第44話 アバウト・ア・ガール(11)

(1)


 昨今の異常気象の影響か、八月の後半に差し掛かっても暑い日が続いていた。

 例年では、夏が終わり初秋に近づくこの時期、長袖を着用するのだが。今日は長袖どころか五分袖のオックスフォードシャツですら暑かった。


 平日昼過ぎ。むわりと熱気が籠る地下鉄の車両内にはフレッドの他に、夏季休暇中の学生と思しき若者数人が乗っているだけ。彼らの服装もまた、長袖だったり半袖Tシャツだったりとまちまちだ。

 自宅最寄駅から目的地の駅まで左程時間がかからない。吊革に掴まりながら、ひょっとして彼らと同じ場所に向かっているかもしれない、などと考えている内に、アナウンスが目的地の駅名を告げたので扉の前に移動する。

 フレッドの予想通り、同じ車両にいた若者全員が彼に続いて同じ駅で降りていく。


 改札を抜けて出口に続く階段を上がっていくと、出口を囲む黒い鉄柵が見えてくる。

 出口から歩いて三〇秒もかからない目と鼻の先といっていい場所には、羽を大きく広げて矢を番える天使のブロンズ像と噴水、その周辺には待ち合わせするために多くの人々が集まっていた。靴底からアスファルトの熱が伝わってくるのを感じながら、エイミーに到着したとLINEメッセージを送る。

 ブロンズ像前でごった返す人・人・人の中に赤い髪の小柄な若い女性がいないか、きょろきょろと視線を巡らせていると、握りしめていたスマートフォンがブー、ブーッと震えだした。


「はい」

『おはよ、もう着いたの??』

「あぁ。どこら辺にいる??」

『えっと、エロス像の矢尻が上向いているとこの真下??』

「……わかるような、わからんような」

『あ、やっぱり』

「服はどんな感じなんだ??」

『ブルーグリーンの小花柄ワンピースよ。フレッドさんは??』

「ダークグレーのシャツで、白のスリムパンツを穿いている」

『ん、わかった』


 服装を伝え合ったことで、電話を切ってから三分と経たずにフレッドとエイミーは互いの姿を無事に発見できた。そして二人は待ち合わせ場所から程近い映画館に向かった。





『遅めの夏季休暇を取ったから映画でも一緒に観に行かないか』

『確か、もうすぐエイミーが好きな小説の映画が封切られるって聞いたし』


 ブノワの一件が落ち着いた頃、フレッドは思いきってエイミーをデートに誘ってみた。

 好意を示された途端に引いてしまう彼女だから断られるかもな、と、余り期待せずにいたのだが――


『お誘いありがとう、嬉しいです。ぜひ行きましょう!火曜日なら終日空いています』


 意外にも乗り気な返事に少々驚きつつ、待ち合わせ場所と時間を決めて――、今に至る。


 彼女と会いたければ今まで通りバブーシュカに行けばいいだけの話だし、実際、あれからバブーシュカにも何度か足を運んでいる。 

 でも、それはあくまでライブ出演者、お客と、一従業員という一定の距離が置かれた関係でしかないし、音楽を通じての交流が主となる店ではむしろそうあるべきだ。

 フレッドが会いたいのは一従業員の彼女ではなく、一人の女性として会いたいし向き合いたかった。







(2)


「原作のイメージ崩れないか心配だったけど、想像以上に良かったね!」


 シャンパンゴールドの光を発した電球が低い天井から幾つも吊り下げられた階段で、やや興奮気味のエイミーの声が反響する。

 平日昼間の時間帯に加え、二人が観た作品は「知る人ぞ知る話題作」で劇場の観客もまばらで少なかったが、お蔭で二時間弱しっかり映画鑑賞に集中できた。


「映画化を渋る原作者を制作陣が猛説得したとか、主役の女優も『細身の男装美少女』の役柄に合わせて20ポンド以上減量したとかいう話だしな」

「ね、凄いよね!あの女優さん、演技は良いけどグラマーな印象だったからイメージじゃないって思ってたのに、しっかり役になりきってて。仕事のためとはいえ大幅なダイエットに成功するとか私には無理だなぁ」

「別に太ってるわけじゃないし、あんたは痩せる必要ないんじゃないか」

「うーん、まぁ、そうなんだけど……、あっ」

 話に夢中になり過ぎて階段を上ってくる人にぶつかりかけたエイミーの手を取り、引き寄せる。

「……ったく、危なっかしい」

「はい、すみません……」


 エイミーが俯いたのはフレッドに注意されたせいだけじゃない。さりげなく手を握られ、恥ずかしさが込み上げたからだろう。

 別段嫌がっている訳じゃなさそうなので、振り払われない限りこのままで離さないでおくつもりだ。

 エイミーが黙って俯いていたのは最初の内だけで、一階まで下りて映画館の外に出る頃にはまた二人で映画の感想を言い合っていた。


「映画化するなら薬屋店主の過去話が一番いいと思ってたし、銃撃シーンとかウォルター・ケイン邸脱出は迫力あったな」

「原作読んでるから結末分かってるけど、それでもハラハラさせられたよね……って、フレッドさんもあのシリーズ好きなの?!」

「あぁ、まぁ……、エイミー程ハマッてないけど、何だかんだ全作読んでるぞ」

「そっかぁ。あ、私ね、映画版で一つだけ不満があって……、ハルさんの配役だけは納得できないの!チャラすぎるもの!!私の中ではジョ〇ー・〇ップが良かったのに!!」

「あぁ……、まぁ、わからんでもないが……、ハル役が〇ョニー・デ〇プだとちょっと、いや、だいぶ年齢が厳しくないか??一〇年ぐらい前ならまだいけたかもしれんが。というより、あんたがジョ〇ー・〇ップ好きなだけだろ」

「う、バレた……」

「あと映画の話もいいけど、この後はどうする??遅めの昼でも食べに行くか??この辺りには色々レストランとかカフェもあるし、少し歩けばチャイニーズタウンもあるから、そこに行ってもいいし」

「うーん……」


 繋いだ手はそのままに交差点で信号待ちする人の邪魔にならないよう、二人は建物の外壁に寄って立ち止まる。

 エイミーは頭上を仰ぎ、雲間からうっすらと覗く空の色を確かめた後、こう切り出した。


「北に向かって一駅分歩いた先に、国立美術館と教会を囲む広場があるでしょ??今日は天気も良いし、どこかでテイクアウトしたものをそこで一緒に食べたいなって思うの。屋外でも木陰なら涼しいだろうし……、ダメかな??」

「全然。たまにはそういう気軽なのもいいんじゃないか」

 上目遣いで反応を窺うエイミーに、フレッドはフッと軽く笑ってみせる。

「一駅分なら散歩と思えば大したことないし、広場に行く途中のコンビニとかで何かしら売ってるだろ」


 曇った空から降り注ぐ陽射しが肌を照りつけるのも構わず、散歩と称して広場へ向かう。

 これが一人であれば暑さに負けて行く気など失せるし、そもそも一人で行こうなどとは考えもしない。彼女と一緒なら、彼女と一緒だから。

 繋いだ掌から伝わる温もりが愛おしくて、まだ手放したくなくて。

 少しだけ、ほんの少しだけ強く握り直した。


 広場に近づくにつれ、石畳の歩道沿いに並ぶ建物はコンクリートのビルから伝統的な赤や黄色の煉瓦造りのものへと変化していく。

 どこか懐かしさと情緒を感じさせるこの区画では老舗のカフェやアンティークショップ等が軒を連ねており、その中の一軒には『安くて早くて旨い』と評判のベーグルショップがあった。

 年季の入った手押し扉を開けて入店すると、ガラス製のカウンター兼商品ケースの上にも中にも様々な種類のベーグルサンドやパン、ケーキが並んでいる。

 カウンターに立つ女性店員が早口の下町訛で注文を伺ってきたので、「スモークサーモンとクリームチーズのベーグルサンドを二つ。テイクアウェーで」と言うが早いか、即座にガラスケースから注文の品を紙袋に突っ込んで合計金額を告げてきた。

 店員の動きにつられて会計を手早く済ませると早々に退店、数軒先のコンビニエンスストアでミネラルウォーターのペットボトルを二本購入し、再び二人は広場に向かって歩き出す。

 更に五分程歩くと、見上げる程の高さを誇るアーチ形の石門が見えてくる。


「どうした??」


 石門の手前まで来たところでエイミーがふと足を止め、ある一点を注視していた。

 立ち止まってエイミーの視線の先を辿ってみれば、ショッキングピンクの塗装にポップな字体で『ICE CREAM、COLD DRINK』と描かれた移動販売車が石門の左端に止まっていた。


「もしかして、アイスが食べたいとか」

「え、うん……。買ってくるからちょっと待っててくれない??……って、わっ!待って待って!!」

 手を繋いでいるのをいいことに、エイミーを半ば引きずる形でアイスクリーム販売車の真ん前へと連れて行く。

「映画のチケット代とか払ってもらってるし、これはさすがに自分で払う……」

「いらっしゃい!どれにしますぅ??」


 にこやかに頬笑む女性販売員が差し出してきたメニュー表を受け取り、「ん」とエイミーに手渡す。

 エイミーはメニュー表に記されたアイスの種類をざっと確認すると、隣に立つフレッドに横目で『本当に、いいの。?』と言いたげな視線をちらと送った。

『何でもいいから、決まり次第さっさと注文しろよ』と一瞥すれば、色違いの目がもの言いたげに見つめてきたが、やがて観念(?)したのか、「じゃあ、ミントチョコで……」となぜか声を落として注文を告げる。


 アイスクリームコーンを右手にエイミーはおずおずと礼を述べ、左手は変わらずフレッドの右手と繋いだままで石門を潜り、広場へ続いていく大階段をゆっくり下りていく。

 暑さですぐ溶けてしまうからと、コーンの上に鎮座したミントグリーンのアイスをちろちろと舐めるエイミーの小さく赤い舌先や少し濡れた唇がやけに色っぽく見える。

 普段は幼い印象が強いのに、と、思わぬ表情に内心戸惑いつつ、広場の中心に位置する噴水まで歩いていく。


 五分程して辿り着いた噴水の周囲にはライオンや人魚、水瓶を模したブロンズ像が設置され、何人かの子供達が中に入って水遊びを楽しんでいる。

 賑やかな声が曇り空に響く中、二人は噴水のへりに腰を下ろし、買ってきたベーグルを食べたり(エイミーはアイスを食べた後なのにベーグルもペロッと平らげたため、フレッドをひどく呆れさせた)、とりとめのないお喋りに興じていた。


「あの噴水は何時までなのかな」

「夜間は電飾が灯されるから、ひょっとしたら二十四時間ずっと、かもしれない」

「イルミネーションかぁ、一度見てみたいな」

「夜は行かない方がいいと思う。この辺は夜になると一気に治安が悪くなるし」

「そっかぁ。残念だけど仕方ないよね。最近は、爆破テロとか移民問題に関するデモとか物騒な事件も増えてきてるもんね……」


 ブノワにストーキングされたあげく、部屋に侵入されかけたのも充分物騒ではないだろうか。

 以前から疑問、というより、ひそかに気になっていることを尋ねてみる。


「地元に帰りたいとか思うことはないのか」


 フレッドの何気ない質問にエイミーの笑顔がスッと消え失せた。

 ひどく醒めきった眼差しでサンダルからはみ出た爪先を、オレンジ色のペティギュアを見つめながら静かに、はっきりと答える。


「それは一切思わないかな」

「…………」

 吐き捨てるような口調に、一瞬背中に寒いものが通り抜けていく感覚を覚える。

「この街には私にとって大事な場所や大事な人達が、そんなに沢山ではないけど確かに存在するんだけど。地元に私の居場所なんて一つもないし会いたい人も別にいないから……って、ごめん、こんな話つまらないからやめ……」

「つまらなくなんてないし、むしろ続けて欲しい」


 途中でふと我に返り、無理矢理唇の端を引き上げて話を中断したエイミーを遮ってフレッドは話の続きを促す。

 予想外の反応だったらしく、顔を上げたエイミーはフレッドの顔を穴が空きそうな勢いで凝視した。


「話したくないなら無理にとは言わないが……、聞かせてくれないか」

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