第25話 マイ・アイロン・ラング(2)

(1)

 

 約三年の月日が流れ、フレッドとエドは志望大学に進学、順調に学生生活を送っていた。




 構内の売店で買ったサンドイッチとコーヒーを手に、一緒に買った煙草をシャツの胸ポケットに押し込み、同じフロアのイートインコーナーに移動する。他の階にはワンフロア分の広さを誇る大食堂もあるけれど、フレッドが足を運ぶことは滅多になかった。

 ビュッフェ形式の学食は種類も豊富で美味しいと評判だが、常に混雑しているし、騒がしい。どの席にどこのグループの誰が座るか、暗黙の了解の内に決まっているので、限られた空席を探して確保する手間もかかる。

 大食堂の利用者は女子学生が多く、昼休憩の間中居座ってお喋りに興じ続けるため、途中で席が空くことも少ない。その点、時間帯やタイミングにもよるが、イートインコーナーは比較的空いている。

 男女の比率はよく分からないが、大抵の利用者は一人、もしくは二、三人の少人数グループで、食事が済むと同時に席を立つ。席の回転が速い分、例え満席だったとしても左程待たなくてもすぐに席が空く。

 食後に一服するには中庭まで移動しなければならない分、余計に食事などに時間を掛けたくない。食事よりも喫煙の方が、フレッドの中の優先度は高かった。


 しかし、そのイートインコーナーも、今日に限ってはいつもより混雑していた。

 コーナー内をパッと見渡したところ、十五席設けられたテーブルの内、少なくとも二人掛けの席は埋まっているように見える。

 空いている四人掛けの席に座るか、などと逡巡していると、後ろから背中を軽く叩かれた。気軽にフレッドの触れてくる者など、大学内に限ってならばエドの他にはしかいない。


「コルネリウス」


 振り返ったフレッドより頭一つ分低い位置で、やや癖のある明るい茶髪の少年、リュシアン・コルネリウスは、まだあどけなさが残る顔で柔らかく微笑んだ。リュシアンとフレッドに気付いた周囲から視線がさりげなく寄せられる。


「君とここで会うなんて珍しいよね。とりあえず、奥のあそこの席空いてるから座ろうよ」

「あぁ」


 二人はちらちらと送られる視線と席の間を通り抜け、最奥の四人掛けの空席に対面で座った。


「何だよ??」

 肩から下ろしたリュックを隣の席に置いていると、リュシアンの視線を感じ、眉を寄せる。リュシアンは紙パックのジュースにストローを刺しつつ答える。

「いや、相変わらずオールドマン君は注目されやすいなぁ、と思って」

「俺だけのせいじゃないと思うけど」


 この大学では少数派の低位中流ロウワー・ミドル出身、整った容姿ゆえにフレッドは周囲の注目を浴びやすい。一方のリュシアンは移民家系(厳密に言えば、彼自身は生まれも育ちもこの国だが)ながら、十五歳で飛び級してきた秀才と名高かった。

 ここで更に、一九〇㎝を優に越える高身長のエドが加わることで益々目立つことになるのだが。


「今日はモリスン君と一緒じゃないんだ」

「あいつとは学部が違うし、普段は別行動が多い。まぁ、大方、彼女と一緒にいるんじゃないか??」

 パサついたローストチキンとしなびたレタスのサンドイッチを齧り、コーヒーで流し込む。

「あれ、この前別れたって聞いたような……」

「またヨリを戻したらしいぜ??」

「へぇ、良かったじゃない!」


 ストローを咥えながら我が事のように喜ぶリュシアンとは対照的に、フレッドは眉を顰めてみせる。自然と顔つきが渋くなったのはコーヒーの苦みだけのせいじゃない。

 現在、エドは同じ学部の同級生と交際中だが、所謂パーティーガールタイプの派手な女性で、極度の我が儘かつ浮気性なのだ。


「ちっとも良くない。この一年近くの間に別れるだのくっつくだの、ぎゃあぎゃあと何回騒いだことか……。言っちゃあ悪いが、あんな尻軽女のどこがいいんだか、俺にはさっぱり分からない」


 同学年とはいえ十六歳の少年に話す内容じゃない気がするが、年齢と幼い外見に反し、リュシアンは妙に達観したところがあった。

 心理学を専攻する影響なのか、はたまた元からの性質か――、正直な話、十九歳の自分やエドよりも精神的に大人だと思う。当のリュシアンは榛色の大きな目を細め、まぁまぁ、と苦笑いを浮かべている。


「恋愛感情は時に理性や自尊心を麻痺させるし、ある意味、違法薬物やお酒以上に常習性と依存性が高くなる」


 だから厄介なんだよ――、と、舌打ちしそうになるのを堪える。

 チェスターとジルのように尊敬し支え合う、支え合うために自己を高める――、互いの成長を促す建設的な関係ならともかく、恋に恋するだけの盲目的な感情に、フレッドは強烈な忌避感を抱いていた。

 当人同士だけで恋の沼に溺れるのは勝手にすればいいだろう。

 助けを求める体で沼の中に他の者まで引きずり込まなければ――、そう、あの女アビゲイルのように。あの女みたいには、絶対になりたくない!


 未だ冷めやらぬ、アビゲイルへの憎悪とも似た嫌悪が端を発し、フレッドは未だ恋を知らなかったし知ろうとも思わなかった。女性経験もそれなりにあるが、身体だけの割り切った関係に留めている。


「まあ、そんな話はどうでもいいとして」

 気を取り直すように、サンドイッチの包み紙をくしゃくしゃに潰しながら話題を変える。リュシアンもジュースを飲み終わったらしく、ストローを紙パックの中へ押し込んでいた。

「再来週の定期ライブ、エドは出てもいいって言ったが、コルネリウスはどうなんだ??」


 週末に入ると、大学の敷地内では様々なイベントが開催される。その内の一つに、屋外の講堂を使用した野外ライブが毎週末行われていた。

 大学の学生バンドだけでなく外部のアマチュアバンドも交えてのライブイベントに、フレッドとエドがアコースティックギターとカホンのユニット形式で何度か出演したところ、偶然彼らのライブを観たリュシアンから『ベースで加入させてくれないか』と声を掛けられたのだ。

 それからというもの、バンドの練習やライブを通して、フレッドとエドはリュシアンと少しずつ交流を深めている。


「確か土曜日だっけ??その日なら空いてるよ。練習は何回くらい入る??今週は他でサポートするバンドの練習とライブが一本入ってるから空いてないけど……、来週後半以降なら、今のところ平日の夕方だったら大丈夫」

「そうだな……来週は俺もエドもテスト週間だから、ちょっとギリギリになるが再来週の月曜か火曜辺りどうだろう??」

「了解。とりあえず、モリスン君とも相談した上で練習日決めたらさ、メールもらえるかな??」

「あぁ、分かった」


 フレッドの返事が合図かのように、二人は同時に椅子を引いて席を立つ。


「じゃあ、僕は午後からも講義があるから、もう行くよ。君は今日、午前だけだったっけ??」

「あぁ、そうだ。中庭で一服した後、借りた本を返却するついでに図書館で自習するつもり……??」


 ここでフレッドは、肩に掛けようとしていたリュックサックを腕に抱え直し、ファスナーを素早く下ろした。

 焦った様子でリュックの中を掻き回すフレッドを、リュシアンは不思議そうに見つめている。


「……しまった……」

「急にどうしたの」

「肝心の本を、寮の自室に置いてきちまった……」


 言うが早いかフレッドは、リュシアンへの別れの挨拶もせずにイートインコーナーから飛び出した。







(2)


 大学構内から学生寮の自室に本を取りに行き、すぐにまた構内の図書館へと足を急がせる。

 フレッドが借りた本の返却期限は今日の十三時まで。

 大学の図書館では期限の日にちだけでなく時間も超えると、2ポンドの罰金を支払わなければならない。小銭とはいえ仕送りで生活を賄う学生には少なからず痛い出費だ。


 擦れ違う人達にはぶつからないよう気を配りつつ息を切らして廊下を渡り、図書館へと続く煉瓦と石を組み合わせた階段を駆け上がる。黒檀製の重厚な扉を開き、扉からしばらく真っ直ぐ進むと貸出/返却カウンターが見えてきた。

 精緻な彫模様と金細工が施され、照度類の光で艶々と黒光りするカウンターに座る女性職員に、借りていた本を差し出す。黒に近い、濃いグレーのジャケットを着た妙齢の女性職員は、本の情報をバーコードリーダーで確認する。


「貸出期限は今日の十三時まで。期限より一〇分遅れての返却だから、罰金2ポンド払ってください」


 女性職員は、メタルフレームの眼鏡越しにフレッドを冷たく一瞥し、事務的に告げた。

 たかが一〇分程度の遅れであれば、職員によっては見逃してくれることもある。

 しかし、とにかく規則厳守で対応が冷たいと、専ら学生間で評判のこの女性職員に当たってしまった以上、大人しく罰金を払うしかない。無論、返却期限をオーバーしたフレッド自身が悪い訳で文句を言うつもりはさらさらないけれど。

 分かりました、と首肯し、リュックから財布を取り出す。だが、ここで新たな問題が浮上する。

 煙草とサンドイッチ、コーヒーを買った時に、5ポンド札と共に2ポンド硬貨も使ってしまい、財布に残っているのは20ポンド札とペンス硬貨数枚だけだった。


「……20ポンド札で払ってもいいですか??」

「20ポンドですって??買い物でもして、10ポンドか5ポンド札に崩してきてくれます??」


 遠慮がちに尋ねてみると、露骨に嫌そうな顔をされた上で拒否された。仕方がないので、もう一度売店まで戻り、適当に何か買うか。


「あの……、私、ちょうど2ポンド持っているわ」


 突然、涼やかな美しいソプラノが背中に降ってきた。

 初めて聴くのに、とても耳に心地良い声につられて振り返れば――


 爽やかな初夏の空を想起させる、澄み切った青い瞳に一瞬で惹きつけられた。

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