第26話 マイ・アイロン・ラング(3)

(1)

 

 この日、久しぶりに学生寮から実家の近くまで出てきたフレッドは一軒のカフェに立ち寄っていた。


 カフェやレストランに一人で入店する際、フレッドは必ず屋外のテラス席を選ぶ。(個人経営の飲食店含め公共施設内での喫煙が法律で禁止されているから)しかし、この日のフレッドは珍しくテラス席ではなく屋内の禁煙席を選んでいた。

 入り口の自動扉を潜ると正面に細長いカウンター、カウンターの手前には二人掛けのテーブル席が縦列に三脚並ぶだけの店内には、60‘sROCKをボサノバ風にアレンジしたBGMが流れている。週半ばの平日午後の店内に客はほとんどなく、カウンター席後方に常連客が二、三人座っているだけ。

 店主はカウンターの中から身を乗り出すようにして、常連客達と共にカウンター中央にあるテレビを観ていた。フレッドが立つ入り口からは見えないが、漏れ聞こえる音声からサッカーかフットボールの試合でも見ているのだろう。


「いらっしゃい、空いている席ならどこでもどうぞ」


 視線を画面から離さず、店主はフレッドに声をかけた。特に応えることもせず、フレッドは扉に一番近いテーブル席に腰を下ろした。

 椅子に座りがてらすぐ傍の窓硝子越しに外を窺ったが、待ち人の影はまだ見当たらない。重い腰を上げて注文を取りにきた店主に紅茶を頼み、腕時計で時間を確認する。

 約束の時間まで後数分あるし、基本的には遅刻なんてしない。腕の良さだけでなく時間厳守する点も、顧客に信頼されているくらいだから。

 地下鉄の時間の都合だったとはいえ、自分が早く到着してしまっただけ、などとぼんやり考えていると店の自動扉が開いた。自動扉から入ってきた人物に、暇そうにテレビを観ていた他の客達はすっかり目を奪われていた。


 亜麻色の前下がりのショートボブも、細身のパンツがよく似合うスタイルの良さも九年前からちっとも変わっていない。変わったことと言えば、靴がスニーカーからローヒールのパンプスになり、左手の薬指に指輪を嵌めていることか。

 フレッドは自動扉の前できょろきょろと店内を見回すジルに「母さん」と呼びかけた。

 は??という声がカウンターから漏れてきたが、この手の反応にはもう慣れ切っている。フレッドに気付いたジルは彼が座る席へと足早に近付いていく。


 九年前のクリエイターズショーから程なくして、ジルはモデル業を辞めて美容系の専門学校に入学。二年程学校に通った後、チェスターの店で働き始め、今では出張仕事を一人で任されるまでになっていた。

 仕事だけでなく、ジルとチェスターは家族ぐるみでの交際を経て、三年前、フレッドの中学セカンダリースクール卒業を機に籍を入れたのだった。


「ごめん、もしかして大分待った??」

「いや、ちっとも??俺が時間より早く来ただけで別に問題ないし」


 傍から見れば、年の離れた姉弟にも女性の方が少し年上のカップルにも見えなくない二人が、実は義理の母子だなんて誰も予想だにしないだろう。


「……そう、じゃあいいけど。あと、テラス席じゃなくてもいいの??」

「禁煙成功者の前で吸う程無神経じゃない」

「ふーん。我慢できるんだったら、いっそのこと止めればいいじゃない。そういうところばっかりチェスターに似てきて」

「父さんはまだ吸ってるのか??」

「だいぶ本数は減ったけどね。というか、強制的に減らさせた。歳考えなよって」

「相変わらず辛辣……」


 ジルはフレッドの紅茶を持ってきた店主に「私も紅茶で」と注文する。


「まぁ、母さんの口から辛辣な言葉が出るってことは、父さんは元気なんだな」

「お蔭様でね。アガサさんも元気にしているわ。勿論、マシューもね」


 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、弟の名前が出てきた途端、フレッドの表情が僅かに翳る。

 約一年前、小学校プライマリースクールから中学校への進級を機に、チェスターは思い切ってアビゲイルと別れた経緯をマシューに説明した。以来、何となくだが、フレッドとマシューとの兄弟間に流れる空気は微妙なものに変わってしまった――、というより、主にフレッドの中の罪悪感がそうさせていた。

 自宅から通える距離にも拘わらず、フレッドがわざわざ学生寮に入寮したのはマシューへの遠慮があってのことだった。


「あの子、気にしてるよ」

「何が??」

「あんたが大学入ってから、家に寄りつかなくなったこと」

「……別に、勉強と趣味で忙しいだけさ」

「あんたと会うって話したら、ぜひ伝えてくれって言われたんだけど。『中学入ってから勉強が難しくなってきて、特に数学が苦手で困ってるんだよ』ってさ。ほら、美容師目指すなら中学レベルの数学はできなきゃいけないからね」


 チェスターとよく似た顔で朗らかに笑う弟の顔が脳裏に浮かぶ。

 真実を知ってさえも尚、『兄ちゃん、兄ちゃん』と纏わりついてきた幼い頃同様、自分を慕ってくれるというのか。


「…………俺、文系だけど。中学程度の数学なら、教えられなくなくもない、と、思う…………」

「……じゃ、いつでもいいから、教えてやってよ」

「…………わかった…………」

 辛うじてジルに応じると紅茶を口に含み、胸に去来する多くの感情と共に胃に流し込む。

「口に出さないだけで、チェスターもあんたの顔を見たがってる。『長男とデートしてくる』って言ったら、羨ましそうな目で見られた……って、ちょっと、大丈夫??」


『デート』という言葉を聞いた瞬間、危うく紅茶を吹き出しそうになった。


「……普通に『会ってくる』って言えばいいだろ……」

「『相談したいことがある。内容は誰にも言わないで欲しい』だなんて、意味深な誘い文句で私の携帯にかけてきたのはどこの誰よ??」


 口許を抑えつつ、姉のような義母を軽く睨むが無駄な抵抗でしかない。

 チェスターですら敵わない相手に自分が勝てる筈などなく、否、昔からジルには決して抗えない何かを感じていた。


「それで、私に相談したい事って何なの」


 薄青の双眸に真っ直ぐに見据えられ、たじろいだのも束の間。

 実は……、と、遠慮がちにフレッドは話を切り出した。 










 

(2)


 突然差し出された2ポンドは、この時のフレッドにとっては喉から手が出る程欲しいものだったが、見ず知らずの他人、しかも一瞬見惚れてしまう程美しい女性に差し出されたとなると、また話は別になる。よって、厚意を固辞するフレッドと女性とで軽い押し問答がしばらく行われた。

『他の利用者の迷惑になります』と件の女性職員に咎められたことで、結局は女性から(非常に不本意だが)2ポンド借りる羽目になってしまったが。


「じゃあ、私はこれで」

「待ってください」

 罰金の支払い後、フレッドが本を返却するのを見届けると、カウンターから離れかけた女性を反射的に呼び止める。女性は動きを止めて周囲へと視線を巡らせた後、フレッドをそっと見上げた。

「とりあえず……、ここから出ましょうか」

 視線で入り口を指し示され、大人しく女性に従って重厚な扉へと進んでいく。

 華奢な背中でふわふわ揺れる黄金色の巻毛を何となしに見つめて進む内、いつの間にか図書館の外廊下に出ていた。

「ね、見て!」

 入り口の扉正面に続く外廊下へ出るなり、女性は声を弾ませて窓を指差す。言われるままに扉の左側、真四角の大窓に視線を移してみる。

「たぶん、もうすぐ雨は止むわ」


 フレッドが本を取りに学生寮へ急ぐ途中、空は雨雲に覆われ始めていた。幸い、雨が降り出したのと寮から構内に戻ったのと同時だったので、雨に濡れることはなかったが。

 そして今、空全体を覆っていた雨雲の間から青空が見えている。まるで、隣に立つこの女性の瞳の色のような――


「あの……、ありがとうございました」

「いいのよ、気にしないで。それにしても、彼女に当たったのはちょっと運が悪かったわね」

「いえ……。貸してもらったお金、必ず返しますから。貴女の名前と、できればどこの学部所属なのか、教えてもらえませんか。俺――、僕は、人文科学部一年のアルフレッド・オールドマンです」

「いいけど……」


 一瞬だけ女性が眉を潜めたのを、フレッドは見逃さなかった。

 オールドマンの姓から、彼が低位中流ロウワーミドル出身だと察したのか。

 彼女の服装、身に付けている装飾品、訛りの少なさから推測するに間違いなく中位中流ミドルミドル階級以上、己よりも格下の階級の者に気安く(勿論、フレッドにそのつもりは一切ないが)距離を詰められ、不快に感じたかもしれない。

 それにしても、自分はなぜ、彼女の些細な態度でこうも焦りを覚えているのか。


「別に、ナンパとか妙な下心なんてないし……、借りたものを返すのは当然だと思ってのことで……!」

「……ぷっ!あはははは!!大丈夫よ、誰もそんな風には思っていないわ。だから、ムキになるのはやめましょ、ね??えっと、オールドマン君、だっけ??」

「……はい」


 穴があったら入りたい。むしろ、いっそのこと永久に埋めて欲しい。

 笑いながら宥められ、羞恥で身悶えたいのを堪えつつ俯きがちに返事をする。


「私は音楽学部三年のナンシー・アレンよ。よろしく。貴方のことは以前から知っていたわ」

「え??」

「講堂での定期ライブに時々出演しているでしょ??」

「はい」

「実は私、貴方の歌が好きなのよ。曲名は分からないけど、『自ら作り出す 暗闇の中から逃げ出そう』っていう歌詞の曲……、理論上では小節数がおかしい部分はあるし、いつもはそういうのが気になって仕方ないのだけど……。気付いたら、曲が持つ力に引き込まれていたわ。そうね、貴方の曲はジ×ン・レ×ンに通じるものがあると思うの!」


 レ×ンの例えは余りに言い過ぎだろうと内心で苦笑しつつ、一方でナンシーに自作曲を絶賛されて悪い気はしなかった。普段であれば、大袈裟な賞賛など鼻白むだけなのに。


「やっぱり、2ポンドは返さなくてもいいわ。その代わり、今からカフェでお茶でもしましょう??大学のカフェテリアじゃなくて、もっと別のところ……、私の家の近くにマリアージュフレールの紅茶を扱っているカフェがあるの。ちょっと大学から離れるけどいいかしら??」


 一瞬見せた難しい顔付きは見間違いだったんじゃ、と疑いたくなる程軟化したナンシーの態度に酷く戸惑う。他の女であれば警戒心が一気に跳ね上がり、後日2ポンドを返す約束だけをして誘いを断るだろう。

 しかし、この時のフレッドはそうしなかった。

 ナンシー同様、彼もまた彼女がどんな女性なのかもっと知りたかったから。

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