきらきらと降り注ぎ、薄闇を輝かせている。

 音から輝きが生まれるなど実際にはありえない。ありえない筈なのに。

 あたかも今目の前で美しい結晶が舞い落ちてくるような気になり、胸の高鳴りが加速していく。

 ボーカルに合わせて歌を口ずさむ子供達、歓声を上げる大人達が見せる生き生きした表情につられ、自然と笑みが零れていた。


 客席じゃなくて舞台の上ではこの空気をどう感じるのだろうか。

 客側と演奏者側では音楽の楽しみ方は同じなのか全然違うのか。

 音楽なんて父から、音楽を生業ととする家の為に課せられた義務でしかなかったのに。

 知りたい。音楽の楽しみ方を、もっと知りたい――


「あ」

「終わったね」

 客電がつき、館内に明るさが戻ると共にサスキアの意識も現実に引き戻された。そして、いつからいたのか、サスキアの隣にはジルの姿があった。

「じゃあ、私はこれで……」

「待ちなよ」

 舞台に緞帳が下りていくのを名残惜し気に見送り、そそくさと立ち去ろうとしたが、再びジルに引き止められる。

「折角来たんだから、フレッド達に一言挨拶しに行ったら」

「え、でも」

 エイミーはともかく、フレッドやシャーロットは自分の顔なんて見たくないだろうに。

 サスキアの胸中など知ってか知らずか。もしかしたら、知った上でなのか。先程と同じくジルはサスキアの手首をさっと掴んだ。

「つべこべ言わずに行くよ」

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