第66話 シーズ・ソー・ビューティフル(7)
(1)
曇り硝子で隔てていてさえ、灰皿スタンドを挟んで佇む二人の不穏さは伝わってきた。
「エイミー、手がお留守になってる」
「え、あっ、はい!」
グラスを洗っていた筈が、二人の様子につい気を取られてしまっていた。慌ててグラスクリーナの先を動かし、グラスに付着する洗剤を洗い流す。
「ま、気持ちは分からんでもないよ。ただでさえ実の両親の話題は
手からグラスが滑り落ちていく。シンクに落下寸前のところでゲイリーが咄嗟に手を伸ばし、受け止める。
「意外か??ほら、エドやメアリ程ではないにせよ、俺もフレッドと付き合い長いし……、と言っても、本人の口から直接聞いた訳じゃないけど」
グラスをエイミーに差し出すと、ゲイリーはタオルで手を拭きながら続ける。
「あいつ自身は黙っていても、見た目が目立つ分色んな噂が絶えなかったし。だから、あのお客が妹だと知っても妙に納得できるんだよなぁ。……悪い、裏から中に戻ろうとした時に偶然聞いちまったんだよ。聞かれたくない話だろうから知らない振りしてたけどさ」
素っ気ない口調とは裏腹に、エイミー同様に硝子の向こう側に注ぐ視線はいつになく心配そうだ。交わす会話の内容までは聞き取れないが、どう見ても睨み合っているし。
フレッドは人前で余り感情を露わにしない。プラスの感情だろうがマイナスの感情だろうが。
取り分けマイナスの感情は育ってきた環境によるのか、彼自身のプライドの高さによるのか、人前で晒けだすことは皆無に等しい。
そのフレッドが今にも怒りを爆発させそうな程ピリピリしている。女性相手なので堪えてはいるものの、男性だった場合は怒鳴りつけるくらいはしそうな雰囲気だった。上階のコーヒーショップに行くと言っていたのに、移動する様子すらない。
外での話し合いが余りに長引くようなら、もう一度中に入ってと言うべきだろうか、どうしようか――、と、エイミーが迷いだしたところでフレッドが店内に戻ってきた。彼の後ろにサスキアの姿はない。
「あれ、妹さんは」
「マクダウェル嬢には帰ってもらった」
「…………」
「悪いが、ズブロッカをもう一杯。フィッシュ&チップスも。腹が減ってきたし、家では絶対食べられないからな」
何事もなかったかのようなフレッドの態度に、思わずゲイリーと顔を見合わせる。しかし、口には出さずとも冷たく整った顔には『何も聞いてくれるな』と大きく張り付けてあった。
「なんじゃそら、何で家では食べられないんだよ??」
「エイミーが仕事以外でフィッシュ&チップスを見るのも匂いを感じるのも嫌なんだとさ」
「だって、仕事で毎日作ってるし??家でまで作る気になれないのよ」
「エイミーに作らせるんじゃなくて、食べたきゃ自分で作るか買ってこればいいんじゃ……」
「どうしても食べたい時はそうしてる。もちろんエイミーが居ない時にな。でも、自分が作ったり買ったものよりも、エイミーが作った方が旨いんだよ」
「うわ、出た出た、無意識惚気!」
「褒めてくれるのはすごく嬉しいけど、それでも家では絶対作らないからね??」
傍から見れば和気藹々とした空気だが、フレッドとゲイリーが『いつも通り』を装おうと必死なのは明白だった。エイミーもまた努めて明るく振る舞ってみせる。どのみち、ここでは込み入った話などできないのだから。
その後、フレッドとも馴染みある常連客が数人、入れ代わり立ち代わりで来店した。新しい客が来る度にステージでのセッション、合間に音楽談義を白熱させたりするうちにフレッドの顔色も元に戻っていった。
フレッドは当初の予定通り閉店まで残ってエイミーと共に帰路についたが、帰宅してからもフレッドはサスキアの話を一切しなかった。家で二人きりになれば――、淡い期待は脆くも崩れ去った。けれど、エイミーの方でも自分からフレッドに尋ねることができずにいた。
(2)
結局、サスキアの話を聞き出せずに就寝時間を迎えてしまった。
憂慮を抱えて眠れる筈がなく、ダブルベッドの上でもう何度目かになる寝返りを打つ。室内が薄闇に染まる中、木目調の壁紙から隣で眠るフレッドの横顔が視界に映り込む。
(精神的に)疲弊しきっているせいか、ベッドに入って間もなく眠りに落ちたらしい。 普段は寝付きが悪く眠りも浅いし、ちょっとした物音でも目を覚ましてしまうというのに。逆に、普段は寝つきが良いはずのエイミーが悶々と眠れない夜を過ごしていた。
静寂に支配された室内で、ミシッ、ミシッと軋んだ音、パキッと小枝を踏んだような音が鳴る。時々、気温と湿度が変化する夕方から夜中に掛けて家なりが発生するのだ。
初めて聞いた時はラップ現象かと怯えてフレッドを呆れさせたが、今では全く気にならない。むしろ、寝るまでに何回家なりがするか数えてみようか、とすら考え――、羊を数えるのとは訳が違うと思い止まった。眠れないとつまらないことばかり考えてしまう。
眠れないならいっそのこと起きてしまおうか。睡魔はちっとも訪れてくれないし、寝返りを打ち続けているせいでフレッドまで目を覚ましてしまうかもしれない。
フレッドを仕事に送り出し、エイミー自身が出勤準備するまでの間のどこかでひと眠りする時間は充分ある訳で。ちょうど今書きかけている原稿を起きたついでに仕上げてしまおうか。
フレッドを起こさないよう、そっと起き上がる。暖かいベッドから出るなり冷気に襲われ、身体に腕を回し身震いする。
節約のため、深夜一時から早朝六時の間セントラルヒーティングは消してしまう。現在の時刻は二時半、タイマーはとっくに切れている。
想定外の寒さに弱気の虫が顔を出す。そう言えば、深夜から明け方にかけての冷え込みがグッと厳しくなるとオンライン天気予報で観たような……。
やはりベッドを抜け出すのはやめよう。先程まくり上げたばかりの
隣から振り絞った低い呻き声が耳に飛び込んできたからだ。
フレッドは眠りながら苦悶の表情を浮かべていた。額にはぽつぽつと細かな脂汗、喘鳴に似た乱れた呼気――、例の夢を見ている??
羽毛布団の上からフレッドの肩を叩いては何度も揺さぶった。繰り返す度に眉間の皺は一層深くなり、瞼がぴくぴく痙攣し始める。あと少しだ。
更に何度も名前や「起きて」と呼びかけていると、いきなり手首を掴まれた。小さく悲鳴を上げる間にフレッドは薄目を開けていた。
「……俺はまた、うなされていたのか??……」
フレッドは両手で顔を覆い、長いため息を吐き出す。よろめきながらも起き上がろうとするのを手伝い、混乱する意識が落ち着くのをエイミーは静かに待ち続けた。
「何がそんなに苦しいの。貴方を苦しめているものはなに」
「…………」
呼吸が整い、激しく上下していた肩の動きが止まったところでエイミーはフレッドを抱きしめた。壊れ物を扱うように、痩せた広い背中を労わるように撫でながら。フレッドは大人しくエイミーに身を預けたが、エイミーの問いには答えてくれそうにない。
薄皮一枚分程度の厚みだが壁を築かれている。深い愛情で繋がっていても決して切り崩せない壁。
別に崩す必要はないし、壁越しで彼に寄り添えられればいい。ずっとそう思ってきたのに。
「今は無理に話さなくてもいいよ。話すことで却って貴方の傷を深めるかもしれない。いつでもいいよ。話したくなった時に話してくれれば……」
無性に泣きたくなるのを堪え、代わりに宥めるように微笑んでみせた。うまく笑えている自信はないが、薄暗い室内ならば分からないだろう。
「眠れないかもしれないけど、明日も仕事だしとりあえず寝よ??」
フレッドの身体を離して背中を向ける。横になるべく羽毛布団を捲ろうとして、再び手首を掴まれた。後ろから覆い被さられて少し緊張していると、消え入りそうな声で囁かれた。
「…………エイミーに、話しておきたいことがあるんだ…………」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます