第39話 アバウト・ア・ガール(6)
(1)
打ちっ放しのコンクリート壁に掲げられた赤・白・緑の国旗が、調理場から流れてくる熱気で揺れる。天井から等間隔に吊り下がる、カンテラ風の照明が各テーブルを照らし、フロア全体に濃厚なチーズとほのかなワインの香りが漂う。
四人掛けテーブルの片側(もう片側には先客がいた)で、フレッドとエイミーはボルドーワインを飲みながら、今日起きた出来事で印象に残ったこと、最近読んだ本、二人共に好きなミュージシャンの新譜についてなど、とりとめのない会話をしていた。
お互いに決してお喋りな質ではないので会話がぽんぽん弾む、という訳ではないが、不思議と途切れることはなかったし、会話が途切れて沈黙が訪れたとしても気まずさは微塵にも感じない。丁度今も、一つの話題が終わって短い沈黙が訪れ、一息つくためにエイミーがグラスを口許へと運ぶ。にっこりと頬を緩めてワインを飲む様子に、こちらまでつられて表情が綻んでいくような、気になっていく。
「ん、何??」
「いや……、本当に嬉しそうに飲むなぁ、と思って」
「え、そうかな」
照れ笑いしながらエイミーがグラスを机上に置くと折り良く、注文した料理――、モッツアレラチーズと真っ赤なトマトソースの海に、シュリンプ、イカ、ムール貝が浮かぶシーフードピザ、トマトとタコのマリネが運ばれてきた。
美味しそう、と、エイミーが目を輝かせる間に、フレッドはピザカッターで生地に切込みを入れ始める。マリネを小皿に取り分けがてら、エイミーは感心したようにフレッドの慣れた手つきを眺めていた。
「フレッドさん、ピザカッター使うのが上手いね」
「上手いというか単純に慣れだな。俺以外の家族がピザを切るのが下手くそで、うちでピザを食べる時とか必ず俺がピザカッター握らされてたんだ。一度、子供にいつもやらせる訳にいかないって父親が切ろうとしたんだが……、見事に芸術的な形になっちまって。それを見た
「お父さん、お気の毒さまだわ……」
「いや、あれは母親が激怒しても仕方なかったな……、ってくらい、散々な切り方で。ちょっと言葉だけじゃ説明し辛い程の代物だった……。後で、何かの紙に描いてやるよ」
「あはは、楽しみね」
マリネとは別の小皿に乗せたピザにかじりつく。
熱々のチーズがどろっと舌上で蕩け、トマトソースと共に咥内に拡がっていく。
シュリンプとイカのぷりっとした食感もゆっくり味わっていれば、エイミーはフーフーと何度かピザに息を吹きかけてはちまちまと食べていた。
食べながら話すのが苦手なのか、食事中のエイミーは無言になるため、ピザを一切れ食べ終わるのを見計らってから話しかける。
「エイミーは食べ方がきれいだよな」
「え?」
「皿に食べ零しが残らないし、姿勢も真っ直ぐ保っている。無暗に音も立てないし、スプーンやフォークを使う所作もきれいだと思う」
「…………」
いつものエイミーならば、はにかんで礼を言う筈なのに。
今日のエイミーは眉尻を下げて困ったように、曖昧に微笑んでいるだけであった。余計なことを言ってしまっただろうか。
「あ、違うの、違うのよ。褒めてもらえたこと自体は嬉しいの。ただ、食べ方を褒められたのは初めてで……」
フレッドの心中の不安を感じ取ったのか、エイミーが慌てて弁解を述べてきた。
「母がね……。食事作法に……、食事作法以外に関してもだけど……、すごく厳しくて。食事の際の姿勢からスプーンやフォークの上げ下ろしの高さ、角度まで徹底的に指導されたのよ」
「なるほど。厳しくともしっかりしたお母さんだったんだな」
「世間から見れば、そうかもね」
今まで聞いたことのない、エイミーの怜悧な声に一瞬耳を疑う。
顔は変わらず曖昧な微笑みを張り付けているだけに、表情と声の落差にフレッドは大いに戸惑ったが、次の瞬間にはもう、いつも通りの彼女に戻っていた。
「ね、ピザも美味しいけどマリネも美味しいよ。フレッドさん、まだ手を付けてないでしょ??食べてみたら??」
「……あ、あぁ」
勧められるままにマリネを一口食べてみる。バルサミコ酢がたっぷり沁み込んだ完熟トマトの程良い甘さ、コリっとしたタコの歯応えを味わっている内に戸惑いや違和感は徐々に薄れていく。
再び二人の間に沈黙が降りる中、相席で座っていた女性達が食事を終えて席を立った。女性達は立ち上がり様にフレッドとエイミーをチラチラと盗み見し、ひそひそと話ながら離席する。
『ねぇ、隣に座ってた人、すっごく格好良かったね』
『うんうん!下手な俳優やモデルよりもよっぽど整った顔してたよね。何て言うか、線が細くてちょっと陰のある美形??って感じ??』
『あーー、分かる気がする!それより、一緒に座ってた女の子は彼女かなぁ?』
『そうじゃない??うーん、女連れじゃなければ声かけたのになぁ』
声を潜めていたつもりだろうが、彼女達の会話は全てフレッドに筒抜けだった。エイミーにも一部始終が聞こえていたようで、互いに顔を見合わせて苦笑し合う。
「……まぁ、男女が二人きりで食事をしていたら、ほとんどの人間は夫婦か恋人同士だと思うだろう。気にするなよ」
「あはは……、うん、分かってるし、全然気にしてないから大丈夫」
「ならいいけど」
軽く肩を竦めて笑ってみせると、エイミーは急には真面目な顔付きでこう漏らした。
「フレッドさんは折角きれいな顔してるんだから、今みたいにいつも笑ってたら……、もっと素敵だと思うんだけど」
「確かにそうかもな。容姿に関しては人並み以上だと自分でも思うし」
「……わぁ、それ、自分で言っちゃうんだ……」
唖然とするエイミーに構わず、フレッドは更に続ける。
「生まれた時から、やれ美形だの綺麗な顔立ちだと散々言われ続けているし、道を歩けば大半の人間が俺を見て振り返るんだから、嫌でも自覚せざるを得ないだろ??ただし……、俺自身はこの容姿を気に入っていない。この顔を鏡で見る度、自分にはあの男と同じ血が流れていることを感じずにはいられないから……」
直後、フレッドはハッと我に返り、口元を抑えて恐る恐るエイミーの様子を横目に伺う。彼女も彼女で聞いてはいけない話を聞いてしまったとばかりに、色違いの目をぱちぱちと瞬かせ、気まずそうに俯いた。
「……いや、その……。……すまない、今の発言は聞かなかったことにしてくれないか……」
「……わかった……」
とは言ったものの、一瞬にして重くなった空気を上手く切り替えるような明るさ、巧みな話術を、フレッドもエイミーも持ち合わせていない。双方共に口数が決して多くない
しかし、聞かなかったことにして欲しいと言った癖に、フレッドはエイミーに全てを打ち明けたいと言う衝動に駆られてもいた。理由は不明だが、エイミーに自身の身の上を聞いてもらいたかった。
誰かに対してこんな気持ちになったのは、かつて付き合っていたナンシー以来だ。しかもエイミーは恋人でも何でもない、ただの異性の友人と言うだけの関係なのに。
フレッドはしばらくの間迷っていたが、意を決してこじ開けるように重い口を開いた。
「やっぱり……、エイミーには話そうと思う」
(2)
フレッドは、自身の生い立ちや実の両親の存在、今の家族との繋がりについて、訥々とエイミーに語って聞かせた。時間としては五分、一〇分程度の短いものだっただろうが、ひどく長い時間語り続けていたような気がする。
それだけこの打ち明け話をすることは、酷く苦しい作業だと――、無理矢理固い蓋で押し込めた上で、何重にも鍵をかけて閉じ込めた辛い記憶を、力ずくで引っ張り出すような――、改めて感じさせられたのだった。
エイミーは相槌一つ打たずに黙ってフレッドの話に真剣に耳を傾けてくれていた。
やがて、フレッドが語り終えると何度目かの沈黙の後、エイミーが遠慮がちに言葉を発した。
「…………こういう時に気が利いた言葉が何一つ思い浮かばなくて、すごく申し訳ないんだけど…………。……でも、その場しのぎの下手な気休めの言葉とか半端な同情とか、貴方のことだからきっと求めていない気がして……。そう思うと、何も言わずにただ事実をありのまま受け止めるだけの方がいいのかな……って。ごめん、私、言ってること意味不明すぎよね……」
「……いや、あんたが言わんとしていることは何となく分かるよ。俺はただ話を聞いて欲しかっただけだし、それでいいんだ。本当にありがとう」
フレッドはエイミーに向けて軽く頭を下げてみせた。
エイミーが彼の気持ちを汲んで、あえて何も言わないでいてくれたことが思いの外嬉しかったし、彼女が言うように、フレッドは同情や憐れみを受けることが何よりも嫌っていたからだ。
私生児として生まれたこと、チェスターと血の繋がりがないこと。マシューとは半分しか血が繋がっていないこと、アビゲイルに捨てられたこと。ジルと一回りしか年齢が違わないのに母と呼ばなければならないこと。
年を追うごとに複雑になっていく家庭環境に対し、「可哀想」の一言に乗せて一方的な同情心を勝手に押し付けられる度に、「何も知らない癖に」と激しい苛立ちと反発を覚えていた。だが、それを理解出来る者はそうそういる筈ない、というのも理解しているので、あえて口に出すことはなかったが――、エイミーは不器用なりにフレッドを真に理解しようとしてくれている。
「あの……」
「あ??あぁ……、悪い、少し考え事をしていた」
自分が更に空気を重たくしてしまったと責任を感じたフレッドは、話題を変えることにした。
「ところで話は全く変わるんだが……。来月下旬の土曜に、バブーシュカでエイミー主催の企画ライブやるんだってな??」
唐突に話題が変わりすぎたせいか、エイミーは「……へっ??」と間の抜けた返事をしたが、すぐに「うん、そうだけど……」と答えた。
「主催って言っても、個人的に好きな演者さん数人に声かけて出演してもらうだけで、私は出ないけどね」
「何だ、あんたは出ないのか」
「あー……、うん……」
エイミーは視線を明後日の方向に向け、残り少なくなったグラスを無造作に転がす。
「企画するからには、てっきりあんたも出演するものかと」
「まさかまさか!私は、ほら、遊び程度にしかピアノ弾き語らないし、ちゃんとしたライブの枠で演奏する程じゃないもの」
「出演者全員の演奏の後、最後に一曲だけ、とかも有りなんじゃないか」
「その最後の一曲でそれまでの雰囲気ぶち壊しそう……」
「あのな……、前も言ったと思うけど、あんたの演奏力、歌唱力なら人前でやるのに何の問題もないぜ??折角の機会なんだし、やってみればいいじゃないか」
フレッドの助言にエイミーは、「……うん、ちょっと、考えてみる……」と神妙に頷いた。そこで互いのグラスが空になり、たまたまウェイトレスが席の横を通りがかったのでグラスを差し出しがてら二杯目のワインを注文する。
「あ、そうだ!ね、フレッドさん。もし、企画ライブの日の夜が空いてるようだったら……、まだ枠が一つ空いているし、ブラックシープかフレッドさんのソロで出演してもらいたいんですけど……!」
「ぜひ出演させてもらいたい、と言いたいところなんだが……、その日はすでに別の場所でライブが入ってるんだ」
申し訳なさそうにエイミーに断りを入れると、「そっか。じゃあ仕方ないよね」とあっさりとした口調で返されたが、口調とは裏腹に、寂しそうに笑う姿にほんの少しだけ、チクリと針で刺すような痛みを胸の奥に感じた。近頃、彼女のこういう表情を見る度になぜだか胸が痛む。
「こっちの出番が早ければ途中で抜けて観に行くし、ライブには間に合わなくてもバブーシュカに顔を出すだけ出そうか??」
まただ。
普段のフレッドなら決して言わない言葉が口をついて出てくる。
エイミーと接しているとどうも調子が狂ってしまう。
「本当?!」
「とはいえ、あくまで行けたらの話だ。俺は次の日も仕事があるし、余りに遅くなるようだったらそのまま家に帰るつもりだから確約はできないぞ??」
「それでも全然良いよ」
戻ってきたウェイトレスから二杯目のグラスワインを受け取るエイミーの、輝かんばかりの笑顔がフレッドの目に眩しく映る。
エイミーの表情一つで自らも一喜一憂していることに、フレッドはまだ気がついていなかった。
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