第43話 アバウト・ア・ガール(10)

(1)


 駆け付けた警察官達によってブノワは警察署へと連行されていく。けたたましいサイレンと共に遠ざかる警察車両を見送る間に、アパート周辺に野次馬達が続々と集まっていた。

 残った女性警察官とエントランスのインターホンを押すと、ほとんど声にならないかぼそい声で『……どう、ぞ……』とだけ返ってきた。急いで自動ドアを潜り、ベージュのモザイクタイル壁と白大理石の床のロビーを抜け、奥の階段を駆け上がる。

 二階の外廊下に出ると、浅く開いた状態の玄関扉の足元でエイミーがぐったりと蹲っていた。慌てて傍に駆け寄り、肩から抱き起そうとして、衣服越しに伝わってくる肌の熱さにぎょっとなる。

 エイミーの顔は紅潮しきっていて、色違いの目も茫洋と焦点が定まっていない。額は汗ばみ、肩を大きく上下させる程に呼気が乱れている。

 ブノワがいなくなり、恐怖心や過度の緊張状態から解放されたことで気が抜け、一気に熱が上がってしまったのか。フレッドはエイミーを抱き起すと、女性警官との二人かかりで彼女の肩を担ぎ、部屋へと運ぶ。

 狭い玄関を抜けてキッチンの流し台と隣に並ぶ冷蔵庫の前を通り過ぎ、玄関から左奥にあるベッドにエイミーをそっと横たわらせる。ヘッドボードの裏はサッシ窓になっていて、薄いレースのカーテン越しに漏れる西日で頬の赤みが益々色濃くなる。


「体調が悪いところにあんな目に遭って、さぞ恐ろしかったでしょうに」

 同じ女性として同情の念を抱いたのだろう。女性警官はベッドに横たわるエイミーを心底労わるような目で見下ろした後、枕元に佇むフレッドへと視線を移す。

「今日の所は、彼女に付き添ってあげてくださいね」

「え……、聴取とかは」

「事情聴取はまた後日で、近いうちに彼女と署の方へ来てもらえれば結構ですよ。どのみち、この様子では聴取どころじゃないですし」

 女性警官の言葉にホッと胸を撫で下ろしていると、ふわふわと柔らかなものが足元で蠢く気配を感じ取った。長毛にしては中途半端な長さの黒い被毛に覆われた猫を見て、女性警官の頬が僅かに緩む。

「怖くて物陰に隠れていたのかしら??飼い主さんが無事で良かったわね」


 猫はフレッド達を見上げながら返事でもするかのように、にゃあーんと鳴いた。

『猫を飼うなら絶対黒猫にするって決めてたの。近頃ね、写真写りが悪くてSNS映えしないからって理由で捨てられる黒猫がかなり多いらしくて……。ヴィヴィアンも保護猫の活動している人から譲り受けたのよ』

 スマートホンで猫の画像を見せる度、『写真では分かりづらいけど、本当はもっと可愛い顔しているのよ!』とエイミーが力説するのを親バカだと揶揄っていたが、クリクリと大きな琥珀色の丸い瞳といい、笑みを湛えているような形の口許といい、写真で見るよりもずっと愛嬌ある顔をしている。

 心なしか猫を構いたそうにしつつ、女性警官は自身の名前と所属する課をフレッドに教えると速やかに去っていった。


 エイミーが心配で残ってはみたけれど、何をすればいいのか。

 手持ち無沙汰を持て余し、とりあえずカーテンを閉めて電気をつける。ベッドと反対側の壁際に寄せたキーボードセットからキーボードベンチを持ってきて、ベッドサイドに置いて腰を下ろす。

 時折咳き込むものの、眠りについたお蔭か、エイミーの呼吸は随分と落ち着いたし、汗も治まってきたようだ。

 湿り気を帯びた前髪の乱れを直してやりながら、そっと額を撫でる。

 熱で火照った額を冷やさなければ、と、目につく場所にタオルやハンカチらしきものがないか。ぐるりと視線を巡らせて、椅子から立ち上がりかけたフレッドの右手をエイミーの指先が弱々しく握りしめてきた。


「…………いかないで…………」


 半分意識が朦朧としているのか、やけに舌足らずな口調、涙目で懇願する様は、親に叱られた子供が懸命に許しを乞うようだった。

 握られた指先を振り払うこともできず、ひどく戸惑いながらフレッドは再びキーボードベンチに腰を下ろす。エイミーはフレッドの手から指先を離すと、身体をふらつかせて起き上がろうとする。


「エイミー、無理して起きなくても。いいから寝て……」


 いいから寝てろ、と、起き上がりかけているエイミーを寝かそうと中腰で身を乗り出したフレッドは思わず言葉を失った。


「…………ひとりに、しない、で…………」

「…………」


 フレッドの胸に縋りつくエイミーの小さな身体は小刻みに震えていた。

 堪らなくなって背に腕を回し、壊れ物を扱うように抱きしめる。

 柔らかな赤毛に顔を埋めていると、次第にシャツの胸元が濡れてきて冷たくなっていく。腕に力を込め、咳き込む度に背中を優しく撫でさすってやる。

 彼女の痛みや苦しみを代わることはできない。できないけれど。背を撫でるごとにほんの少しでも傷が癒えてくれればいいのに、と強く願いながら。











(2)


 警察に連行されたブノワは当初、『インターホン鳴らした時は普通に通してくれたんだし、別に不法に侵入した訳じゃないんですけどー??』と容疑を否認していたが、取り調べが進むにつれてエイミーへのストーカー行為を密かに続け、彼女に近づく機会を窺っていたことを認めた。


 エイミーがバブーシュカから帰宅する時間(深夜十一時~十二時頃)、アパートの物陰に隠れて帰宅するのを待ち伏せしたり、バブーシュカ定休日(火曜日とライブが入っていない日曜日)の内、確実な休日にあたる火曜日には自分の仕事が終わり次第、アパート周辺をうろついたり。

 だが、仕事から帰宅する際は必ずゲイリーが付き添い、火曜日はフレッドと外食に出掛ける姿に予防線を張られている、と気付いた。

 しかし、それでブノワが諦める訳でもなく。逆に、しばらくは行動せずに沈黙を貫き、諦めたと思わせて警戒が薄れた頃にエイミーに接触しよう、と決めた。

 そこからは彼にとって予想以上の忍耐を強いられたけれど。どうせ二か月くらい音沙汰なくせば、安心してフレッドとゲイリーの警戒も解けるだろうと、タカをくくっていたのに。二か月を過ぎても二人の警戒が緩むことはなかった。


 さっさと諦めるべきところだが、邪魔や妨害が入ることでエイミーへの執着心は深まっていくし、フレッドの鼻を明かしてやりたい気持ちも強まっていく。

 エイミーを奪われた時、あのムカつく程綺麗に整った顔がどう歪むのか、想像するだけで痛快だ。


 二カ月を過ぎた頃から、ブノワは火曜日だけでなく他の曜日(夕方や夜でも人通りが多くなる週末を除いて)にもアパート周辺をうろつき始め、時にはインターホンを押してエイミーの在宅の有無を確認し出すようになった。もしかしたら、急に仕事を休む日だってあるかもしれないから、と。

 ちょうど先週で自分の仕事も半年の契約期間を満了し、次の派遣先が決まるまで暇だし――、と、その日、いつもより早い時間にエイミーのアパートへ向かい、インターホンを鳴らした。

 すると、ヘリウムガスでも吸ったような酷い声で咳き込むエイミーの声が返ってきたのだ。咄嗟にフレッドの口調を真似してみせる。

 体調が悪いせいで判断力が鈍っていたのと、メアリからフレッドが見舞いに行くと知らされていたのとで、エイミーはブノワの侵入を許してしまったのだった。


 その後、ブノワの自白とフレッドが撮影した写真に加え、エイミーが保存していたメールやSNSのメッセージ、更にはつきまとい行為を受けた時の日時、内容を書き綴ったノートが証拠となり、最終的にブノワは住居侵入罪、嫌がらせ行為防止法違反の罪で三〇日間の服役、エイミーへの接近禁止令の判決が下された。(服役後の接近禁止令を守らなければ、次の服役期間は八カ月間に延長される)



 ストーカーに怯える日々に終止符が打たれた一方、エイミーとフレッドが二人きりで会う理由もなくなる――、筈だった。

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