第40話 アバウト・ア・ガール(7)
(1)
湾曲した低い天井、色褪せた赤煉瓦造りの空間はまるで洞窟のようだった。
ギラギラとした照明の強い輝きが薄闇を、客席でビール瓶片手に踊る人々を、最奥のステージを照らしだす。
ステージの両端から伸びる、二本の真っ赤な太い支柱にはこれまで出演したバンドのステッカーがびっしりと貼り付けられ、僅かな隙間を埋めるかのように所々落書きが書かれている。
ステージ後方、ドラムセットよりも更に奥は、煉瓦や支柱よりも深い赤色のカーテンで閉めきられている。
赤に支配された世界で黒いモッズスーツ姿の男達――、フレッド、エド、リュシアンが演奏していた。
一音一音に重みとキレのあるドラム、歌うようなベース、荒々しく引っ掻き鳴らされるギター。尖りきった粗野な歌声でワンフレーズ歌い終わると同時に、曲に疾走感が加わり、そのままアウトロまで一気に駆け抜けていく。
激しい曲を続けざまに演奏するフレッドの歌声とギターの荒々しさは増していき、彼の隣ではリュシアンが実に楽しそうに小さな身体をピョンピョン跳ねながら軽快にベースの弦を弾(はじ)き、エドも笑顔を交えながら力強くドラムを叩いていた。
曲数が進むにつれて客席からの歓声が大きくなっていく中、中盤のバラードでは淡々とした三拍子のリズムに沿って、フレッドはアルペジオを弾きながら歌う。
静けさの中に悲しみや、僅かばかりの狂気を孕ませながら。
ライブ後半から最後にかけては再び激しい曲を続け、疾風怒濤のごとく突っ走っていく。まるで、何人たろうと彼らに追従することを一切許さない、と言わんばかりに――
(2)
「久しぶりね、今夜のギグも良かったわ」
出番が終了し、機材をエドの
「来ていたのか」
「たまたま、ね。たまたま、私が今追っ掛けてる若手バンドを観に来たら、偶然ブラックシープが共演者でちょっとラッキーだったわ。やっぱりブラックシープと比べると、まだまだあのバンドは未熟ね」
「あんたが今お熱なのはフランクがギター弾いてたバンドか。そりゃ、まだ二十歳そこそこの若手を、俺達みたいに場数だけは踏み慣れてるオッサンバンドと一緒にしちゃ気の毒だろうよ」
「そうかしら??」
「あぁ、そう思うね。だから、俺にわざわざ油売りにくるより、あっちのバンドを応援してやれよ。どうせ、あんた、あの中の誰かと付き合ってるかしてるんだろ」
咥えていた煙草を指先に挟み、ちょいちょいと軽く左右に振ってみせる。
一人にして欲しいから向こうへ行け、と遠回しに示したつもりだが、シエナはこの場から離れようとしない。
「あら、今日は一段と冷たい反応」
シエナは、ぽってりとした唇をわざと窄めて拗ねみせる。
他の男はどう思うか知らないが、少なくともフレッドにはあざとさが鼻につくばかりでちっとも可愛らしいとは思わない。
「えぇ、確かに、二週間くらい前からフランクと付き合ってるわ。でもね、彼、無駄に大きいばかりで全然大したことないんだもの。その点、フレッドは私の良い部分を熟知しているし、淡泊過ぎず、かと言ってしつこくないから、また寝たくなるのよね。フランクとは比べ物にならないわ」
「そりゃ、お褒めの言葉をどうも」
辛辣で品のない台詞を平然と言ってのけるシエナに、フレッドは呆れ半分で投げ遣りに言葉を返した。身体の相性こそは良いものの、シエナの含みを持たせた言動を取る部分がフレッドは余り好きではない。
そう言えば、シエナはエイミーと同い年だったような。
露骨に性的な話題に対して適当に相槌を打ちつつ、苦笑いを浮かべるのみのエイミーとは大違いだ。
「……まぁ、いいわ。そういうことだから、今夜付き合ってくれない??」
「結局それが言いたかったのかよ」
「ギグはもう終わったんだし、今から抜け出しても問題ないでしょ??それとも……」
シエナの青い瞳が鋭く光り、口許に妖艶な笑みを湛える。
「最近、彼女ができたって話は本当なのかしら??」
「何であんたが知ってるんだよ、誰から聞いた??」
「さあ??一体誰でしょうか??てゆうか、別に誰だって良くない??不都合でもある訳??」
「…………」
「確か、バブーシュカっていう、しょぼいライブバーで働いている子だっけ??一回だけ行ったことあるし、一応面識あったりして。髪の色と胸だけは派手だけど、なんか地味な子よねぇ、ああいうのが好みな訳……」
「だから??それこそあんたには関係ないだろうが。大人しく黙ってりゃ、好き勝手言いたい放題言いやがって……」
努めて冷静に振る舞ってはいるものの、怒りに満ちた薄灰の双眸に気圧されたシエナはすぐさま言葉を飲み込んだ。
「悪いが、今夜は付き合えない。と言うより……、あんたとは今後関わる気が失せた。二度と連絡してこないでくれ」
「あっ、そ……。彼女が出来た途端、私はもう用無しって訳なの。よーく分かったわ!あんなつまんない女で貴方が満足できるなんて到底思えないけどね!!」
シエナのヒステリックな叫び声が通り一帯に反響し、たまたま近くを通りががったカップルがギョッとした顔でこちらを振り返った。構わず、シエナはラバーソウルの靴底で地面を蹴りつけるような、乱暴な歩調で足早にフレッドの前から去っていく。
遠ざかっていく背中を冷ややかに見送りながら、二本目の煙草に火をつけようとして、手を止める。
「おい、ルー。隠れてないで出てこいよ。覗き見なんて趣味が悪いぞ」
「ひどいな、覗いていた訳じゃないのに。君に声を掛けるタイミングを計っていたら、先に痴話喧嘩始めたのはそっちじゃないか」
壁から背を離し、入り口から地下に続く階段を覗き込む。
フレッドの視線の先――、階段の途中で身を潜めていたリュシアンは抗議しつつも階段を上ってくる。
「エドがさ、『いつまでも一人で黄昏れてないで、観に来てくれたお客の相手しろよ』って文句たらたらだったから呼びに来たんだけど」
フレッドの隣までくると、リュシアンは頭一つ分低い位置から彼を見上げた。榛色の大きな瞳に何もかもを見透かされている気になり、さりげなく視線を逸らす。
「あぁ……、そりゃ悪かったよ。すぐに戻る……」
「でも、やっぱやめておくよ」
「あ??」
にこにこと穏やかに微笑む幼い顔と、着崩したモッズスーツがひどくアンバランスだったが、それ以上に何か企んでいるのでは、とフレッドは訝しんだ。
「エドにはうまく言っておくし、今からでもバブーシュカに行ってきなよ。機材の片付けもとっくに終わっているから別に抜け出したって問題ないでしょ」
「はぁ??でも、この時間からだとライブどころか閉店時間ぎりぎりに到着しそうだし……」
「じゃ、何でさっきの彼女のお誘いを無下にしたのかな??」
「何でって……」
エイミーを馬鹿にされて腹が立ったから――、と答えかけて、言葉を詰まらせる。
本当にそれだけなのか、たったそれだけのことで、シエナとの関係をあっさりと断ち切ってしまったのか。
そう言えば、エイミーと週二回会うようになってから、他の適当な女と夜を過ごす習慣がなくなった。
偽装とはいえ恋人の真似事をしているから??本当にそれだけが理由――??
「あれ、ひょっとして今まで無自覚だった訳??」
「…………」
「そっかぁ、ま、いいや。時間に間に合うかどうかは置いといて、フレッド、君はどうしたいの??」
「……行く……」
「え??」
「……ルー、悪いけど、エドを上手く宥めておいてくれ」
フレッドは壁に立て掛けていたギターケースを素早く手に提げ、足早にべニューを後にした。
最寄りの地下鉄駅まで一〇分、バブーシュカまでは地下鉄で二〇分以上かかるし、運行が遅延していれば更に時間がかかる訳で。ライブ後の半端ない疲労感を抱えた状態だと少し厳しいものがある。
シエナやリュシアンが変に煽ってきたからいけないんだ、と、胸中で二人に悪態をつく。身体の芯が妙に熱い気がするのは疲労だけのせいじゃない。
あの子に会いたい。
あの子の顔が無性に見たくて堪らないと、逸る気持ちがそうさせていた。
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