第65話 シーズ・ソー・ビューティフル(6)
(1)
サスキアが奏でる滑らかなピアノの音が、そう広くない店内を満たしていく。
その音色はただ美しいだけではない。昏く深い森を手探りで一人突き進む不安、絡まり合う男女の情愛と愛憎。映画音楽も手掛ける高名な現代クラッシック作曲家の曲だが、選曲に意図的なものを感じてならない。『私生児を持つ女性が結婚の為、子と共に渡った大陸で夫とは別の男性と恋に落ちる』映画に使用された曲だから。
エイミーは、この曲が持つ、グリム童話の初版本を想起させる仄暗さが好きだが、カウンターのいつもの席に座るフレッドの表情は険しい。エイミーの気遣わしげな視線に目もくれない。
あれから――、サスキアが名乗った直後、スコッチを取りに行っていたゲイリーが戻ってきた。するとサスキアは、フレッドから再びカウンターのエイミーへと向き直った。
「はいよ、スコッチ。お??フレッドが来たのか」
事情を知らないゲイリーは呑気な口調でスコッチの瓶を酒棚の空いた箇所に置いた。ゲイリーの呼びかけと瓶を置いた音でエイミーはハッと我に返る。
慌ててグラスを手に取り、アイスビンの扉を開けようとしたが、すかさず「氷はいらない」とサスキアに制されてしまった。伸ばした手を引っ込め、サスキアに背を向けてスコッチを手に取る。新品同様で中身はほとんど減っていない。前回蓋を開けた時からかなり日数が経っているらしく、開けるのに少々苦労した。
「お待たせ」
「いえ」
硬い顔でグラスを受け渡すエイミーとは違い、サスキアは一貫して冷然たる態度を崩さない。サスキアは着席することなく、その場でグラスに口をつけた。だが、一口だけ口に含むと徐に顔を顰め、グラスを机上に返した。
「ねえ、ここって楽器演奏できるバーなんでしょ??早速弾いてもいい??」
気を取り直すように、ほんの少しだけ声を弾ませたサスキアにエイミーは思わず眉を潜めた。
気心知れた常連客ならいざ知らず、一元の客が入店早々いきなり演奏を申し出た場合、基本的には断っている。大抵は他で飲んできた後の、すでに相当出来上がった酔客でまともな演奏など到底できないし、酔いに任せて楽器を雑に扱うからだ。 サスキアは酔っている訳はないが――、エイミーは判断を仰ぐためにゲイリーを見上げた。ゲイリーもサスキアの不躾な態度に困惑している。
「ちゃんとした演奏聴かせれば問題ないでしょ??言っておくけど、そこら辺のアマチュアミュージシャンや売れないプロなんかよりよっぽど聴かせられるわよ」
「へぇ……、大した自信だねぇ。じゃ、まずは一曲何か聴かせてもらいますよ」
ゲイリーは興味深そうにサスキアを一瞥すると音響卓へ向かった。続いてサスキアもステージへと進む。
二人がカウンターから離れた隙に、エイミーはフレッドにズブロッカのグラスとミックスナッツの小皿を差し出した。
「ナッツは」
「ナッツは私の奢り。空きっ腹で飲んだら胃を痛めるし、酔いも回りやすいから」
青褪めた顔は見ない振りで、押し付けるように小皿を手渡す。それをフレッドは力無い手つきで受け取った。そして、ステージから例の曲が流れだした。
どんなに素晴らしい演奏だろうが、フレッドには苦行以外の何者でもない。やけくそのようにナッツを口に放り込み、砂を噛むような顔でズブロッカで流し込んでいた。
オープンマイクは一ステージにつき二曲まで。あと一曲は弾くと思われるが、果たしてフレッドは耐えられるのか。
どうしてこんなことに――、良かれと思って店に寄るよう告げたことが悔やまれてならない。演奏が終わらない内に帰った方がいい、かもしれない。どう促そうかとエイミーが迷っている間に演奏が終わり、二曲目に入るかと思われた。
「満足したわ、ありがとう」
そう言ってサスキアは立ち上がり、ステージを降りてカウンターに戻ってきてしまった。入れ替わるようにフレッドも席を立った。
「私から逃げるつもり??」
「いや??」
レジで支払いをしながら、フレッドはサスキアの方を見ずに告げた。
「この店の上――、二階のコーヒーショップに場所を移す。話を聞くだけなら聞いてやるからついてこい」
(2)
ベールのような霧が夜の繁華街を包んでいる。暗闇の濃度を薄める白い靄に紫煙がゆらり揺蕩う。冷たく澄みきった空気、乾いた風、凍てつくアスファルトが肌を刺し、身体の芯まで冷やしていく。
「煙草はやめたの??」
バブーシュカの軒下で煙草を咥えてサスキアはぶるぶると震えていた。震えて身体が揺れる度に煙も揺れる。二階の店に行く前に一服したいという、サスキアの要望に渋々応じてやったのだが、弱った精神状態下のフレッドにこの寒さは正直堪える。
「なんで俺が喫煙者だったって、知ってるんだ」
「先に私の質問に答えて」
「……結婚を機に禁煙始めたんだよ」
わざと大きく舌打ちし、さも面倒臭そうに答える。
「ヘビースモーカーだったのに、よく止められたわね」
「最初の一、二カ月はきつかったが、今は少し慣れ――、そんなことはどうでもいい。質問には答えてやったんだ、今度はあんたが答える番だろう」
「お父様はオールドマン家の動向を定期的に調査していたの。離婚が成立したとはいえ、お母様にとってチェスター氏は唯一の理解者だったみたいだし、お父様と上手くいかなくなってからはずっとあの家に戻りたがっていたから」
ナンシーとの再会、及びサスキアとの初対面の衝撃が強すぎたせいか、もう何を聞いても驚く気にはなれない。ただし、全く悪びれないサスキアの傲慢さに更なる怒りを、話の内容は長い年月をかけて克服しつつあった筈の、アビゲイルへの憎悪を呼び起こした。
「世間知らずで、脳内お花畑なあの女が上流の家でやっていけないことくらい、想定通りじゃないか。どうせ言葉遣いも作法もろくに覚えられない、覚えようとしなくて周囲から馬鹿にされたあげく、あの男にも愛想つかされたんだろ。自業自得だ。むしろ、あの女のせいで密かに監視されてただなんて、こっちにとっちゃ迷惑極まりない話だよ。まさかと思うが、あの女のことで俺に話があるとかじゃないだろうな」
「…………」
「図星か」
まだ言い募ろうとするフレッドにサスキアは煙草の煙を吹きかけた。軽く咳き込んでいると、ゾッとする程冷たい目で睨み上げてくる。
「だったら何??」
臆することなくフレッドは続けた。
「今日の昼間にナンシー・アレンという女が押しかけてきた。貴方の実のお母様について話があると」
サスキアはスッと目を細めると、短くなった煙草を灰皿スタンドに押し付けた。
「それで??」
「当然追い返した。俺にはもう関係ないから」
「そう、助かったわ。あの女の厚かましさには心底辟易しているの。いい気味だわ。でも、あの女は追い返したのに、なぜ私の話は聞いてくれようとするの」
「……勘違いするなよ、俺とあんたが居座ることで店の雰囲気が悪くなる。ここの店主は俺の友人で店員は妻だし、彼らに迷惑掛けたくなかっただけだ」
「奥さんと言えば……、調査した者から聞いた通り、本当に見事なまでに派手な赤毛ね。それに彼女の目、虹彩異色症とか言う病気だったかしら??」
「病気なんかじゃない。生まれつき虹彩の色素が片方ずつ違っていただけだ」
「先天的な異常という訳。犬や猫ならともかく、人間で極端に目の色が違うと、何だか気持ち悪いわね」
「おい、その辺にしておけ。じゃないと、高々としたその鼻をへし折るぞ」
普段なら決して口にしない類の言葉がフレッドの口から飛び出した。だが、暴力的な言葉にも、殺気立った薄灰の双眸に見下ろされてもサスキアも動じない。むしろ憐れむような顔で見上げてさえくる。
「いい大人が小娘相手に何をムキになっているの。それに、本当にそんなことしたら、困るのは貴方。貴方だけじゃない、奥さんも困ることになるわ」
「人の揚げ足取りして楽しいか??そっちこそ年上への口の利き方を何とかしたらどうだ。それとも上流の人間は皆こういう話し方をするのか??」
我ながら大人げないと思うが、サスキアと話していると無性に苛々する。冷静さが保てないせいで自然と口調も荒くなってしまう。
「そんな口の利き方じゃ、どうせ周りから嫌われてるだろ。友人だっていないんじゃないのか??」
ほんの一瞬だけ、サスキアは目を伏せて言葉を詰まらせたものの、すぐに顎を突き上げてふんっと鼻を鳴らした。
「気が変わった。上のコーヒーショップにはいかない。今ここでさっさと用件を話してさっさと帰ってくれ」
「こんな寒い中で??冗談じゃないわ」
「なら、今すぐ帰れよ。寒いのは俺だって同じだ」
固く引き結ばれたサスキアの唇から、微かにカタカタと奥歯が鳴る音が漏れてくる。吐き出される息は小刻みに震える身体に合わせ、空中で揺れている。フレッドはサスキアの顔ではなく、夜気に溶け込んでいく白い息を見つめていた。
店の前を行き交う人々が通りすぎ様、好奇の視線を二人に投げかけてくる。
双方無言の睨み合いはしばらく続いたが、寒さに耐え切れなくなったのか、サスキアの方が先に口を開いた。
(3)
以下がサスキアの談だ。
アビゲイルはオールドマン家から出て行った一年程後にマクダウェル氏との間にサスキアを儲けた。同時期にチェスターとの離婚が成立。半年後にマクダウェル氏と再婚し、アビゲイルの夢は果たされた――、筈だった。労働者階級出身で上流の家に嫁ぐことを、アビゲイルは余りに甘く見過ぎていた。
言葉遣いの矯正、作法の細かい違いを上手く覚えられない上に、『夫と子供がいたのに、病弱な妻の髪結いを口実にその夫をたらし込んだ。あげく、妻亡き後にあっさり家庭を捨てた、したたかでふしだらな女』だと、マクダウェル氏の親族、友人知人、仕事関係者、屋敷の使用人達にまで非難され、徹底して冷たく当たられ続けたのだ。
マクダウェル氏も始めのうちはアビゲイルを庇い立てては励まし続けていたが、いつまで経っても上流の生活に馴染めない彼女を次第に持てあますようになり、サスキアが物心つく頃には夫婦仲は完全に破綻していたという。いつしかナンシーとの不倫関係も始まっていた。
「母は……、日を追うごとに心を病んでいったの……。未だに私にこう言ってくるのよ。『オールドマン家に帰りたい。チェスターやアルフレッド、マシューと暮らしていた頃に戻りたい』って……。一度だけ、母は屋敷を抜け出してオールドマン家の近くまで一人で戻ったことがあるの」
しかし、オールドマン家に辿り着く前に連れ戻され、その車中でチェスターの再婚を知らされた。
「……その日を境に、母は完全に壊れてしまった。『チェスターだけはずっと私の味方だと思ってたのに……、裏切られた、酷い』『あの女さえいなければ、私はオールドマン家に戻ってこれたのに』『サスキアさえ生まれてこなければ、すぐにオールドマン家に帰れたのに。サスキアさえいなければ、私はこんな所に閉じ込められずにすんだのに』こんな言葉ばかり繰り返すようになった。世間体を気にした父は秘密裏に母を精神病院の施設に入所させたけど、ろくに面会にも行かないから母の症状は年々酷くなる一方。最近じゃ、ナンシー・アレンが母との離婚と、自分との結婚をしつこく父に迫っているみたい。ううん、それだけじゃないわ、
「まだあるのかよ」
「話は最後まで聞いて。一度でいいから母に会って欲しい」
高慢さをかなぐり捨て、真摯な口調でサスキアはフレッドに縋った。鼻先が赤いのは寒さのせいだけじゃないだろう。サスキアを見下ろすフレッドの目は依然褪めたままだったが。
「アビゲイルが俺と会いさえすれば正気に戻る、とでも思ってるのか??甘いな」
「戻るとまでは思っていないわ。ただ、もしかしたら、症状が多少はマシにはなるかもしれないって……。母は、貴方とマシュー・オールドマンを捨てたことに対して良心の呵責を感じてるのよ」
「要は、俺とマシューに
サスキアはフレッドとよく似た美しい顔を歪ませていく。全身の震えが激しくなったのもまた、寒さのせいだけじゃないだろう。
「あと、俺の
「もういい!!」
泣き声に近い金切り声が闇を裂き、冷気を震わせる。怒りをぶつけるように固く冷たいアスファルトを蹴立てて、サスキアは地味で古臭いロングコートの裾を翻す。
憤然と去りゆく背中を見送りもせず、フレッドは再び店内へと戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます